12-1

十二


 水曜日から週末まで、かんもどりだった。

 四月下旬の陽気が嘘のように、今度は二月上旬まで季節が巻き戻ってしまった。日曜日の今日になってやっと晴れ間が出て、予報によれば日中にかけてあたたかくなるらしい。これからしばらくは三月下旬並みの気温が続くそうだ。


 関東でも桜が咲きはじめて、来週末には満開になるという。四月はもう、すぐそこだ。


 昨日、小山田さんから赤猫に連絡があった。沙奈絵の説得を試みてくれたが、上手くいかなかったそうだ。

 沙奈絵がなぜそんなに頑なになるのか、理由は誰にもわからない。そして今度は赤井さんを頼る頼らないの食いちがいで、母と沙奈絵のあいだに溝ができてしまったようだった。

 小山田さんからの報告はそれだけで、それ以上のことは残念ながら話してくれなかった。


 そして問題の東はといえば、予想通り健全で豊かな暮らしは送っていなかった。


 東の家のまわりには忍野さんの手配で私服の警察官が配置され、様子をうかがっている。私たちを追跡して喫茶店へ入ってきた男たちはやはり東の仲間で、東の家にたびたびあがり込んで酒を飲んだり麻雀マージャンをしたり、要はだべっているらしい。

 東が定職に就いている様子はなく、借金もかさんでいるようだった。


 そして、沙奈絵がバルコニーに洗濯ものを干す姿が確認できたそうだから、もしかしたら家事を押しつけられているのかもしれない。もちろん母はやらないだろうし、東も恋人の身のまわりの世話まで焼くようなタイプではなさそうだ。


 けれど沙奈絵は東のもとに残ると主張する。東との生活が気に入っているのか、それとも、ほかに理由があるのだろうか。

 そんな沙奈絵と裏腹に、母の気持ちは東から離れはじめているようだった。東のような危なっかしい人間はときどき会うなら刺激的だろう。しかし、愛人ならともかく、家族となると話がちがってくる。


 その点、御曹司の赤井さんなら地位も財力もある。いかにも豊かで安全な暮らしを提供してくれそうだ。

 そういうわけで、さっそく昨日母から赤猫に「沙奈絵が納得してくれない」と、お困りのメッセージが届いた。


 その翌日、つまり今日は、ちょうど大家の千鶴子さんの退院の日だ。赤猫と鈴村さんは彼女を東京まで迎えに行く予定になっているから、赤猫は母に、用事の帰りに沙奈絵の説得に立ち寄る、と伝えたそうだ。

 そうして今朝、赤猫と鈴村さんは私より先に漆原邸を発った。


「帰りはここで合流しよう。俺と忍野さんも店にいるから、もしなにかあったらすぐに連絡して」

「わかりました」


 さて。私は赤猫とは別行動で、岩亀さんと一緒に埼玉県のK市を訪れている。

 岩亀さんの言葉にしっかりと頷いて、私は駅のロータリーに並ぶタクシーに乗り込んだ。


 これから市内の和食店で、弁護士の若本さんと会う約束になっている。

 駅までは岩亀さんに車で送ってもらったが、ここから私は一人タクシーで、岩亀さんは忍野さんと合流してから、若本さんとの待ち合わせ場所に向かう。


 岩亀さんも忍野さんも休日だから、職務ではなくあくまでプライベートだ。

 とはいえ忍野さんにとっては管轄内の事件だから、仕事の延長と言えなくもない。


 ドアが閉まって、タクシーが走り出す。久しぶりの単独行動だ。正直に言えば、緊張している。

 赤猫はいないが、今日は岩亀さんと忍野さんがついている。これほど心強いものはない。そのおかげか、恐怖心は薄かった。あるいは過敏になっていた神経が少しは落ち着いたのかもしれない。


 弁護士の若本さんを紹介してくれたのは小山田さんで、父の事件が起こってすぐ、伝手つてがあるからと話をつけてくれた。私たちはなにをしていいかもわからなかったし、紹介も手配もとてもありがたかった。

