9-1


 午前五時。スマホのアラームで目覚める。


 私が赤猫こと探偵の赤井小虎に拾われ、ミケ子と呼ばれるようになってから一週間が経った。

 私は住み込みのアルバイトとして事務所兼住居の漆原邸で寝起きし、今はもっぱら家事に従事している。


 うん、とのびをして布団を出る。まだ眠いけれど、思いきって起きてしまえば嫌でも目が覚める。ひとまず普段着のニットとズボンに着替えて部屋を出た。

 築三十年あまりの漆原邸は映画界の巨匠、故漆原幹監督が本妻と過ごすために建てた別邸で、母屋の外観は一見すると格式ある老舗旅館だし、書斎やアトリエだけでなく茶室やシアタールームまで備わっている。

 それなりに年季は入っているが、家政夫で管理人の鈴村さんがきちんと手入れしているし、必要なリフォームも済んでいるから、不便はない。ただ、一人どころか二人で住むにしても広すぎる。白壁で囲まれた敷地内には母屋のほかに使用人の居住を想定した離れがあり、竹林や日本庭園、池までつくられていて、ちょっとした寺社のようでもある。

 把握を兼ねて母屋だけでも一通り掃除してみようとしたものの、あっけなく断念した。庭も母屋も、鈴村さんがいなかったらこんなにきれいには保てないだろう。


 一階へ降りると、夜も明けやらぬというのにトントンと包丁の音が響いていた。そうか、月曜だから、鈴村さんだ。

 予想通り、赤猫は朝に弱かった。彼が起床するのは早くても七時で、予定がなければ八時をすぎることもある。今日は父と面会する日だ。午前中にはここを出る予定だから、さすがに八時前には起きてくるだろう。

 その起床に合わせれば朝食の支度はもっと遅くてかまわないのだが、今日は岩亀さんがいる。

 岩亀さんは宣言通り、帰宅できる日はこの家に泊ってくれていて、週末も一緒に過ごした。屈強なボディーガードがいると思うと心強いが、自分の仕事もあるのに、ちゃんと休めているのか心配だ。


「おはようございます」


 洗面所で顔を洗い、髪を軽く梳かしてからキッチンへ向かう。そっとドアを開けて声をかけると、鈴村さんがちょっと驚いた様子で振り返った。


「おはようございます。早起きですね」

「岩亀さんが朝ごはんを食べて行くと思って……」

「大丈夫ですよ、今日は私がやりますから」

「いえ。目が覚めちゃったし、お手伝いしてもいいですか?」

「そうですか。それならお願いしましょうか」


 見た目こそいかついが、鈴村さんの口調はやはり穏やかで、とても落ち着く。エプロン姿でキッチンに立つ姿が、どことなく父と重なるせいもあるかもしれない。

 鈴村さんのほうがずっと年上だから、父の未来の姿を思わせる、と表現するほうが正確だろうか。


「だしをお願いしていいですか」

「だし、ですか」

「かつおだしです。お味噌汁とだし巻き卵に使います」

「鈴村さんの卵焼き、美味しいですよね」

「ありがとうございます」


 思わず本音がこぼれると、インゲン豆を胡麻えにしながら鈴村さんが微笑んだ。


「お湯が沸いたらかつお節を入れて、網ですだけです」

「……そんなに簡単なんですね」


 火にかかった鍋を示して、鈴村さんがだし取りの手順を教えてくれる。

 私はコンロの前でお湯が沸くのを待ちながら、鈴村さんの手もとを盗み見た。胡麻和えの次は大根をおろすようだ。


 お湯が沸騰して、鈴村さんに教えられながら火をとめてかつお節を入れる。テーブルにはすでに朝食用のお皿が用意してあって、鈴村さんは胡麻和えと漬物、それからかぼちゃの煮物をてきぱきと盛りつけた。


「お味噌汁はミケ子さんにお任せしますね」


 だし取りの流れで次は味噌汁を任されてしまった。

 鈴村さんの手もとで手際よく巻かれて行く卵を眺めながら、私はこがね色のだし汁に乾燥ワカメを放り込んで味噌を溶いた。

 小皿で味見をしたところで、誰かが階段を降りてくる音がした。


「天国だ……」


 寝ぐせをつけた岩亀さんが寝ぼけた顔でのそりとキッチンをのぞき込む。

 気持ちはわかる。起きてきたら誰かがキッチンにいて、朝ごはんができている。あたり前のようでそうではない、贅沢な日常だ。


「おはようございます。お召しあがりになるお時間はありますか」

「いただきます。顔、洗ってきます」

「ミケ子さん、棚にドリップバッグのコーヒーがあるので、お願いしてよろしいですか」

「はい」


 私がコーヒーを用意している間に、鈴村さんがお盆に一人分の朝食を仕上げて居間へ運んで行く。


 コーヒーを落としきって私も居間へ向かうと、だいぶしゃっきりした岩亀さんが戻ってくるところだった。ワックスでセットした髪から、ぴょこんと寝ぐせの生き残りが飛び出している。


「早起きだね」

「岩亀さんが朝ごはん食べると思って」

「……ウッ……天国だ」


 岩亀さんがぐっと目頭を押さえる。


「あの、ネクタイ曲がってます」

「えっ」


 私がコーヒーを持ったまま指摘すると、岩亀さんはにわかに頬を染めた。


 ……なぜ照れる?


