11-3
相手はすぐにくるというので、車を降りて待つことにした。まだ三月というのが嘘のようにあたたかい。少し動いたら汗ばんできそうだ。
「あの……」
車のそばに立った私たちに、一人の青年がおずおずと近づいてきた。見おぼえがあるような、ないような……
「やあ、柴田くん」
「こ、こんにちは。あの、この前は、本当にすみません、本当に……」
あ、と気づいて思わず一歩うしろに下がる。友人と徒党を組んで私を襲撃しようとした大学生だ。
柴田は黒いTシャツにチャコールグレーのチノパンという出で立ちで、やはり派手でもなく地味でもない。いや、どちらかといえば、ぱっとしない青年ではある。これと言った特徴もなく、記憶に残りづらい容姿に思われた。
「あまり近づかなくていい。彼女が怖がる」
「はい、ホントに、すみません……」
柴田青年はがっくりとうなだれて、心なしか顔色も悪かった。よく逃げ出さずにやってきたものだ。
「あの、これ、持ってきました……」
柴田が右手に下げた小ぶりのトートバッグを差し出す。赤猫はそれを受け取って、ちらりと中をのぞき込んだ。
「現金か?」
「はい。かぞえました。ちゃんと、五十万」
「相手の姿を見たか?」
「それが……あの……」
柴田が口ごもる。過呼吸でも起こしてしまうのではと思うほど、追い詰められた表情と息遣いだった。
「お、おれ、怖くて、約束の場所に行けなくて。そしたら、アパートの、玄関に」
「住所を教えたのか」
柴田は口を引き結んで首を横に振った。ひどく汗ばんで、顔も青白い。今にも卒倒してしまいそうだ。
「な、なにも教えてないんです。なのに、玄関のドアに、かかってて……メールで、受け取ったかって聞かれて……」
「聞かれてどうした?」
「う、うけ、受け取りましたって、答えました」
「それでいい。君たちはもともと捨て
赤猫はトートバッグを柴田に突き返した。柴田の目がおろおろと泳ぐ。
「な、なん、ですか」
「俺に渡されても困る。受け取ったのは君だ」
手を引っ込める柴田に、赤猫が受け取るよう促す。柴田は気の毒なほどためらいながら、諦めてトートバッグの持ち手を握った。
「あとで相談できる人を紹介しよう。事情も話しておくから、その人の指示に従うといい」
柴田は「はい」と頷きながらペコペコ頭を下げた。ずいぶん安堵した様子だった。
友だちと一緒だったから気が大きくなっただけで、もともと小心者なのかもしれない。単独で大胆な行動に出る度胸はなさそうだ。
「君は大学二年だったな」
「はい」
柴田の腰は驚くほど低い。
「慧花大に友だちはいないか」
「慧花大ですか……いない、です。あそこは女子が多いから……」
「もし君の友だちに慧花大生の彼女がいるやつがいたら、ぜひ教えてくれ」
「はい……」
「よし、もういいぞ。呼び出して悪かったな。協力ありがとう」
「いえ、ホント……すみません……」
ペコペコ頭を下げて、柴田は数歩あとずさった。そして赤猫から私に視線を移して泣きそうな顔をすると、勢いをつけて深く頭を下げた。
「あの、し、失礼します」
何度も頭を下げて、柴田はやっと背中を向けた。駐車場の入口に自転車が停めてある。そのハンドルを握って、彼はもう一度こちらを振り返ってペコペコした。
「すごく怯えてましたね」
「素直な青年だな。ほかの二人も反省しているといいが」
彼らの行動は浅はかだった。好奇心と欲望に流されて、どんな結果になるか深く考えずに引き受けたのだろう。それで身を滅ぼすのは自業自得だが、
「断ることもできたんだ。同情する必要はない」
そうつぶやいて赤猫が運転席に戻る。私がなにを考えたかお見通しらしい。
「思ったより時間があるな」
「小山田さんに、会いに行ってみます……?」
助手席に乗り込みながら提案すると、腕時計を見つめていた赤猫が振り返った。なにか策があるわけではないが、赤猫なら上手く情報を引き出せるだろう。
「留守電もあったし、近況を報告してもおかしくないと思うんです」
「よし。採用しよう」
赤猫がエンジンをかけて、カーナビの行き先に慧花情報大学を設定した。