 けれど、小山田さんの挙動には不審が残る。


 その小山田さんが紹介してくれたのが若本さんだから、一度顔を合わせて話をしたほうがよい、と赤猫に言われて、私から打ち合わせを持ちかけた。すると若本さんも用があったそうで、母が電話に出ず困っていたところだった。


 刑事事件の弁護に定評があるというくらいだから、素人を相手にするのとはわけがちがう。赤猫の予定が合わなかったのもあるが、嘘を広げすぎるとぼろも出るし、若本さんとは私一人で会うことにした。

 とはいえ赤猫も千鶴子さんの迎えが終われば岩亀さんたちに合流して、私を見守ってくれる約束になっている。


 それまでに若本さんとの面会が終わるかもしれないし、終わらないかもしれないし。どのみち今日は私自身がしっかり目を光らせていなければならない。


 私はふうと緊張を吐き出して、スカートのしわをなでてのばした。


 くたびれた普段着というわけにもいかないので、今日は麗さんにもらった黒のジャンパースカートを活用させてもらった。花柄のワンピースより日常的で、よれよれのボーイフレンドパンツより小綺麗に見える。ちょっとしたお出かけにちょうどいい。


 窓の外に目をやると、歩道を歩く子連れの夫婦が目にとまった。両親は三十代から四十代ほどで、子どもは小学生くらいだろう。

 それを見て被害者の児玉さん一家の顔が思い浮かんだ。


 平穏が戻るほど、事件について冷静に考える時間が増えた。

 野次馬から石を投げられているあいだは、まずその石から自分や家族を守らなければならなかった。被害者の家族からなじられるならまだしも、無関係の人間からの攻撃はただの暴力でしかない。面白おかしく楽しんでいる人さえいて、他人の感情のはけ口にされている実感があった。とにかくそれにあらがわなければならず、事件を客観的にとらえる余裕はなかった。


 だから余裕ができた今になって、ふとした瞬間に、事件の痛ましさが胸を切りつけてくる。


 もちろん私は父が三人を殺めたとは信じたくない。父の立場が極めて不利だとしても、父自身がそうだと言ったわけではないのだ。間違いなく父がやったという確信は、少なくとも私の中には存在しない。

 しかし、ひとつの家族の平穏な日常が永遠に奪われたことは確かで、それだけは揺るがぬ事実なのだった。


 絵具を混ぜすぎたときのドブ色。あの色みたいな気分になってきたところで、目的地についた。

 タクシーを降りて深呼吸し、気持ちを整える。


 待ち合わせの店は個室のある和食店で、ランチであればプチ贅沢程度の価格帯のようだった。ファミレスよりはずっといい値段だが、高級店というわけではない。

 スマホで時刻を確認すると、約束の十一時までまだ十五分もあった。少し早すぎた。


「美沙緒さん?」


 呼ばれて振り返ると、若本さんだった。

 年齢は三十代中ごろから後半、ぱちっと開いた目に、はっきりした顔だちの男性――そうだ、こんな人だった。直接会うのはこれで二度目だ。


「あっ……お世話になります」


 私があわてて頭を下げると、若本さんは歯を見せて笑った。


「ちょうどよかった。さ、入りましょう」


 若本さんの背筋はピンとのびて、真面目ではつらつとした印象を受ける。ダークグレーのスーツにネイビーのネクタイをきちっとしめた姿は、熱意ある若手の政治家のようにも見えた。


 私たちが通された個室は、畳敷きの座敷にテーブルをしつらえたつくりだった。窓からこじゃれた中庭がのぞき、浅い人工池にこいが泳いでいるのが見えた。


「今日はあたたかくてよかったですね」

「はい。桜も咲いてきましたね」


 席につきながら若本さんがあたりさわりのない話題を持ち出したので、私も無難に受け答えた。


「春ですね」


 そう言いながら、若本さんが軽くネクタイを整える。

 すぐにお通しが運ばれてきて、とりあえずおたがいに箸を取った。


――小山田さんとどういうご関係なんですか。どうして知り合ったんですか。


 気になるとはいえ真っ先にする質問ではない。赤猫ならどう切り出すだろうと考えながら、結局定型文を続けてしまった。


「すてきなお店ですね。よくいらっしゃるんですか」


 父の事件について、どこでも気軽に話せる内容ではないし、どうすればいいか迷っていたら若本さんがこの店を提案してくれた。さすがに私くらいの年齢の若者が友だちとくるような店ではないから、そう聞きながら、背筋をのばした。


