13-2
――知らない天井だ。
そう気づいて、ぼうっとしていた意識が瞬時に覚醒する。はっと身体を起こすと、景色がぐるりと回転した。
耐えきれず枕に頭を戻す。すると、見知った顔がひょこりと私をのぞき込んだ。
「大丈夫。病院だ」
「病院……」
「睡眠薬を飲まされただろう。めまいとふらつきはその副作用だ。命に別状はない。落ち着くまで少し休みなさい」
私をのぞき込んだ赤猫が、まるで医者のような口調で言った。
私は病院の個室のベッドに寝かされているようだった。窓にはクリーム色のカーテンが引かれて、ドアはぴったりと隙間なく閉まっている。
病室は、現実から隔絶されたような静けさにつつまれていた。
ドアの外でカラカラと台車が転がる音がして、人の気配を感じると、ようやく自分が今ここにいるという実感が湧いてきた。
――どこまでが夢で、どこからが現実だろう。
はっきりとわからないのに、赤猫の顔を見たらひどく安心した。思わず泣きそうになって、私は布団を鼻の上まで引きあげた。
「先輩」
物音がして、静かな足音で岩亀さんが入ってくる。
岩亀さんは私を見ると、ぎこちなく微笑みを浮かべた。
「具合はどう?」
「大丈夫です」
よく見ると岩亀さんの肩のあたりのシャツが破れて、わずかに染みになっている。血の
はっとして、東と組み合う岩亀さんの姿を思い出した。あれは現実だったのだ。
「土田くんは大丈夫か?」
「さっき目が覚めました。CTも異常ないそうです」
赤猫の質問に、岩亀さんが穏やかに答える。
二人のやりとりを聞きながら、私はゆっくりと身体を起こした。いくぶん視界が揺れるような感じだが、さっきほど強いめまいはしない。
「土田さんになにかあったんですか」
「あいつ、頭殴られて気絶してたんだよ」
「えっ、じゃあ東は……」
すっと赤猫のスマホが視界に割り込む。ニュース動画のようだ。
テロップに「誘拐犯逃亡、ナイフを所持」の文字が表示されている。続いて警察が森や道路を捜査する様子と、犯人の特徴が映し出された。
「警察官一人負傷、病院へ搬送」……土田さんのことだろうか。
「車は乗り捨てたままだし、遠くへは逃げられないと思うんですけどね。やっぱり、俺があのとき……」
岩亀さんが気落ちした声色でつぶやく。自分のミスで東を取り逃がしたと思っているようだ。
「忍野さんに感謝するんだな。がむしゃらは結構だが、命は等しく一人に一つだ」
「……」
赤猫に言われて、岩亀さんがしゅんとうなだれる。
私は、ほんの一瞬目に焼き付いた岩亀さんの横顔を思い出した。私は岩亀さんのおかげで難を逃れたが、素人目に見ても、あのときの岩亀さんは明らかに冷静さを欠いていた。
忍野さんが駆けつけて制止しなければ、凶器を持った東に丸腰で挑んでいたかもしれない。赤猫はそれを指摘しているのだろう。
「
「……はい」
ニュース動画が終わって、赤猫が端末を引っ込める。
「あの、岩亀さん。その怪我」
「全然、大したことないよ。ちょっとかすっただけ。美沙緒ちゃんが教えてくれたから」
私が怪我を案じると、岩亀さんは気を取り直そうと明るい声色で言って、負傷したほうの肩をまわしてみせた。言葉通り、かすり傷のようだ。大きな怪我にならなくてよかった。
「妹さんは怪我もないし、今は落ち着いてる。女性巡査が聴き取りしてるみたいだったよ」
岩亀さんが沙奈絵の様子を報告してくれる。私が頷くと、赤猫が私のスマホを差し出しながら切り出した。
「沙彩さんの聴取も終わったそうだ。とりあえずホテルに移るよう連絡した。千鶴子さんが部屋を押さえてくれたから、沙奈絵ちゃんも連れて今日はラヴァンドに泊まろう」
「わかりました」
「まあ、沙奈絵ちゃんの聴き取りが終わるまでゆっくりしていよう」
「あ、俺、飲みもの買ってきますよ。美沙緒ちゃんなにがいい?」
「コーンスープ……が、あれば」
「オッケー」と気さくに返事して、岩亀さんが病室を出て行く。
スマホで時刻を確認すると、午後九時近くになっていた。すっかり夜だ。
赤猫が窓際のパイプ椅子を引き寄せて腰かける。
そうだ、伝えなければならないことがあったと思い出して、私は少し前のめりになった。
「東が……児玉さんを殺害したと、言ってました」
「なるほど」
赤猫が顔をあげた。私の目をじっと見て、ふうと息をつく。少しも驚いた様子はなかった。
「今、君は落ち着いているか」
一体なにを言われるのだろうと思いながら、姿勢を正す。
不思議な話だが、赤猫の目を見ていると気持ちがどんどん穏やかになる。刷り込みかもしれない。
「はい」と答えると、彼はゆっくり頷いて私を見つめた。
「小山田さんが亡くなった」
「……え?」
「自宅で首を
赤猫はいつものように淡々と言った。ただ、表情は曇っているように見えた。
突然伝えられたニュースに理解が追いつかず、胸の中で何度か繰り返す。
小山田さんが亡くなった……?
