10-1
十
「元気でね」
「うん。美沙緒も」
三か月ぶりに顔を合わせたモカ――友人の木下
私たちは正午ごろにモカを迎えて、鈴村さんが予約してくれたお店で昼食をとった。鈴村さんは私とモカが二人きりで話せるように、かつなにかあればすぐに駆けつけられるように、となり合った個室を二か所押さえてくれていた。
モカとの会話は思ったほどぎこちなくはならなかった。モカの引っ越しのことや高校生活の思い出、とりとめのない話題に終始して、私もモカも事件の話は持ち出さなかった。
モカは明後日、山形へ越すのだという。調べてみたら大宮から新幹線で二時間くらいだし、会いに行けない距離ではない。
赤猫たちをあまり待たせても悪いから、午後二時すぎにはモカを自宅に送り届けた。
庭先で短い別れの言葉をかわし、車に戻る。後部座席の窓から手を振ると、モカも振り返して見送ってくれた。
「そういえば、
住宅街を大通りに抜けながら、鈴村さんが思い出したように口を開く。赤猫はいつもの無表情で腕を組み、窓の外に目をやった。
「
「人生は、出会いと別れの繰り返しですね」
ハンドルを握り、まっすぐ正面を向いたまま鈴村さんが穏やかに言う。還暦はすぎたそうだから、単純に計算して、鈴村さんは私の三倍以上生きていることになる。そういう人の言葉だから説得力があった。
生活が変われば交友関係も変わるというのは、私も高校への進学で経験した。モカだってこれから大学で新しい仲間ができて、気づいたころには
「ありがとうございました、モカのこと。わがままを聞いてもらって」
「つけられる区切りはつけておくほうがいい。でないと後々引きずる」
個人的な都合に時間を
それから車は国道に出て、見おぼえのあるルートをたどりはじめた。自宅へ向かっているようだ。ほどなくして生活道路に入り、カーテンと雨戸を閉めきった空き家同然の我が家が見えてきた。ブロック塀に貼り紙が増えている。
鈴村さんは家の前までくるとスピードを落としたが、停車はしなかった。
「変わった様子はなさそうだな」
と、赤猫が私のほうへ身を乗り出す。
「貼り紙が増えているくらいでしょうか」
「寄るなら停めてもらうが」
「いえ。大丈夫です」
車はゆっくりと自宅の前を通りすぎて、再び大通りへ戻った。
「このまま沙彩様と沙奈絵様をお迎えにあがります。ホテルには五時ごろの到着ですね」
「ええ。よろしくお願いします」
夕食はホテルのディナーだろうか。確かに、御曹司を演出するならそのくらい奮発したほうが自然かもしれない。
先週の電話の様子だと、東の保護を受けて母の気分もずいぶん落ち着いたようだ。とはいえあれだけ外出を恐れていたから、夕食の誘いによく食いついた、という気もする。
身の丈に合わないブランド品を欲しがる性質からして、母は贅沢好きだ。外食も好きだったし、抑圧の反動が出てきたのかもしれない。興味が恐怖を上まわった部分もあるだろう。赤猫の作戦勝ちだ。
母と東の関係を肯定する気にはならないが、母にとって東は自分を守ってくれる用心棒で、そこに私が赤猫に対して抱く安心感のようなものが存在するとすれば……彼女の選択もやむを得なかったのだろうと、思う。
だからといって受けた仕打ちを水に流す気はないし、母の浮気性を諦めはしても肯定はしたくない。もちろん東がまともな大人とも思えないから、信用する気はさらさらない。
東を選んだのは母だから、母が不利益を
「ここですね」
母が赤猫に教えた住所まで、車で一時間ほどを要した。東の住居は、アパートか一軒家を想像していたら、そのあいだをとったような駐車場つきのテラスハウスだった。
鈴村さんは駐車スペースには乗り入れず、車を路肩に寄せて停めた。
建物自体は、見た限り極端に古くも新しくもない。立地も普通の住宅街だし、住居環境に問題はなさそうだ。
