10-3
――疲れた。
やわらかいベッドに腰かけて、そのままぽすんと仰向けになる。
シックな調度で統一された部屋はやけに広く、マンションの一室のようにリビングとベッドルームが壁で仕切られていた。外はすっかり暗くなって、大きな窓の向こうには見事な夜景が広がっている。
食後の紅茶を飲み終えると、疲れているようだから、と赤猫はそれとなく私をホテルに残して母と沙奈絵の帰路に同行した。三人とロビーで別れた私はホテルスタッフに伴われて三十五階の客室に案内された。
どう見ても安い部屋には見えない。不安になって確認したが、ここで間違いないという。
スタッフは私を残して去り、私はだだっ広い部屋に一人になった。見慣れない間取りにくらりとめまいがした。そしてふらふらと大きなベッドの端に腰かけ、今は仰向けになって天井を見つめている。
静かだ。
はったりかと思ったら、本当に部屋を取ってあったらしい。確かに、鈴村さんも朝から運転し通しだし、これから漆原邸へ帰るとなるとひと仕事だ。
――沙奈絵を連れて帰れたらよかったのに。
腹の上で手を組み合わせ、目を閉じる。東の逮捕歴の話を聞いたときから、本当はそれを期待していた。なのに沙奈絵自身に拒否されて、自ら東を頼って行ったはずの母のほうが乗り気だとは。まったくの想定外だ。
なぜ、と考えても、ぼうっとした頭ではそれらしいこじつけすら浮かんでこない。やっぱり、今日はもうだめだ。
朝も早かったし、父やモカに会って、慣れない環境に緊張もした。体力的にはもちろん、思っている以上に気疲れしたのだろう。
疲労を実感しながら目を閉じていると、いつの間にか眠ってしまったようだった。自分ではウトウトしたくらいのつもりだが、ふと気がつくと人の気配がした。
はっとして起きあがる。人影が――赤猫が、脱いだ上着をソファの背もたれにかけるところだった。それを見て、自分でも驚くほど安堵する。
「おかえりなさい」
ベッドに座ったまま声をかけると、赤猫はネクタイを外しながら顔をこちらに向けた。
「ああ。沙彩さんと沙奈絵ちゃんは無事に送り届けた」
「鈴村さんは」
「明日は千鶴子さんのところだから、病院の近くに宿をとったそうだ」
「そうですか……」
「ベッドは君が使え。俺はこっちで寝る」
言われて、大人二人どころか三、四人くらいでも使えそうな広いベッドを振り返る。キングサイズというと、このくらいなのだろうか。いまさら間違いが起こるとも思えないし、おたがい両端に寄れば身体が触れることもない。
私が「でも」と切り出した途端、赤猫がストップ、とでも言うように手のひらをこちらに向けた。
「我が身の潔白のためだ。言っておくが、この部屋は気のまわるスタッフのお節介だからな」
ムスッとした顔で赤猫がリビングから椅子を一脚、ベッドルームに運び入れる。それを部屋の端に置いたと思うと、そこにどかりと腰を下ろした。御曹司の優美さは欠片も残っていない。
「沙彩さんも沙奈絵ちゃんも、いつも通りだったか?」
「……そうですね。だいたいは」
母と沙奈絵の様子を思い出しながら、赤猫の質問に答える。
赤猫が「だいたいは」と繰り返した。
「いつもの沙奈絵ならもっと怯えたと思います」
「俺に対して?」
「そうですね。あと、自分の意見を頑なに曲げないのもまれです。そういうところは父に似ていて、たまにはあるんですけど」
「あの子は東晴樹になついてるのか?」
「小さなころはそうでした。今はわかりません。でも、東のところに残りたいと言うくらいだから……」
赤猫は「ふむ」と頷いて顎に手をそえた。いつもの考えるポーズだ。
「猫は被ってましたけど、母は通常運転でしたね」
「亀あたりじゃ簡単に転がされるな。恋人は東のほかにも?」
「私が把握していて、続いているのは東さんだけです。その場限りの人とか、男性のお友だちは多いみたいですけど」
亀というのは、岩亀さんのことだ。赤猫がときどきそう呼ぶ。