慧花情報大学は父と小山田さん、そして被害者の児玉さんの職場だ。もともとは慧花女子短期大学という名称だったが、共学化して情報科や観光科などを新設、慧花情報大学に改称した。現在は四年制だ。
共学になったとはいえ、依然として女子学生が多数らしい。何度か学園祭に行ったことがあるが、評判通りほとんどが女子生徒で男子生徒はわずかだった。
移動しながら何気なく検索してみると、全国の大学情報を掲載するサイトに、在学中だという男子生徒が「肩身がせまい」とレビューしていた。
目的地付近になると私は大学に電話を入れて、総務課の小山田さんにつないでもらった。電話を取ったのは優しそうな女性だった。正直に犬飼巧司の娘と名乗って父の迷惑を
小山田さんは大人しく気弱そうな声で電話を取った。事件当時、警察署から連絡をくれたときはひどく震えていたから、あのときどれだけ動揺していたかよくわかる。
「近くまできたので、少し話せないか」と伝えると承諾してくれて、大学の正門で待ち合わせることになった。
大学の駐車場に車を停めて、赤猫と一緒に正門前で小山田さんを待つ。
赤猫は通りかかる女子学生の注目を無駄に集めた。不審者として警戒されているというよりは、好意的な興味関心のようだった。
服飾関係のコースもあるせいか、どの学生もみんな華やかだ。私立大学だから経済的にゆとりのある子も多いのだろう。
「お待たせしました」
真っ赤なスカートをなびかせた女性を目で追っていると、小山田さんの声がした。
はっとして振り返って、頭を下げる。
「すみません、突然押しかけて」
「いいえ。美沙緒さんが無事でよかった。お母さんとけんかしたみたいだし、電話にも出なかったから」
「ご心配おかけして、すみません」
「座ってゆっくり話しましょう。どうぞ」
小山田さんに案内されて、私たちはキャンパス内のベンチに落ち着いた。目の前はちょっとした桜並木で、白い桜の花がぽつぽつと開きはじめている。
正門付近には人の行き来があったが、授業中なのかずいぶん静かだ。少し離れた桜の木の下に女子学生が三人、レジャーシートを広げて少し早いお花見を楽しんでいるようだった。
「今は春休みなんです」
思ったよりも緑の多い構内をしげしげと眺めていると、小山田さんが丸眼鏡の位置を両手で直しながらおっとりと言った。痩身の小山田さんは白いシャツにベージュのニットベストを合わせて、いかにも事務職員のおじさんという出で立ちだった。
小山田さんが手に持っていた名刺入れから名刺を一枚取り出して、赤猫の前に立つ。
「小山田と申します。沙彩さんから経緯はおうかがいしています」
「赤井です。はじめまして」
赤猫も立ちあがってシャツのポケットから名刺を取り出した。たぶん、アドバイザーのほうだ。小山田さんが受け取った名刺を食い入るように見つめている。
「ちょうど昨日、ご両親にご挨拶してきました。小山田さんには大変お世話になったそうで……」
「とんでもない。大したことはなにも……どうぞ、おかけいただいて……」
小山田さんは尻つぼみになりながら
「巧司くんは大丈夫そうでしたか」
「ずいぶん疲れた様子でした」
「まさか、こんなことになるとは……」
小山田さんが背中を丸めて地面に視線を落とす。覇気のない、弱々しい声だった。
しばらく沈黙してから、小山田さんは気を取り直したように姿勢を正した。
「式はいつごろ」
「どうなるにせよ、ひと通り決着がついてからですね」
「……それもそうだ」
小山田さんはまた気落ちした様子でため息をついた。ひょろりとして気弱そうな印象は、児玉さんと一緒に喫茶店を訪れたという男性の特徴と一致する。
「美沙緒さんは、これからも赤井さんのところに?」
「はい」
頷くと、小山田さんは安堵の表情になった。
「そうか、よかった。巧司くんも安心だろう」
「小山田さん。東さんのことなのですが……」
赤猫が切り出すと、小山田さんの顔が強張る。これだけ表情に出るところを見ると、堂々と嘘をつけるタイプではなさそうだ。
「東さん……巧司くんの後輩の」
「小山田さんが沙彩さんと沙奈絵さんの引っ越しを手伝ってくれたと聞いたのですが」
「ええ。困ったことはないかと沙彩さんにお電話したら、今すぐに出かけたいと相談されて、その人の家へ送りました」
「東さんには会いましたか?」
