9-4

 父と母の出会いは大学時代で、東もそのときの後輩というのは知っていた。

 母のことだから、当時から恋多き人生だったのだろう。しかし、もともと東と交際していて、結果的に父に乗り換えたというのは初耳だった。


 面会時間の終わりが迫っていた。長話はできなかったので、私と赤猫は父からわずかに過去を聞き出してその場を去った。

 車の後部座席に戻り、私は赤猫に東晴樹と我が家の因縁をかいつまんで説明した。

 私が小学生のとき、負債を抱えた東が我が家に転がり込み、奇妙な同居生活を送ったこと。そのときから母と東の不倫がはじまったこと。そのころから私は東が苦手なこと。


「にこにこして見えるけど、目が笑っていないんです。優しい声も不気味だった。妹にはもっと自然で、本当に可愛がっていたと思います。沙奈絵は母似で、私は……」

「目と口もとがお父さんとよく似てる」

「そうです。だから、東が父を憎んでいるのは本当かもしれません」


 ポン、と通知音がして、私はスマホの画面に視線を落とした。

 拘置所を出るときにこれから向かうとモカに連絡したので、その返信だった。


〈おけ。準備しておく!〉


 私はスマホの画面を消して話を続けた。


「お父さんも、断ればよかったのに」

「すべてを失った人間というのは、なにをするかわからんものだ」


 赤猫が窓の外を眺めながら「君もそうだろ」とつけ加える。


 私も自分側の窓に視線を移して、過ぎ去る街路樹を見つめた。否定はできない。私は遠くへ逃げたいという欲求に従って、後先あとさきも考えず列車に飛び乗った。冷静に考えれば無謀だ。けれどそのときは、それしか思い浮かばなかった。


「巧司さんは東晴樹が得られなかったものをすべて持っている。仕事、家、家族……恨まれている自覚があればなおさら、安易に突き放せない。矛先ほこさきが幼い娘に向けられないとも限らないからな。お父さんだって、悩まなかったわけじゃなかろう」


 「それに」と赤猫が続ける。


「正しい選択だったかもしれないぞ。時期的に君たちの家を出たあとだが、東には逮捕歴がある。傷害と強制わいせつ。示談じだんに持ち込んで実刑を免れてはいるが、お世辞にも品行方正とは言いがたいな」

「そうなんですか」


 思わず赤猫を振り返る。

 職を見つけて我が家を出たあとも、東は数年に一度くらいの頻度で父を訪れていた。最後に顔を見たのは一年前だ。なんの用だったかは知らないが、そのときはスーツ姿で、多少老けはしたものの身を持ち崩した様子はなかった。


 にわかに不安が募ってくる。沙奈絵は本当に大丈夫だろうか。


「今夜、沙彩さんと沙奈絵ちゃんを夕食に誘ってある」


 言いながら、赤猫が黒いレザー調の手帳を開く。その話は今はじめて聞いた。


「直接会って様子を確かめよう。迎えに行く約束になっているから、暮らしぶりもわかるはずだ。あとはお父さんが早まらないことを祈ろう」

「早まるって……」


 赤猫の言葉に不吉な響きを感じて、聞き返す。


「自白――厳密には虚偽きょぎの自白だな。家族を託せる味方を得て真実を話す気になってくれればと思ったが、お父さんもだいぶ追い詰められていそうだ。説得が功を奏したと信じたいところだが、あまりのんびりもしていられない」

「……あの……本当に、父がやったんでしょうか」


 思いきって口にしてから、気分が悪くなってくる。吐き気に似た感覚をこらえて、視線を下向けた。


「すべてそうとは思えない。だが一端をになった可能性はある。現時点ではそんなところだな」


 赤猫はいつも通りの淡々とした口調で言った。私は喉に詰まりかけた空気を吐き出して「そうですか」とつぶやいた。


「お父さんがすべて自分がやったといつわったとしても、証拠と供述が食いちがえば、むしろ潔白の証明になる。だが、犬飼巧司を単独犯にしたい人物が存在するとしたら、その人物Xまたは巧司さん自身が一枚上手うわてとも限らない」


「……」


 うつむいて黙っていると、視界の端で赤猫が手帳を閉じたように感じた。

 私たちはしばらく沈黙して、そのうちに赤猫が口を開いた。


「君は信じてやればいいさ」


 私はゆっくりと顔をあげた。赤猫は閉じた手帳の表紙に視線を落としていた。


「君の期待は裏切られるかもしれない。だが信じたいなら、今は信じればいいさ。……いや、ずっと信じていたっていい。君が信じたいと思うなら」


 赤猫は「それでいいじゃないか」とつぶやくように言った。


「……それで、いいんでしょうか」


 聞き返すと彼はこちらに顔を向けてニヤッとする。面白いことを言うつもりの表情だった。


「精神の自由だ。憲法で保障されてる」

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