私は母について淡々と答えて視線を落とした。普通の母親はきっとそうではないのだろう。だが私にとっての母親はそういう生きものだ。
「東本人とも顔を合わせてきた。君の話通りだな。一見人が好さそうだが、俺は敵だと認識されたらしい。更生しているかどうかも疑問だな」
「そういえば、東の家を出たあと……」
ホテルにつくまであとをつけてきた車のことを持ち出そうとすると、赤猫が頷いた。
「同じ車がテラスハウスの駐車場に停まっていた。となりは空き部屋だから隣人ということはなかろう。玄関には男物の靴が四足。二足はサイズが一緒で、履きぐせも似ているから東のもの。するとサイズのちがう残り二足は客人のもので、車に乗っていた二人組と勘定が合う」
「どうして……」
「俺が信用ならないから、友だちに尾行でも頼んだんじゃないか」
赤猫はけろりと言った。
確かに、ぽっと出てきた私の恋人を名乗る男を警戒する心理はわからなくもない。
「巧司さんが恨まれていると感じるのも無理はない。ずいぶん嫉妬深そうだ」
赤猫が腕を組んで夜景に目を向ける。
「あの家を出て、俺の保護を受けるとなればひと
窓を眺めながら、赤猫は独り言のようにつぶやいた。
――わたし、東さんのところにいる。
沙奈絵はそう言ったのではなかっただろうか。東のところがいいとか東のところにいたいという表現ではなかったはずだ。
「明日は何人か関係者に会いに行く。今のうちにゆっくり休んでおいてくれ」
赤猫が立ちあがって、椅子をリビングへ引きあげる。そしてすぐにショップバッグを片手に戻ってきた。
「麗からだ。ここに置いておく。シャワーを浴びるなら先に」
ショップバッグをテーブルに置いたあと、赤猫はスマホを取り出して着信を取った。「もしもし」と答えながら、私に背を向けてリビングの窓辺に移動する。
私はベッドを降りてリビングへ行き、ショップバッグをのぞき込んだ。服とコスメのようだ。一緒に入っていた二つ折りのメモ用紙を開くと、手書きの文字が現れた。
〈美沙緒ちゃんへ。麗セレクションです。お化粧は寝る前にちゃんと落としてね〉
ビニールポーチの中身をよく見ると、トラベル用のスキンケアセットだった。さすが麗さん。女子だ。
……ん……?
いや。さすが麗さんだ。
私は赤猫の背中を横目に、紙袋ごと手に取ってバスルームへ向かった。聞かれて困る話でもないのだろうが、あそこにずっといたのでは聞き耳を立てているようで居心地が悪い。
麗さんのメモ通り、きちんと化粧を落としてシャワーを浴びた。アメニティのパジャマに着替えてリビングへ戻ると、電話を終えた赤猫がソファで手帳とにらめっこしていた。
「お風呂、あきました」
「ああ。明日は九時には出る。そのつもりで支度してくれ」
背中から声をかけると、赤猫は手帳を見つめたまま言った。
「はい」と頷いて、立ち尽くしたまま赤猫のうしろ姿を見つめる。父よりずいぶん若くて、でも同級生よりずっと大人だ。年の離れた兄、そういう感じだろうか。
「あの……本当にいろいろ、ありがとうございます」
「言ったろう。好きでやってるだけだ。連れまわして悪かったな」
手帳を閉じて、赤猫が立ちあがる。
「……昔の自分を君に重ねてる。君を救えたら、自分が救われる気がする。それだけだ。見返りが欲しいわけじゃない」
言って、赤猫はためらいがちに私の頭にぽんと手を置いた。私がまた思い詰めて迫るとでも思ったのか、それとなく
「俺もひとっ風呂浴びてくる。おやすみ」
子どもにするように私の髪をぽんぽんと叩いて、大きな手が離れていく。「おやすみなさい」とつぶやいて、私もそのままベッドルームへ戻った。
――瑠衣さんのこと、言えないと思う。
私はベッドの端のほうにもぐり込み、横向きのまま膝を抱えるように背中を丸めた。
自分だって、女たらしだ。
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