「え……え、待ってください。小山田さんが……」
「遺体は今朝、奥さんが見つけたそうだ。俺も知ったのはさっきだ」
「どうして……」
言葉の意味は理解できても、実感が湧かない。
「遺書によると、大学の金を使い込んでいたそうだ。児玉さんと一緒に、去年の夏から」
「……」
「児玉さんから金の相談をされて、小山田さんが提案したらしい。横領したはいいが、そのうちに児玉さんが
赤猫の話を聞きながら、私は黙って布団のしわを見つめていた。
あのとき、慧花大のベンチで、小山田さんはそれを吐き出そうとしたのだろうか。
最後に見た小山田さんの表情を思い出して、胸が痛んだ。
私より少し大きな娘がいると言っていた。涙こそ出なかったが、ぽかんと胸に穴があいたようだ。
「じゃあ、小山田さんが事件直後に児玉さんの家を
「偶然ではないだろう」
そうだとしても、あの日、電話越しに感じた小山田さんの動揺は嘘ではなかった。
血まみれの凶器を持った父に驚き、小山田さんが通りへ逃げ出すと、父はぐったりした大翔くんを抱きかかえてその後を追った。
――救急車を呼んでくれと、言うんだ……
小山田さんは震えながらそのときの光景を語ってくれた。父は片手に凶器を握ったまま、血まみれの子どもを抱いて救急車を呼ぶよう訴え、周辺住民に取り押さえられたという。
小山田さんはその話をあるときは自然に、あるときは唐突に口にして、何度も繰り返した。よほど衝撃的だったのだろう。
――大変なことになった……
電話口で何度も聞いたその言葉は、小山田さんの本心だったのだと思う。
「東が見つかったら、全部解決するんでしょうか」
小山田さんの死に現実味はない。頭の奥にぼうっと
私がぼんやりしたままつぶやくと、赤猫は腕を組みながら自分の顎に手をやった。考えるときのポーズだ。
赤猫はその格好のまま「どうかな」と視線を斜め下に落とした。
「それは」
どういう意味ですか、と追及しようとしたところに、岩亀さんが沙奈絵を連れて帰ってきた。
岩亀さんが怖いのか、沙奈絵はジュースの缶を両手で握って身体を強張らせている。
「ちょうど終わったみたいだから、連れてきました」
「お姉ちゃん」
沙奈絵がベッドサイドに駆け寄ってくる。今にも泣き出しそうだ。
「ね。言ったでしょ。赤井さんがきてくれるって」
沙奈絵はこくこくと頷いてうつむき、ジュースを胸に抱いて両目をこすった。手をのばして沙奈絵の頭をそっとなでる。
「こんなこともあろうかと、事前に沙奈絵ちゃんに位置情報アプリをインストールしてもらっておいた。ちなみに、君のスマホにも勝手に入れた」
「えっ」
赤猫がしれっと告白する。アプリ一覧を確認すると、見おぼえのないアイコンが増えていた。位置情報の発信と受信ができるアプリのようだ。
「美沙緒ちゃんが乗ったタクシー、駅と逆方向に曲がったんだよ。追いかけたけど途中で見失って、先輩に連絡して、そのあとは位置情報を頼りに探したんだけど……」
言いながら、岩亀さんがあたたかいコーンスープを手渡してくれる。
「あったのは乗り捨てられたタクシーと携帯だけだった」
「運転手の人は」
「姿を消したまま、会社にも自宅にも戻っていないみたいだ。東と共犯なのか巻き込まれたのか、まだわからない」
岩亀さんは片手をズボンのポケットに入れて、カーテンの隙間に視線を向けた。
沙奈絵が缶ジュースを握ったままベッドサイドに立ち尽くしている。ベッドの端をぽんぽんと叩いて座るよう促すと、沙奈絵は黙ったまま斜めに腰かけた。
「タクシーに乗ったあとの記憶は?」
赤猫に聞かれて、私は首を横に振った。
「乗ったのはおぼえてるんですけど」
「食事に睡眠薬が混ざっていたんだろうね。少し前に入ったアルバイトが姿をくらましたらしい」
カーテンの隙間を見つめながら、岩亀さんが缶コーヒーに軽く口をつける。捜査は着々と進んでいるようだ。
点と点が少しずつ
「全部、東が計画したんでしょうか」
私は誰にともなく聞いた。
「……」
岩亀さんは横顔を向けたまま、赤猫は腕を組んだまま、二人とも無言だった。
どうして黙っているんだろう。まだ断定できる状況ではないのだろうか。
私が手もとのコーンスープに視線を移したとき、ぐうう、と大きな音で誰かの腹が鳴った。
赤猫がジトッとした目で横に視線を送る。岩亀さんの横顔を見上げると、やけにキリッと引き締まっていた。
「腹減りましたね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます