13-1

十三


 深い泥沼に沈んでいる。声が出ない。手をのばして、でものばしたところで引いてくれる人はいない。ゆっくりと黒い泥に飲み込まれながら、私は窒息を予感した。


――苦しいのは、嫌だな。


 仰向けになった私の口もとまで、もう泥に沈んでいる。もはや成す術はない。

 少しの我慢だ、と思った。息さえとまってしまえば、きっと眠るのと一緒だろう。風邪で寝込んだとき、ひどくつらいのに気づいたら眠っていた、あの瞬間と同じだ。

 苦痛はいつか終わる。それまで耐えれば必ず終わる――


「……」


 全部沈んだところで目が覚めた。夢だ。

 ウトウトするどころか、ぐっすり眠ってしまったらしい。そろそろ駅につくだろうか。床がかたくて身体が痛い――起きあがろうとしてバランスを崩し、私はほこりっぽい絨毯じゅうたんに倒れ込んだ。


 はっとして周囲に目を配ると、薄暗い部屋の中だった。割れた窓からのどかな春の陽射しが差し込み、すすけた室内に陰影を落としている。

 うしろ手に、両手首をロープかなにかで縛られているようだ。でも両足は自由だった。まだ夢を見ているのか、と思いながら手を使わずに身体を起こした。

 とん、と、背中があたたかく華奢きゃしゃなものに触れる。


「お姉ちゃん……」


 はっと振り返ると、沙奈絵が両膝を立てて座っていた。やはり手をうしろにまわして、縛られているようだ。


「沙奈絵」


 カビとほこりのにおいに思わず咳き込む。これは夢なのだろうか。

 振り返ると部屋には鏡台とベッドがひとつ、それから白い箱のようなものが窓際で錆びついている。空調機器だろうか。子どものころ、古い旅館に泊まったときに見たおぼえがある。


 内装からホテルの一室だと思われた。ただし、廃墟はいきょだろう。

 立ちあがって窓の外をのぞき込むと、三、四階程度の高さがあるようだった。飛び降りるのは無理だ。


 またむせる。


 駅へ向かおうとタクシーに乗って、そこから先の記憶がない。運転手の顔を思い出そうとしたが、年配の男性だったことくらいしかおぼえていない。


「どうしてこうなったか、わかる?」


 私は沙奈絵に向かってささやいた。私を縛って床の上に転がした人間がそばにいないとも限らない。

 沙奈絵は怯えた瞳でこくりと頷き、声をひそめてささやき返した。


「東さんが、しばったの。ここで大人しくしていなさいって……」

「どうして」

「……」


 沙奈絵がうつむいて首を横に振る。


――東くんは、私を恨んでいるんです。

――復讐だから、やってほしいって……


 父の言葉と、怯える柴田の声が頭の中で結びついた。

 復讐は、つまり、児玉さんの遺族ではなく、東から父への復讐ということか。


「お母さんは?」

「おうち……。私、東さんにお出かけしようって言われて、きたの」


 東が父に罪を着せようとしているなら、私たちを使って自白を強要するつもりだろうか。じゃあ児玉さんを殺したのも……?

 関係ない誰かの命を奪ってまで、父に汚名を着せたかったのだろうか。浮気性の女を一人取られたくらいで?

 せわしなく思考しながら、ポケットにスマホの気配を探す。もちろんない。眠っている間に取りあげられたのだろう。


 そういえば忍野さんと岩亀さんがタクシーのうしろをついてきていたはずだから、時間さえ稼げば助けてもらえるかもしれない。


 いや。途中で巻かれた可能性もあるか。


「東がどこに行ったか、わかる?」


 聞くと、沙奈絵はふるふると首を横に振った。

 耳をすましても聞こえるのは小鳥のさえずりだけで、ほかに物音はしない。


 逃げるか逃げないかの二択を迫られながら、私は縛られた手首をこすり合わせた。かなりきつく縛られていて、簡単にはほどけそうにない。


「沙奈絵、こっちに背中向けて」


 沙奈絵と背中合わせに座ろうとして、ふらつく。手首を縛られてバランスが取りづらいのはもちろんだし、睡眠薬でも飲まされたとしたら、まだ効果が残っているのかもしれない。


 沙奈絵が背中を向けるのを待って、私は沙奈絵を縛るロープの結び目をうしろ手に探った。麻紐あさひもだろうか。ビニールとはちがう、ざらざらした手触りだ。

 かたい結び目を探り当て、少しずつほぐしながら、逃げるか逃げないかを再び考えた。


 足は縛られていないから、手首の拘束さえとけばいい。でも足を縛らないということは、歩けても逃げられない状況なのかもしれない。現に窓からの脱出は不可能だし、ドアが開かなければ万事休すだ。


 それとも逃走を前提にした拘束だとしたら? 私たちが逃げ出すのを見越して罠を張っていたら……いや、それは考えすぎか。ホラー映画じゃあるまいし。


 ……いや。児玉さん一家を手にかけたのが東だとしたら、ありえないとも言いきれない。猟奇りょうき殺人や連続殺人は現実にも起こり得るのだ。


 無理な体勢のせいもあって、すぐに手が痛くなってくる。それでも私は、根気強く結び目をほどこうと試み続けた。

 やっとの思いで結び目がゆるむと、沙奈絵の細い手が上手いことロープから抜けた。


 沙奈絵はすぐに振り返って、私の拘束をほどこうとした。


「お姉ちゃん、私、電話もってる」

「本当? じゃあ……」


 警察に、と言いかけて考え直した。


「赤井さんに電話して。今すぐ」

 一一〇番したとして、自分たちがどこにいるか伝えようがない。警察より赤猫のほうが話が早いし、最悪の事態になったとしても骨は拾ってくれるだろう。


「このひもかたいから、電話が先」


 沙奈絵の力でこの結び目がほどけるかわからないし、先に助けを求めたほうがいい。そう判断した私は、ためらう沙奈絵を促して端末を取り出させた。ジーンズのうしろのポケットに入れていたようだ。シャツに隠れていたから、気づかれなかったのだろうか。


 必死にスマホを操作する沙奈絵を見守っていると、かちゃりと物音がした。ほどけた沙奈絵のロープをつま先で蹴って、ベッドの下に押し込む。


「隠して。縛られてるふり」


 ささやくと、沙奈絵がぱっと両手を背中にまわした。

 きしみながら古いドアが開く。絨毯からほこりが舞いあがった。


「なんだ、もう目が覚めたんだ」


 ドアノブに手をかけたまま東が言った。人のさそうな笑顔だった。

 十年前と比べて、ずいぶん老けた。Tシャツの上に柄の入った黒いシャツを羽織って、ひどく気だるげだ。かつてのスポーツマンふうの爽やかさはどこにも見当たらなかった。それでも中年太りとは無縁のようで、それなりにがっちりしていた。腕力では到底敵いそうにない。


 東は嬉しそうにニコニコ笑いながら、私たちのそばへ近づいてきた。こんな状況だというのに、なにがそんなに楽しいのだろう。

 触れ合った肩から、沙奈絵の震えが伝わってくる。


「大きくなったねえ、美沙緒ちゃん」


 東はポケットからたばこを取り出して、ライターで火をつけた。かがみながら口にくわえ、私の鼻先に向かって煙を吐き出す。

 私が咳き込みながら顔をそむけると、東は人懐こい顔で笑った。と思ったら、表情からすっと感情が消えた。


「沙彩に似てきた。やっぱり母娘おやこだね」


 東は私の髪をつかんで引き寄せ、たばこの火を近づけた。黙って顔をそむけていると、熱が頬に近づいてきた。

 たばこを押しつけられる予感がして、ぎゅっと目をつぶる。


「やめて、東さん。やめて……お願いします……」


 私の代わりに沙奈絵が怯えた声で懇願する。泣き出したのか、小さくしゃくりあげる音がした。

 東は短く嘲笑して、たばこを自分の口に戻した。


「ちがうなあ、そういう強情は。昔からそうだね美沙緒ちゃん。本当に巧司さんそっくりだよ」


 そう吐き捨てる東の声には、父への強い嫌悪、あるいは憎悪が宿っていた。


「……父が嫌いなんですか」

「嫌い?」


 東が声を立てて笑う。

 父を脅し、罪を着せるために私たちを誘拐したとしたら、とんだ悪手だ。東自身が姿を現した以上、これで足がつく。父が自分の犯行だと述べたところで脅迫の存在は明らかだし、首謀者まではっきりしているとなれば、いつわりの自白はいまさらなんの意味も持たない。