「はい……」
「正直、私はあまりよい印象を抱かなかったのですが、小山田さんはいかがでしたか」
小山田さんは「それは」と口ごもって視線を落とした。
「私も、あまり……」
「調べさせたら、東さんは前科をお持ちのようです」
「えっ」
赤猫が静かな口調で続けると、小山田さんが驚きの声とともに顔をあげる。
「それに、あまりよくないお友だちともつるんでいるらしいんです」
「そう、なんですか……」
「私の家にこないかと誘ったものの、沙奈絵さんに振られてしまって……さすがに無理強いはできません。でも、あそこに二人を置いておくのは心配です。小山田さんから、それとなく説得していただけませんか」
赤猫がいかにも母娘を案じる様子で訴える。小山田さんは膝の上に乗せた手をぎゅっと握って、「そうですか」とささやいた。返答ではなく独り言だった。
「そうですね……二人になにかあっては、巧司くんに顔向けできない……」
握りこぶしが震えている。それを隠そうとしたのか、小山田さんは左手で右手の甲をせわしなくさすった。明らかに動揺している。
「小山田さん」
赤猫が呼びかけると、小山田さんはわずかに視線をあげた。けれど、目を合わせようとはしなかった。
小山田さんを支配しているのは、焦りではなく怯えのように見えた。なにをそんなに恐れているのだろう。
「事件から今日まで、美沙緒さんたちを支えてくださったと聞きました。小山田さんがお困りのときは、いつでも相談してください。私にできることであれば、きっとお力になります」
赤猫は怯える小山田さんに優しく声をかけた。小山田さんがすがるような目で赤猫を見つめる。その唇がかすかに開いた瞬間、チャイムが鳴った。
小山田さんがはっと口をつぐんで、腕時計に目を落とす。
「……すみません、私はそろそろ」
言いかけた言葉を飲み込んで、小山田さんが立ちあがる。赤猫がすぐに腰をあげて、私もそれに続いた。
小山田さんは私と赤猫を正門まで送ってくれた。途中に時計があって、見上げると十二時十五分を指していた。
赤猫が正面まで車をまわすと言って一人で駐車場へ向かい、私は正門前で小山田さんと二人きりになった。
「お忙しいのに、ありがとうございました」
「いいえ。私もお二人と会えてよかった」
落ち着きを取り戻した小山田さんがしみじみと言う。
「誠実そうな人ですね」
赤猫のことだろう。私は誤魔化すように微笑んだ。
「私にも娘がいるんです。このあいだ大学を卒業しました。あなたよりは少し年上だけど、なんとなく重なるものだから。あの人なら安心だなあ」
小山田さんは穏やかな表情で正面を見つめていた。
この人はなにかを隠している。けれどそれをどうやって聞き出したらいいか、どうすれば話してもらえるのか、直球勝負以外なにも思いつかない。
なにか隠しているんじゃないですか。だめだ。小山田さんを疑っているみたいな言いかただ。さっきなにか言いかけてましたけど……こっちのほうが角が立たない。
「美沙緒さん」
「はい」
どう切り出そうか考えていると、小山田さんにおっとりと呼びかけられた。はっとして顔をあげると、小山田さんが優しさと物寂しさの入り混じる表情で私を見つめていた。まるで娘を送り出す父親のような眼差しだ。
「幸せになってくださいね」
嬉しそうな沙奈絵を見たときと同じ、かすかなうしろめたさが胸を刺す。
話を切り出すタイミングを失った私は「はい」とだけ頷いた。笑おうとしたが、ぎこちなかったかもしれない。
ちょうど赤猫が車で正門前に乗りつけて、話はそれきりになった。赤猫が名刺を渡していたし、喉もとまで出かかっていたのだから、改めて小山田さんのほうから連絡をくれるかもしれない。
「それじゃあ……小山田さんもお身体お大事にしてください」
「ありがとう。お気をつけて」
月並みの別れをかわして、私は助手席に乗った。走り出した車のミラーに、正門にぽつんと寄りそう小山田さんが映っている。私たちが見えなくなるまで見送ってくれたようだった。
そしてそれが、私が見た小山田さんの最後の姿だった。
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