「ミケ、沙奈絵ちゃんに連絡してくれ」
そう指示して、赤猫が車を降りる。私は言われた通り沙奈絵の電話番号を選んで、通話ボタンを押した。沙奈絵はすぐに応答した。
「お姉ちゃん?」
「うん。沙奈絵、今日のお出かけお母さんから聞いてる?」
「うん」
「今、家の前についたから、お母さんにも伝えて」
「わかった」
車外からまわり込んだ赤猫がドアを開けてくれる。車を降りると、テラスハウスの二階の窓際に沙奈絵の姿が見えた。私が手を振ると沙奈絵も振り返す。
よかった、元気そうだ。
しばらくすると、母と沙奈絵が玄関から出てきた。母は何度か見たことのある白いワンピース、沙奈絵は白いブラウスと紺のスカートだった。どちらもドレスコードを意識した、よそ行きのコーディネートだ。
「はじめまして。赤井です」
「美沙緒の母です。この度はお気遣いいただいて……」
母は私をちらりとも見なかった。関心は目の前の御曹司にしかないらしい。
「お姉ちゃん」
「沙奈絵、元気だった?」
駆け寄ってきた沙奈絵にたずねると、沙奈絵は控えめに頷いた。
「どうぞ」
赤猫が後部座席に母を案内する。すれちがいざま、彼女はようやく私の存在を認めて、値踏みするように頭からつま先までを眺めた。
「美沙緒ちゃんも元気そうでよかった」
少々気取った微笑を浮かべる母に、私は抑揚なく「おかげさまで」と返した。
母を奥に座らせて、そのとなりに沙奈絵、最後に私が乗った。後部座席のドアを閉めてから、赤猫が助手席に乗り込む。
沙奈絵が安堵した表情でとなりに座った私を見つめた。私は微笑みながら、沙奈絵の手をそっと握った。
鈴村さんがサイドブレーキを下ろすのを目で追ってから、窓越しにテラスハウスを見上げる。窓際に人影が映っていた。東だ。たばこを吸いながら、こちらを見下ろしているようだった。ここからでは表情までは見て取れない。
「その服、赤井さんに選んでいただいたの?」
不意に母の声が響く。私に話しかけているのだと気づくまで、数秒を要してしまった。振り返ると、母はなんのわだかまりもない顔で私を見ていた。
「……そう」
ややこしくしても仕様がない。そういうことにしておこう。
「似合ってるわ」
母はよそ行きの声色で微笑んだ。本心ともとれるし、嫌味ともとれる。あるいは娘と仲のよい母親を演出しているのかもしれない。
「今日のお姉ちゃん、きれい」
「お化粧してるから……」
沙奈絵が瞳をきらきらと輝かせて私を見上げる。初対面の赤猫や鈴村さんがいるのに、今日の沙奈絵に怯えた様子はなかった。
「美沙緒ちゃん、こんな素敵なかたといつお知り合いになったの」
「それは……」
母からの質問に戸惑うと、赤猫がさっと助け舟を出してくれた。
「去年の今ごろでしょうか。道に迷ったところを親切に案内してくれたんです。あとは私が必死に口説き落としました。なかなか手ごわかったです」
「ふふ」
作り話を聞いて、沙奈絵が嬉しそうに私を振り返る。私と赤猫の関係を全く疑わずに信じきっているようだ。だますための嘘なのだから成功ではあるのだが、そんなに喜ばれてしまうと、さすがに良心が痛む。
「失礼ですけど、赤井さんは今、おいくつでいらっしゃるんです?」
「二十七です。美沙緒さんとは十近く離れていますが……」
「まあ。お若いのにしっかりしていらっしゃって……。年の差があるとおっしゃっていたから、一体どれほどかと思いました。そのくらいなら、大した差でもないわ」
「そうでしょうか」
「ええ。さすがに親より年上と言われたら少しは考えるかもしれませんけど、恋に年齢は関係ないもの」
二十七。三十代くらいと思っていたから、予想より若かった。嘘の可能性もあるが、見た目からしてだいたいそのくらいにはちがいない。