「よくというほどではありませんが、近くにくると立ち寄ります。静かだし、価格も思いのほか良心的でしょう?」

「普段はもっと高級なお店に……?」

「まさか! 僕だって小市民ですよ」


 若本さんはほがらかに笑った。爽やかでどことなく子どもっぽさが残る、人好きのしそうな笑顔だ。

 ネットで検索したら実刑判決を無罪にひっくり返した実績もあるらしい。弁護される側からすれば心強いし、被害者や訴える側からすれば嫌な相手とも言えそうだ。


 引く手あまたの人気弁護士が薄給なわけがない。嫌味とも取られかねないジョークだったが、不思議と角は立たなかった。

 空気を読んで少し笑うと、不意に若本さんの表情が引き締まった。


「なかなか結果を出せず、申し訳ありません」

「いえ、そんな」

「……少し前、事務所に届きました」


 若本さんが白い封筒を取り出してテーブルに置き、私のほうへ押し出した。

 宛名はラベルシールに印字されていて、差出人は書いていない。手に取って開くと、写真が入っていた。


「これ」


 私の写真だ。一枚は通学中、一枚はスーパーのバイト中、もう一枚は例の柴田たちが乗り込んできたときに撮った、暴行を偽装した写真だった。

 封筒の中身は写真だけで、文書のたぐいは入っていないようだ。


「犬飼さんにこの写真についておうかがいすると、突然罪を認めたいと相談されました。全部自分がやったというんです。けれど犬飼さんは当日の犯行を説明できません。自分でやったのに説明できない、酩酊めいていでもしていない限りそんな人間はいないでしょう。これは明らかな脅迫です」


 若本さんの真剣な声を聞きながら、私は写真を封筒に戻し、うつむいていた。

 私と赤猫が面会したのは、父が若本さんとそのやりとりをしたあとだったのだろう。だから父はあんなに動揺していたのだ。


「ですが……一昨日お会いしたときは美沙緒さんがいらっしゃったとおっしゃって、自分がやったのではないと打ち明けてくれました」


 若本さんが続けた言葉を聞いて、私は顔をあげた。


「父じゃ、ないんですか」


 震えそうになる声で聞くと、若本さんがゆっくり、はっきりと頷く。


「やっと無実の主張に前向きになってくれました。犬飼さんは脅されていて、なにも喋れなかったそうです。ただ、脅迫者の顔も姿もわからない。自分が真実を話せばご家族の身に危害が及ぶのではないかと、ひどく懸念しています」


 私は再びうつむいて頷いた。泣き出してしまいそうだった。

 膝の上に手を降ろして、ぎゅっとスカートを握る。「俺のおかげだな」と赤猫の平坦で自信に満ちた声が聞こえた気がした。


「美沙緒さん、警察には相談しましたか」

「……いえ」


 必死に自分を落ち着けながら若本さんの質問に答える。

 柴田たち青年三人に襲われかけたのは事実だが、写真自体はでっちあげだ。警察へ行こうという流れになると、まずい。


「脅されて、写真を撮られただけだったので……」


 頭をフル回転させてそうつけ加えると、若本さんは「そうですか」とかたい表情で頷いた。


「失礼いたします」


 ふすまを開けて和装の店員が入ってきて、料理を並べはじめる。若本さんが、ぱっとシャツの胸ポケットを押さえた。


「すみません、少し失礼します。先に召しあがっていてください」


 そう言って、若本さんはポケットからスマホを取り出しつつ部屋を出て行った。電話でもかかってきたのだろう。


 料理を並べ終えて店員が去って行く。私は深く息を吸って、吐いて、目の前の懐石料理をじっと見つめた。


――まだ、解決したわけじゃない。


 父がやっと否認の意思を見せただけで、無実を証明できたわけではないのだ。

 冷静になれ、と、高揚する気持ちを落ち着ける。喜ぶのはまだ早い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る