10-2

「お待ちしておりました」

「今日はお世話になります」

「とんでもない。お迎えできて光栄です。どうぞ、こちらへ」


 車を降りた赤猫を五十代くらいの男性スタッフが迎える。鈴村さんは降りないようだ。

 赤猫に続いて歩き出すと、スタッフが整列して一斉に頭を下げる。なんだかとんでもない所へきてしまった気がする。奥行きのあるロビーに一歩足を踏み入れると、一層の場違い感が押し寄せてきた。


 明らかにハイクラスのホテルにちがいないが、だからといって一泊ウン十万だとか、べらぼうな価格設定でもあるまい。少し背のびすれば庶民でも泊まれるはずだ。

 母と沙奈絵の手前、私は御曹司の婚約者でいなければならない。瑠衣さんのアドバイスを思い出しながら、とにかく堂々としていようと心に決めた。


 不安になったらしい沙奈絵が、そっと私のスカートをつまんだ。それもそうだ。家族旅行でも、こんな立派なホテルには泊まったことがない。


「まあ、すてき」


 同じ庶民のはずなのに、母だけが緊張ひとつしていないようだった。おっとりとつぶやく様子は私よりずっとプリンセスらしい。


 私たちはそのまま地上三十階の展望ラウンジへ案内された。ダークカラーで統一されたシックなフロアで、まだ客は入っておらず、がらんとしていた。


「どうぞ、こちらへ」


 ここまで案内してくれた年配の男性スタッフが窓際の席を示す。窓は一面ガラス張りで、夕闇の迫る町が一望できた。


「美沙緒」


 呼ばれて、ドキッとする。赤猫が窓側の椅子を引いてくれている。つまり、そこへ座れということだ。


 沙奈絵がぱっと私のスカートを離した。


「沙奈絵ちゃん、窓際にする?」


 母が問いかけるのと同時に、スタッフの男性が私の向かいの椅子を引く。沙奈絵がそこへ座って、母は赤猫の正面に陣取った。

 沙奈絵がじっと窓の外を見つめている。空は青と金のグラデーションで、町は少しずつ夜の支度をはじめていた。もっと暗くなれば夜景がきれいだろう。


「高いね」


 緊張した面持ちの沙奈絵に声をかけると、沙奈絵はこちらを振り返ってこくりと頷いた。


「こちらも、おばあさまの?」

「ええ。改称前は神庭ホテルでした。ご存じですか」

「まあ、もちろん。憧れでした。嬉しい、夢がかなったみたい」


 母が甘えた声を出す。相手は娘の婚約者だというのに、すっかり自分たちのデートのような雰囲気を作り出している。猫のかぶり具合は赤猫といい勝負だ。


「今日はお父様にもご挨拶してきました」

「まあ……そうでしたか」


 赤猫が穏やかに切り出すと、母の表情がわずかにかたくなった。


「お二人をずいぶん心配していらっしゃいましたよ」

「心配するくらいなら、あんなこと、しなければよかったんです」

「僕にできることは限られてはいますが、必ずお力になります。いつでも頼ってください」

「ありがとうございます。とても心強いわ」


 母の顔色が変わったのを察してか、赤猫は父の話題を続けなかった。沙奈絵は母と赤猫の会話を聞きながらうつむいていた。

 父に言及したときの母の声色は、思ったより冷たかった。口ぶりからしてやはり夫の無実を信じてはいないようだ。


 ホールスタッフがやってきて、セットされたグラスにボトルから冷水をそそぎ入れる。沙奈絵は身体を強張らせて、その様子をじっと見つめていた。


――考えられるのは。


 父が共犯者をかばっている可能性。

 誰かが父を殺人犯に仕立てあげようとしている可能性。


 拘置所を出たあとに聞いた赤猫の言葉を思い出して、それを自分なりに解釈しながら、ガラス越しに街を見下ろす。窓に母の横顔が映っていた。


 父が児玉さん一家を手にかけた理由は、結局はっきりしていない。ワイドショーの情報を鵜呑みにすれば、父と児玉さんの妻、南子さんとの不倫関係における痴情ちじょうのもつれ、あるいは父と児玉さんのあいだの金銭トラブルだが、どちらも憶測であって事実関係は確認できていない。


 父自身が主犯であるという考えをひとまず除外するとしたら、父が罪をかぶることで得をする人物は誰だろうか。


 児玉さん、あるいは妻の南子さんとのあいだになにかしらのトラブルを抱えていた何者か。赤猫の言葉を借りて人物Xとしよう。このXを父がかばっている、またはXが父を脅している。可能性として、なくはなさそうだ。


