8-3

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」


 アルタイルでのコーヒータイムを終え、私と赤猫は瑠衣さんの車で漆原邸へと戻った。門の前で瑠衣さんと別れて母屋へ向かうと、玄関で鈴村さんが出迎えてくれる。昨日よりも自然に挨拶できた。


「お部屋を整えておきました。模様替えはお好きにしていただいてかまいません」

「突然すみませんでした、ありがとうございます」

「いいえ、それが私の仕事ですから。なんなりとお申しつけください」


 赤猫の謝礼に丁寧に答えて、鈴村さんは「それから」と続けた。


「千鶴子様のお帰りについてですが、離れで療養していただくことになりました」

「離れで?」

「はい。千鶴子様のご希望です。母屋は段差が多いですから。それと、その……」


 鈴村さんがめずらしく言葉をにごす。彼は首に手をあてて、ちょっと困った顔をした。


「わけあって、お困りのお嬢様をお預かりしていると申しあげましたら、盛りあがってしまわれて……お二人のお邪魔をするべきではないからと……」


 鈴村さんの口調から、困りきった様子がひしひしと伝わってくる。

 赤猫が私のことを鈴村さんにどう伝えたのか知らないし、鈴村さんが千鶴子さんに私と赤猫の関係をどう説明したのかもわからない。ただ、戸惑う鈴村さんから察するに、大家さんは赤猫が恋人と同居をはじめたとでも勘違いしだのだろう。


「乙女だからな……」


 赤猫がため息まじりにつぶやくと、鈴村さんがかしこまって頭を下げた。


「私の言葉不足で、申し訳ありません」

「お気になさらず。また会ったとき、私から説明します」

「お手数をおかけいたします。それでは、私はおいとまいたします」


 鈴村さんが玄関の引き戸を閉めて去るのを待ってから、赤猫が「やれやれ」と首を押さえた。千鶴子さんと私の初対面は誤解の訂正からはじまりそうだ。


「ミケ子。部屋を教えるから、荷物を移しておいてくれ」


 靴を脱ぎながら赤猫が振り返り、そのまま二階へ向かう。赤猫に続いて、私も階段をのぼった。


「ここだ」


 案内されたのは、昨日まで使っていた六畳間よりひとまわりほど広い洋室だった。

 備えつけのクローゼットがあり、小さなテーブルと空のラックも用意されている。収納には困らなそうだ。


「和室は客用だから、岩亀くんに使わせる。向かいは俺の部屋だ。なにかあったときは遠慮なく声をかけなさい」

「わかりました」


 「よし」と頷いて、赤猫が部屋を出て行く。

 一人になった私は、とりあえずショルダーバッグとショップバッグを床に降ろして、南向きの窓から外を眺めた。庭から門まで見渡せる。


 コンコン、とノックが響いて、出て行ったばかりの赤猫が顔をのぞかせた。


「言い忘れたが、来週の月曜にお父さんに会いに行こう。鈴村さんに車を頼んである。家に戻る用があればついでに寄るから、言ってくれ」

「あの……」


 言いかけて口をつぐむと、赤猫が「ん?」と短く先を促した。


「友だちが引っ越すので、挨拶できたらと思うんですが……」

「わかった。その子の都合を聞いておいてくれ」


 赤猫はそれだけ言って、ほかに要望がないと見て取ると静かにドアを閉めた。新しい部屋に再び一人きりになる。


 冷たい雨に打たれて孤独に震えていた日、あれはまだ一昨日のことだ。

 閉ざされたままだと思っていた未来が急にひらける。あとにも先にも進めない日々から、ついに一歩前進したのかもしれない。


 前を向いて、歩き出そう。

 臆病になってしまいそうな自分に言い聞かせて、両手でぱちりと頬を叩いた。

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