母をちらりと盗み見ると、ずいぶん嬉しそうだった。母と赤猫の年齢差はひとまわりとちょっとで、私と赤猫の差とそれほど変わらない。母は実年齢より若く見えるし、もしかしたら私より赤猫のとなりがお似合いかもしれない。苦い初恋の二の舞になりそうで、ほんの少し胸が重くなった。
別に赤猫が好きなわけではないが、彼が母の味方になって、その途端にぽいと放り出されてしまったらさすがに悲しい。私にも人情はある。
大通りに出ようかというところで、信号が赤になった。車がとまってから何気なくバックミラーに目をやると、いつの間にかシルバーのコンパクトカーがうしろについていた。
「赤井さんは、兄弟、いるんですか」
沙奈絵がおずおずと赤猫に話しかける。めずらしい。初対面の相手に自分から声をかけるなんて。
「弟がいたよ。でも、沙奈絵ちゃんくらいのときに事故で亡くなってね」
「そう、なんですか」
「だから沙奈絵ちゃんには、本当のお兄ちゃんだと思ってもらえたら嬉しいな」
「……うん……」
想定していない回答だったのだろう。沙奈絵は気まずそうにうつむいた。
「僕は同じ事故で両親を亡くしていて、身内は祖母だけなんです。この年になってまたお父さんお母さんと呼べる人ができるのが、実を言えば嬉しくもあります。もちろん美沙緒さんと家族になれるのが一番嬉しいのですが」
赤猫が語る過去は、父との面会で用いた設定と矛盾しない。真偽のほどは定かではないが、穏やかな口調にはやはりなんとも言えない真実味がある。
これにはさすがに母もしみじみとして「そうでしたか」とつぶやいた。
「今日は楽しんでください。息の詰まるような毎日だったでしょう。神庭の系列ホテルですし、鈴村は使用人のうちでも一番腕が立ちます。ご心配なく」
「お任せください」
しんみりとした車内の空気を変えるように赤猫が言って、鈴村さんも連携する。赤猫はすっかり育ちのよい好青年の仮面を貼りつけていた。何度見てもこの
車は大通りをしばらく直進してから左折レーンに入った。何気なくサイドミラーが目につくと、後続車がぴったりとついてくるのが見えた。さっきと同じシルバーの車だ。ふと、つけられているのでは、という気がした。
いや、考えすぎだ。
複雑な道のりではないし、このくらい偶然の
それからも私はときどきミラーを気にしていた。カーナビのマップに目的のホテルが映り込んできたころ、バックミラーに映るのは白い軽のワゴン車に変わっていた。ほら、やっぱり考えすぎだった。
白いワゴンは右折するらしい。バックミラーから視線を逸らそうとすると、右に曲がったワゴンのうしろにシルバーの車体がちらりとのぞいた気がした。ミラーに視点を戻す。ずっとうしろにいたのと同じ車だ。
運転している鈴村さんはもちろん気づいているだろう。私は振り向きたい衝動をこらえて、黙って座っていた。
やがて「ガーデン・ラヴァンド」という看板を掲げた立派なホテルが目前に迫った。私たちの車はホテルのロータリーに入ったが、シルバーのコンパクトカーはさすがについてこなかった。そのまま道路を直進して行ったようだ。
今の車について赤猫に意見を求めたい気持ちをぐっと抑えて、私はエントランスに待ち構えるドアスタッフに視線を移した。彼らはダークカラーのスーツをきちっと着こなして、
車が入口前に乗りつけると、スタッフがさっと近づいてドアを開けてくれる。
赤猫がなに食わぬ顔で降りたので、それに続いた。
瑠衣さんの「お姫様になりきっておけばいい」という言葉が思い出される。赤猫も鈴村さんも完璧なのに、私が足を引っ張ったのでは意味がない。お姫様になったつもりで、すまし顔で背筋をのばした。
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