 あるいは、例えば強盗だとか、父は何者かが児玉さんを殺害する場面を目撃したために脅されて、その罪を着せられようとしている。自宅に残った私を狙って脅迫用と思われる写真の撮影を指示した謎の女性も存在するし、可能性としてまったくないとも言いきれない。


 そういえば、面会時の父の挙動は、赤猫と私と岩亀さんとで偽装した暴行写真を見せられたからとは考えられないだろうか。すると、謎の女が人物Xに該当するという見方もできる。


 東は? 児玉さんとの接点は不明だが、東がいまだに母をめぐって父への憎しみを募らせているとしたら、父の投獄はまたとないチャンスだ。実際に母は父を見限って東のもとへ走った。すると、あるいは、母が……母が夫を疎んで、恋人をけしかけた可能性は――……?


「美沙緒」


 名前を呼ばれて、ハッと振り返る。赤猫が気遣わしげな眼差しで私を見つめていた。


「疲れただろう? 朝も早かった」

「……そうかも。ごめんなさい」

「いや。僕も予定を詰め込みすぎた」

「無理をしないほうがいいんじゃない。どこかで休ませてもらったら」


 娘を案じる様子で母が口をはさむ。私の貯金箱まで持ち去っておいてよく言う。目の前の青年と親睦しんぼくを深めるために、私が邪魔なのだろう。


「……大丈夫」


 母の、いかにも心配していると言いたげな表情と声色にカチンときて、語気が強くなりかける。すんでのところで抑えて、姿勢を正した。


「先に部屋で休んでもいい。つらくなったら言いなさい」


 年上ぶった赤猫の台詞はいつも通りのようでいて、だいぶやわらかかった。普段はもっとぶっきらぼうだ。


 なるほど、ここにこのまま泊まる設定らしい。演出としてはコテコテのような気もするが、この時間だし筋書きとして不自然ではない。

 「うん」と頷くと、母の伏せた目もとに嫉妬の気配がただよった。


 事件から三か月間、母の憔悴しょうすいぶりは演技とは思えなかった。猫かぶりこそ得意だが、そもそも自分の感情に素直な人だ。今だって、優しい母親を装いながら娘への嫉妬を隠せていない。

 器用な人ではないのだから、母が東を使って父をおとしいれたという発想はいささか荒唐無稽こうとうむけいだろう。第一、もしそうだったとしたら、もっと早い段階から東が関与してきたはずだ。


 やがて、ハムや野菜を盛り合わせたオードブルが運ばれてきて、赤猫と母にはシャンパン、私と沙奈絵には白ブドウのジュースが提供された。


 お酒が入ると母の機嫌はすぐに直った。母はしっとりした年上の女らしさを維持したまま、ときどき甘えた眼差しで、赤猫の仕事やプライベートについてあたりさわりのない質問をした。

 赤猫は母が求める理想の青年を演じながら、その質問に巧みに答えていく。正体を知っている私でさえ、探偵ではなくこちらの姿が本物ではないかと錯覚しそうになるほどの詐欺師ぶりだった。

 私と沙奈絵はときどきアイコンタクトしながら、二人の会話を黙って聞いていた。


 陽が沈み、町が夜の装いに変わると、ぽつりぽつりとダイニングに客の姿が見えはじめた。みんな離れた席に案内されて、話し声も控えめだ。


「この子のなにが、あなたの心を動かしたのかしら……」


 デザートにたどりつくころ、二人の世界を作っていた母が突然私を巻き込んだ。イチゴのムースにスプーンを入れようとしていた私は、さすがに手をとめて婚約者の様子をうかがった。


 赤猫がすました顔でワイングラスをゆっくりと置く。思考する時間を稼いでいるように見えた。けれどその動作もあくまで自然だ。


「誰にも心を許さない猫が」


 たっぷり間をとってから、赤猫が落ち着いた声で言う。


「自分だけになついたら、嬉しいものです」


 赤猫は好青年の仮面にうっすらと嗜虐しぎゃく的な微笑をにじませた。急に路線変更だろうか。でも、温和な好青年よりこちらのほうが母の好みだろう。反面、母への皮肉と取れなくもない。


「なんて。つまるところ僕は、心を動かされたというより、掴まれてしまったんです。僕の帰る場所には彼女がいてほしいし、彼女が帰る場所は僕のもとであってほしい、そうしたらきっと一人でいるよりあたたかい」