――嫌な予感がする。


 今まで東は自分の痕跡を残さないよう、用心深く父を追い詰めていた。児玉さんの事件を父の罪として成立させるためだろう。

 こうして堂々と悪役らしく振舞うということは、目的が変わったのかもしれない。


「あいつのせいで上手くいかないんだよ、なにもかも」


 そう吐き捨てて立ちあがり、東は鏡台にたばこを強くねじつけた。


「美沙緒ちゃんも悪いんだ。わかるかな。大人しく俺のところにくればよかったのに余計なことしてさ。こうなったのは全部、美沙緒ちゃんが悪いんだよ」


 東がポケットから折りたたみナイフを取り出して刃をのばし、もてあそぶようにひらめかす。沙奈絵が引きつった悲鳴をあげた。


 東の人生は、私が知る限り順風満帆じゅんぷうまんぱんではない。勝者か敗者かで言えば敗者だろう。少なくとも東はそう信じていて、そして彼の前にたちはだかる勝者が犬飼巧司なのだ。


 東は父に対して強い劣等感を抱いている。そして私に父の面影を重ねている。つまり彼が私を屈伏くっぷくしようとするのは、代償行為だいしょうこういなのだろう。


「武器がないと、私に勝てないんですね」

「……」


 東が無言で私を見下ろす。私はありったけの強がりで東を見つめ返した。

 もしナイフで切りつけてきたら、今の言葉を認めることになる。


 東は忌々いまいましげに笑って、ナイフを鏡台に突き立てた。大きな音がして、沙奈絵の身体がビクッと震える。


「うっ、うう……怖いよ……お父さん……」


 恐怖が極限に達したのだろう。泣きじゃくる沙奈絵が助けを求めたのは、皮肉にも父だった。

 東は一瞬顔を歪めたが、すぐに表情を取り繕い、急に優しい声になった。


「美沙緒ちゃん。二人で話そう。沙奈絵ちゃんを怖がらせるから」


 東はナイフを引き抜いて刃を折りたたみ、ポケットに戻した。そして私の肩を強く掴んだ。引きずるように立たされて、部屋から連れ出される。


「やめて、東さん。お姉ちゃんにひどいことしないで……」

「沙奈絵」


 私は振り返って、すがりつこうとする沙奈絵を制止した。

 これで赤猫に連絡できる。あとは時間を稼げばきっと、沙奈絵だけでも無事に帰せるはずだ。


 東は私と沙奈絵を犬飼巧司に見立てて、おそらく傷つけるために、ここへ連れてきた。けれど東が母――犬飼沙彩に対して愛情と呼べるような執着を抱いているとしたら、沙奈絵は犬飼巧司よりも犬飼沙彩の面影を強く感じさせるはずだ。


 さっき東は、沙奈絵が父に助けを求める声を聞いて顔を歪めた。その表情には、悲哀と嫉妬が入り混じっているように見えた。東にとって、沙奈絵は沙彩なのだ。


「大丈夫。赤井さんが助けにきてくれるから」


 沙奈絵を落ち着けようとなるべく優しい声で言うと、沙奈絵がはっとして動きをとめた。私の腕を掴む東の手に力が入って、廊下に引きずり出される。


 東は私の腕を掴んだまま、迷いなく廊下を進んだ。

 使われなくなって久しいのだろう、廃墟と化したホテルの廊下はカビくさくて薄暗かった。暗がりに白骨死体でも転がっていそうだ。


「なにがしたいんですか」


 東のうしろ頭に問いかける。返答はなかった。

 東は私を階段の踊り場に引きずり出した。4Fの表示がある。のぼり階段に向かって突き飛ばされて、頭はかばったものの、肩から倒れ込んだ。


「う……」


 段差に身体をしこたま打ちつけて、思わずうめく。


「上手く行くはずだったのに、全部台無しだ。全部、なにもかも。美沙緒ちゃんのせいでね。その責任取ってもらうだけだよ」


 東は微笑みを貼りつけて、冷たい目で私を見下ろしていた。


「全部、あなたがやったんですか」

「全部?」

「父に罪を着せるために、児玉さんを殺したんですか」


 そう聞くと、東は声を立てて笑った。


「はは! 俺は美沙緒ちゃんにそういう人間だと思われてるんだ」


 ひとしきり笑って、東が前髪を掻きあげる。

 なぜそんなに楽しそうなのか不気味だった。私は唇をきつく結んで黙っていた。


 児玉さんを手にかけたのが東でないなら、実行犯は別にいることになる。実行犯は児玉さんを殺したい、東は父を犯人に仕立てあげたい、そういう利害の一致があったとしたら……


