9-2

 ヘアアイロンからこぼれた髪がふわりと頬をくすぐって、鼻先に甘いベリーの香りがただよってくる。さっき麗さんがつけてくれたヘアオイルのにおいだろう。


 私は麗さんに指示された通り、例の小花柄のワンピースに着替え、今は彼に背を向けてキッチンから居間へ持ち込んだ椅子に座っている。

 座卓の上には麗さんが持ってきた荷物と、私が瑠衣さんと一緒に買ったコスメが雑多に並び、役者の楽屋みたいな状態になっていた。


「もうこれ絶対かわいい」


 麗さんが私のおかっぱ、おしゃれに言えばミディアムボブを内巻きにしながら満足そうにつぶやく。

 そう言われても化粧からヘアセットまで一度も鏡を見ていないから、自分が今どうなっているのかまったくわからない。


「なんだ、もうきたのか」


 背後から赤猫の声がする。やっと起きてきたらしい。壁時計を見上げると八時五分前だった。


「あのねえ、小虎くん。五分や十分でお姫様が完成すると思う?」


 苦言をていする麗さんの口調は、ちょっと瑠衣さんに似ていた。

 赤猫が、ふむ、と答えて私の前にまわり込む。


「なるほど」


 赤猫の感想は是でも否でもなく、やはりいつも通り無表情だった。

 パチンとバレッタをとめて、麗さんが「完成」と明るい声を出す。三十分以上にわたるヘアメイクがついに完了したらしい。


「ありがとうございます……」


 不安半分に髪に触れると、いつもより指通りがよかった。

 さて味噌汁を温め直そうと椅子を立つ。振り返ると座卓に広がる店が目に入った。急いで片付けるより、キッチンで食べてもらうほうが効率的だ。


「朝ごはん、キッチンでいいですか?」

「だめ、だめ、自分でやらせればいいよ。今日の美沙緒ちゃんはプリンセスなんだから」


 赤猫にたずねると、麗さんが割り込む。麗さんは「それより」とスマートフォンを片手に握って、キラキラと瞳を輝かせた。


「写真撮ってもいい?」

「……はい」


 メイクもヘアセットも全部やってもらったし、麗さんからすれば自分の仕事の記録だ。嫌とも言えずに頷くと、麗さんはパシャパシャと色々な角度から私の写真を撮りはじめた。


 赤猫はその横をすっと抜けて、黙ってキッチンへ去って行った。

 鈴村さんいわく、赤猫は私の手前、いつもより朝からシャンとしているらしい。確かに今日も支度はきちんと済ませてあるし、寝ぐせも見当たらない。


 鈴村さんの「人間無理は続きませんから」という一言がふと思い出されて、我が身にもしみた。私もおしゃれを頑張ろうとしたとして、メイクも髪のセットもすぐに放り出してしまいそうだ。

 そう考えると赤猫は私を拾ってから一週間、気の抜けた自分を隠し続けているのだから、ずいぶん頑張っている。


「はあ、可愛い。我ながら完璧。ほら見て、美沙緒ちゃん。見て」


 麗さんがスマホをグイグイ押しつけてくる。のぞき込むとムスッとした顔の私が映っていた。


 言うほど可愛くはないが、化粧で心持ち肌に透明感が出て、目もともいつもよりぱっちりしている。ハーフアップのおかげなのか、顔まわりがすっきりして明るい印象だ。服との落差はずいぶん少なくなって、似合うとまではいかなくても違和感はかなり減っていた。


 相対的に普段より可愛くなった、とは思う。


「麗さんは、美容師さんとかやってたんですか?」


 これはカフェの勤務で身につく技術ではないはずだ。整った麗さんの顔を見上げると、彼は照れくさそうに笑った。

 このワンピース、私より麗さんのほうが似合うんじゃないだろうか。


「ううん。でも、なりたいって思った時期があったな。だからこういうの好きなんだよね。ね、この写真、瑠衣に送っていい?」

「はい……」


 瑠衣さんにもお世話になったし、やはり嫌とは言えない。せめて笑えればいいのに、と自分の頬をぎゅっとつまむ。昔からカメラを向けられるとうまく笑えない。


 パシャ、とシャッター音がした。

 いや、どう考えてもシャッターチャンスではない。


 麗さんを見るとまぶしいほどの笑顔だった。


「視線いただきまあす」


 再びシャッター音がする。両頬を引っ張って、恨めしい目をした私が麗さんのスマホに収まってしまった。



 午前八時五十分。瑠衣さんに選んでもらったベージュのカーディガンを羽織って、やっぱり瑠衣さんに選んでもらったブラウンのショートブーツを履く。これで出撃準備は整った。


「変じゃないですか?」


 自分で確認できないので、玄関前に立った赤猫に聞いてみる。


「変じゃない」

「そうじゃないでしょ、小虎くん。可愛いとか似合ってるとか、もっと言いようがあるでしょ」


 月曜は麗さんのお店は定休日なのだという。セットアップを終えたあとも、見送ると言って私たちの出発を待ってくれた。

 幼なじみをたしなめてから、麗さんがひょこりと玄関をのぞき込む。


「ばっちり。パーフェクト」


 麗さんは親指と人差し指で丸を作ってにこりと笑った。麗さんがそう言って、赤猫が変ではないと判断するなら、きっと大丈夫だ。瑠衣さんに教えてもらったように、今日は背筋をのばしていよう。