 赤猫が温厚さを取り戻して微笑む。拾った猫に対する感情を上手く人間に置き換えたような台詞だ。嘘っぽさはまったくなかった。


 赤猫は私を相変わらず「ミケ子」と呼ぶ。彼にとって私は、拾った猫なのかもしれない。がらんと広い漆原邸を想像すると、確かに一人より、一人と一匹のほうがあたたかい。少年期に家族を亡くしているとしたら、なおさらだ。


 この台詞もまるきり嘘ではなくて、赤猫の中に存在する心理を誇張しているのかもしれない。


「そうですか」


 母は睫毛まつげを伏せて、口もとからスッと感情を消した。そして小さく口を開いて、吸った息を吐き出しながら無理に笑った。


「……ふふ。そんな人がいてくれて、娘がうらやましいわ」

「沙彩さん。美沙緒さんはもちろん、あなたと沙奈絵さんを支えると巧司さんと約束しました。家族として頼りにしてください」

「ありがとうございます」


 母は微笑んだが、さっきまでとは雰囲気がちがった。びっぽさがすっかり消え失せている。わずかな会話のあいだになにか、心境の変化でも起こったようだった。


 私はただただ怪訝けげんだったが、赤猫は微妙な空気の変化をしっかりと感じ取ったようだった。


「もしよかったら、うちへきませんか。東さんを信用していないわけではありませんが、あの家ではセキュリティ面に不安が残ります」


 ドキッとしながら、私は母と沙奈絵の様子をうかがった。赤猫は今がチャンスと見て父の懸念に切り込もうとしているようだ。


「――そうだよ。東さんに迷惑かけても悪いし」


 今度は私も口をはさんだ。東の逮捕歴が本当ならとんでもない話だ。傷害ということは誰かに暴力を振るったのだろうし、強制わいせつなんて、つまり性犯罪だ。母はともかく沙奈絵になにかあってからでは取り返しがつかない。


 母は私をちらりと見やって、睨むように目を細めた。と思ったら、フイと視線を逸らす。なるほど、私が気にくわないらしい。


「でも、二人のお邪魔をするようだし」

「でしたら、安全に暮らせる部屋を手配します。駆けつけられる範囲にいていただけるほうが私も安心です。いかがでしょうか」

「それなら……」


 母は赤猫の提案に納得するそぶりを見せた。東に対する執着は、思ったより薄いようだ。


「わたし」


 沙奈絵を東から引き離せる、と内心で安堵した瞬間、沙奈絵が口を開いた。


「わたし、東さんのところにいる」

「沙奈絵」


 沙奈絵から飛び出した主張に、思わず声が出た。あんなに赤猫に気を許していたのに。沙奈絵は黙って首を横に振った。


「でも、沙奈絵ちゃん」


 意外にも、沙奈絵を説得しようとしたのは母だった。

 沙奈絵はかたい表情でうつむいていた。ふと、父の、とにかく頑固な一面が思い出される。沙奈絵は容姿こそ母譲りだが、口数の少なさや、ごくまれに見せる頑固なところは父によく似ている。この様子だとてこでも動かないだろう。


 確かに沙奈絵は東によくなついていたが、昔の話だ。それとも今でも東を慕っているのだろうか。


「学校が変わるのが嫌なの?」

「……」

「美沙緒ちゃんとだって、すぐ会えるのよ?」

「……」


 母が問いかけても沙奈絵は無言だった。東の家を出るのがよほど嫌なのだろう。こうなってはどんな説得も無駄だ。


「突然で驚かせてしまったのかもしれません。今すぐにでなくてもかまいませんから、少し考えてみてください」


 赤猫が無理強いせずにフォローする。


「ええ……そうですね。すみません。人見知りなものですから」


 沙奈絵の態度にムッと眉根を寄せた母は、赤猫の手前、すぐに表情を困惑に変えた。食い下がらないところを見ると、東との暮らしに差し迫った問題を抱えているわけではなさそうだ。


 不倫関係にある以上、母にとって東は恋人のはずだ。しかし彼女は東と赤猫を天秤にかけて、簡単に後者を選んだ。人情的な問題はともかく、これこそ生きる力で、私にはないしたたかさだと思った。

 それとも東は遊び相手の一人なだけで、恋人ですらないのだろうか。父の話だと東は母に相当入れ込んでいるようだし、そうだとしたら哀れでもある。


「沙奈絵。これ、おいしいよ」


 私はスプーンの先で、ココットに入ったピンク色のムースを指した。うつむいていた沙奈絵がちらりと私の手もとを見る。視線がゆっくりと上向いて、沙奈絵が少し上目に私を見つめた。

 微笑みながら首をかしげると、沙奈絵はつられたように少し笑って、自分のスプーンを手に取った。

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