 料理を座卓に並べ終えた鈴村さんが、役目を終えたお盆をそっと置いて、背後から岩亀さんの肩を引く。岩亀さんを振り返らせた鈴村さんは手際よくネクタイを直し、お盆を回収してキッチンへ去って行った。鮮やかな手つきだ。


「コーヒーです」


 コトンとカップを置いて、私もキッチンへ戻る。すると、ナチュラルブラウンのテーブルに二人分の朝食が整っていた。


「我々もいただきましょう」


 鈴村さんがさっと湯飲みにお茶をつぐ。

 私が椅子を引いたところで、鈴村さんは冷蔵庫を開けて、ガラス製のプリンカップを取り出した。


「レアチーズです」


 口もとに人差し指をあてながら鈴村さんがささやく。私はちょっとにやりとしつつ、黙って頭を下げた。


 六時四十分をすぎるころ、岩亀さんを玄関まで見送ると、入れ替わりに陽鞠がやってきた。鈴村さんが食事を作ってくれる日、つまり月曜と金曜は陽鞠も母屋で朝食を済ませる習慣になっているようだ。

 陽鞠は朝日を背負って、はつらつと微笑んだ。


「おはようございます」

「おはよう……」


 制服姿の陽鞠は、今日は髪をポニーテールに結っていた。透き通るような白い肌に長い睫毛、目はぱっちりとした二重で唇の血色もよい。これだけもとがよければメイクは必要なさそうだ。

 今は高校一年生で四月から二年になるというから、私のほうがちょっと先輩だ。


 陽鞠は鈴村さんの孫娘で、家庭環境の事情で半年前から鈴村さんと離れで暮らしているらしい。ほかの家族の姿は見当たらないので、二人暮らしのようだ。


「春だから、髪型変えてみたんです。ミケ子さんはのばさないんですか?」

「うん、私は何年もこんな感じ……」

「ロングも似合うと思うけどな」


 陽鞠は誰に対してもほがらかだ。赤猫への恋心を隠さない彼女からすれば、私の存在には思うところがあるだろう。それでもこうして人懐こく話しかけてくれる。

 ふと物寂しそうな表情を見せるときはあるが、鈴村さんの孫娘らしく彼女自身も温厚だ。


 陽鞠は駅まで自転車でかよっているから、朝食を済ませるとすぐに家を出る。彼女を見送って、さて、七時十五分。赤猫はまだ起きてこない。


「それでは、私も支度をしてきます」


 一人分の朝食を残して片づけを終えると、鈴村さんがエプロンの結び目をといた。そういえば、今日は鈴村さんが車を出してくれるんだっけ。


 鈴村さんが勝手口から出て行ったあと、それほど間を置かずに玄関チャイムが鳴った。


「はい……」


 こんな時間に、と思いつつ迎え出る。来客はカラカラと控えめに引き戸を開けた。


「おはようございます」

「あ、麗、さん」

「わあ、よかった、おぼえてもらえてる」


 訪問者は瑠衣さんの双子の弟で、赤猫の幼なじみの麗さんだった。喫茶店で会ったときと同じように、長い髪をゆるくうしろで束ねている。無造作なヘアスタイルなのに、それがやけにおしゃれに見えた。


「小虎くん、起きてる?」

「寝てます」

「朝、弱いからねぇ」


 麗さんがおっとりと頬に手をあてる。

 今日の麗さんはライトイエローのパーカーにジーンズというカジュアルな格好で、大きなトートバッグをたずさえていた。


 きれいなお姉さんと言われればもちろんそうだし、きれいなお兄さんと言われればそうも見える。瑠衣さん同様中性的だ。この姉弟を前にすると、性別という概念が崩壊する。


「なにか約束ですか?」

「今日の助っ人を頼まれたんだ。九時には出るって聞いたから、ちょっと早いけど魔法をかけにきました」

「魔法……?」

「おしゃれは時間がかかるからね」

「ええと、赤猫、起こしますね」

「いい、いい、ほっとけばいいよ。もう大人なんだから、甘やかしちゃだめ」


 麗さんがスニーカーを揃えて脱ぐ。瑠衣さんがムチで麗さんがアメかと思ったら、そうでもないようだ。


「美沙緒ちゃん、もう朝ごはん食べた?」

「はい」

「じゃあ、はじめちゃおうか」

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