 春の日差しに目をすがめながら玄関を出る。赤猫が施錠するのを待ってから三人で門へ向かうと、黒い高級車が停まっていた。かたわらにダークカラーのスーツをピシッと着こなし、白い手袋をつけた鈴村さんが立っている。


 鈴村さんは私たちの姿を認めると軽く会釈した。普段と比べるとかしこまった装いだが、違和感はなく、所作も板についている。

 自分がちょっと着飾りすぎているのではないかと思ったが、まったくそんなことはない。運転手のレベルに合わせたら最低でもこのくらいは必要だ。

 むしろ足りないかもしれない。


「朝早くから悪かったな」

「いいよ、楽しかったから。必要なときはまた呼んでね」


 赤猫が麗さんを振り返ったので、私も麗さんに向き直った。


「ありがとうございました」

「どういたしまして。美沙緒ちゃん、小虎くんにはもったいないくらい可愛いから、自信持ってね」


 麗さんの励ましに、弱気をこらえて「はい」と頷く。


「いってらっしゃい」


 麗さんに見送られながら、私と赤猫はそれぞれ車の後部座席に乗り込んだ。

 こんな高級車、今日のためにわざわざ借りたのだろうか。そう考えながらシートベルトを引っ張って、いや、送迎用に一台や二台あってもおかしくないと思い当たった。


 大家の千鶴子さんは大企業神庭ホールディングスのご令嬢で、現会長だ。そして鈴村さんはもともと千鶴子さんの使用人、つまり付き人なのである。立ち振る舞いが板についているのも当然だった。


「では、参りましょう」


 鈴村さんがエンジンをかけて、サイドブレーキを下ろす。車がゆっくりと走り出した。

 門の前で麗さんが手を振っている。後部座席の窓から手を振り返すと、お嬢様にでもなったような気分だった。こんな経験、もう二度とないかもしれない。


 車は瑠衣さんと出かけたときと同じルートでのどかな田んぼ道を抜け、ほどなくして国道へ出た。


 父と顔を合わせるのは一月以来だ。そのときは私にも母にも、父の口から話を聞きたいという気持ちがあったが、父の沈黙を拒絶ととらえた母は、たった一度の面会で夫を見限ってしまった。

 私一人で会いに行くという選択肢もあったが、あとをつけてくるような人もいたし、さすがに不安だった。小山田さんに送迎を頼もうにも、連絡するには母を経由しなければならない。母は絶対に了承しなかっただろう。


――今ごろ、どんな気持ちでいるのだろうか。


 母の浮気ぐせは私が幼いころからだ。しかし何度浮気を繰り返しても、少なくとも私の記憶にある限りでは、母は離婚の二文字を口にしたことはない。もちろん父が都合のいい夫という理由もあるだろう。けれど夫が娘を可愛がればそれに嫉妬するのだから、彼女なりに愛情はあったはずだ。


 人殺しの夫を見限って、気に入らない娘と離れて、せいせいしているだろうか。それとも、少なくとも父に関しては、あの人なりに複雑な思いを抱えているのだろうか。


 そわそわしている自分を落ち着けようと、私は右手で左手の甲をなでた。こうして車に乗っていると、今日の予定がじわじわと現実味を帯びてくる。

 父は赤猫の嘘に気づくだろうか。いつわりとはいえ、父にとって娘のはじめての恋人だし、私がこんなに着飾っているのだって七五三以来だ。

 父はなにか話してくれるだろうか。「すまない」以外のとりとめのない会話でもいいし、あるいはなにかしらの真実を打ち明けてはくれないだろうか。


 落ち着かない気分でとなりに座った赤猫を盗み見ると、なに食わぬ顔で手帳を開いていた。

 今日の赤猫はダークグレーのスーツに同色のベストとえんじ色のネクタイを合わせている。いつもとそれほど変わらないと言えば変わらないが、今日の装いは一層フォーマルだ。

 なにか話してくれれば気がまぎれるのに、そんなつもりはないらしい。私から話しかけるにしても話題が思いつかなかった。


 私と赤猫のあいだに飾り気のないクラフトバッグが直立している。赤猫が持ち込んだ荷物だ。ちょっとのぞき込むと、文庫本が数冊入っているようだった。


「手ぶらではな。菓子折り代わりだ」


 紙袋に触れようとすると、赤猫の手に遮られる。


「ミステリーと時代小説だ。退屈だろうからな」

「きっと喜びます」

「そうだといい」


 赤猫が紙袋を掴んで自分のほうに引き寄せる。私に見られたくないらしい。隠すようなものでも入っているのだろうか。


「……別にいかがわしいものは入ってない」


 私の視線に気づいて、彼は言い訳のようにつぶやいた。

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