「そうだよ」


 東は段差に膝をついて、私に覆いかぶさりながら嗜虐的な笑みを浮かべた。


「美沙緒ちゃんは昔から俺が嫌いだったね。知ってたんだ、俺がどんな人間か」


 一瞬、言葉が入ってこなかった。「そうだよ」――つまり、目の前にいるこの男が真犯人なのだ。

 顎を掴まれて、無理やり正面を向かされる。東は満足そうに口もとを歪めて、無抵抗の私を見下ろしていた。


「いつまでその目をしていられるかなあ」


 東は恍惚とした、薄気味悪い笑みを浮かべた。彼はついに私を、いや、私を通して犬飼巧司を追い詰めたのだろう。

 今の東に失うものはない。泥沼と一緒だ。ここまで沈んだら、もう抜け出せない。光のない東の瞳を見上げながら、私は東の瞳の奥に宿った得体の知れない感情の正体に気付いた。


 東の瞳には、「絶望」がおりになって沈んでいるのだ――。


「美沙緒ちゃんは、イヤとかやめてとか、そんな弱音は吐かないね。ああ、そのときは沙奈絵ちゃんに代わってもらおう。お姉ちゃんのためなら、なんでも我慢できる子だから」


 骨ばった手がスカートをたくしあげる。ぎゅっと膝を閉じて精一杯の強情で東を睨みつけた。

 すぐに殺されるのでなければ、時間は稼げる。


――大丈夫。赤井さんが助けにきてくれるから。


 沙奈絵にかけた言葉を自分の中で繰り返す。大丈夫。少し我慢すれば、必ず助けにきてくれるから。


「そんな必要もないか。すぐに気持ちよくなっちゃうからね」


 東がTシャツの胸ポケットから注射器を取り出す。ゾッと背筋が凍りついた。


「い――」


 とっさに出かかった「いや」を飲み込む。それを見て東が満足そうに笑った。

 東の左手が私の肩を押さえつける。泣き叫びそうになるのをこらえて、ぎゅっと目を瞑った。


 ふっと私を押さえつけていた東の手が離れる。


「東ッ!」


 怒声が響いて、東が立ち退いたのがわかった。目を開けると岩亀さんが東の腕を掴んで、東がそれに抵抗していた。

 揉み合いの末に東の手から注射器が落ちる。その代わりに東は岩亀さんを振り払いながらポケットに手を入れた。


「ナイフを持ってます!」


 私がとっさに叫ぶと同時に、東が手にしたナイフが空を切る。岩亀さんが身体を反らして、凶器は空振りに終わった。

 東はそのまま身をひるがえし、階段を駆け下りた。岩亀さんがそのあとを追おうとする。今まで見たことのない、ひどく感情的な横顔だった。


「待――」

「岩亀巡査部長!」


 遅れて駆けつけた忍野さんが、岩亀さんを怒鳴りつける。岩亀さんが我に返って足をとめた。


「被害者の安全確認! あいつは俺が追う!」


 息を切らして忍野さんが階段を駆け下りて行く。走りながら電話で指示を出しているようだった。


「犯人は一階に逃走、刃物を所持。建物まわりかためてくれ。おい聞いてるか。ぜえ、ぜえ……おい、土田!」


 忍野さんの声と足音がだんだん遠ざかる。嵐が去って、またたく間に静けさが戻った。

 岩亀さんが膝をついて、手首のロープをほどこうとしてくれる。


「怪我は、してない?」

「はい……」


 岩亀さんは低い声で聞いた。

 あざやすり傷くらいはできたかもしれないが、折れたりひねったりしたような痛みはない。

 やはり結び目がかたいのか、岩亀さんも苦戦しているようだった。さっきまで東と組み合っていたから、息があがっている。


「あの、沙奈絵、沙奈絵は」

「大丈夫。先輩と一緒にいる」


 縄がほどけて、両手が自由になる。


「あ――」


 ありがとうございます、と言おうとして、急に岩亀さんに抱きしめられる。東に押さえつけられた瞬間がフラッシュバックして、ビクッと身体がすくんだ。


 岩亀さんはすがりつくようにきつく私を抱いた。その腕がかすかに震えていた。ひどく呼吸が荒い。


「俺は、間に合った?」

「……はい」

「よかった……」


 岩亀さんはぎゅっと私を抱きしめて「よかった」と繰り返した。

 だんだん現実感が戻ってきて、じわじわと恐怖がよみがえってくる。私の震えに気づいたのか、岩亀さんの腕に一層力がこもった。


 岩亀さんは私の震えが収まるまでそうしていて、そのころには岩亀さんの呼吸も落ち着いていた。


「歩ける?」

「はい」


 ふらつきながら立ちあがる。身体がぐったりと重い。

 差しのべられた手を取ろうとして、ふっと気が遠くなった。

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