8-2


 ショッピングモールを出た私たちは往路同様、車に乗って帰路についた。


 いったん事務所へ帰るのかと思ったら、途中で進路が変わった。

 そうして到着したのは、東花岡駅からほど近い立地の小さなカフェだった。レトロなデザインの看板に「喫茶アルタイル」とある。至って普通の昔ながらの喫茶店で、腹がよじれるようなものが飛び出してきそうな雰囲気ではなかった。


 瑠衣さんが私を振り返り、にやりと口角をあげながら唇の前に人差し指を立てた。

 ドアを開けると、カランカラン、と懐古的な音が響く。

 カウンターの向こうに、エプロンをかけた優しげな印象の女性が立っていた。


「いらっしゃいませ。あら」


 女性は私たちを振り返って、グラスを拭く手をとめた。

 外から見た通り、それほど広い店ではない。入ってすぐの左手窓際に二人がけのテーブル、あとはカウンター席が数席と、その反対に壁で区切られたソファ席が三席ほど。壁板やテーブルはすべてダークブラウンで統一されて、照明は控えめだ。家具はどれも年季が入っている。


 古風な店内でコーヒーの香りにつつまれると、一瞬タイムスリップしたような気分になった。


「ねえ、やっぱりそうよねえ! 絶対浮気よ、浮気!」

「今度酒井さんも連れてきてあげましょうよ。ねえ、何曜日ならいるの?」


 一番奥のソファ席から、女性たちのにぎやかな声がする。カウンターのお姉さんが首を少しかたむけて、その席を示した。この人、どこかで見たことがあるような気がする。

 私は瑠衣さんのうしろ頭を見上げてから、もう一度店主らしき女性を見やって、既視感の正体に気がついた。


 瑠衣さんだ。瑠衣さんが二人いる。


 カウンターの女性は長い髪をひとつに束ねて、大人しく温厚な印象だった。けれど目も鼻も、顔のパーツひとつひとつが瑠衣さんとそっくりだ。


「助っ人なので、いつというわけではないんですが」

「えーっ、じゃあ、かよわなきゃってこと?」

「でもほら、ちゃんと依頼すれば予定を合わせてくれるんでしょ?」

「そうですね。それが本業なので」

「かよったっていいじゃない。コーヒーは美味しいしマスターは美形だし、下手なホストよりずっといいわよ。ほら、川村さんちの裕子ちゃん。ホストにハマって東京で借金こしらえてさ」


 中高年と思われる女性たちに混じって、聞きおぼえのある声がした気がする。


「お好きなお席へどうぞ」


 瑠衣さんと同じ顔の女性がにこりと笑う。瑠衣さんは軽く手をあげて応じると、一番手前のソファ席に近寄って私を手招きした。


「すみません。お客様なので、失礼します」


 奥の席から店員らしき男の声がする。やっぱり聞きおぼえがあるが、私が知っているよりずいぶん柔和な声色だった。


「あら、行っちゃうの? やだわ寂しい」

「もう山野さん、やめてちょうだい。そういうお店じゃないんだから!」


 アッハッハと女性たちの笑い声が響く。

 そのうち自前の紺のシャツに黒いハーフエプロンを巻いたウェイターがお冷を持ってきて、私たちの席の前で足をとめた。


「よう。モテモテだな、小虎くん」

「注文は」


 にやにや笑う瑠衣さんの前にドスンとお冷を置いて、小虎くんもとい赤猫が注文伝票を取り出す。


「おいおいずいぶん態度がちがうじゃねーの。こっちは客だぞ。美沙緒ちゃん、好きなの頼んでいいよ。なんなら一番高いのにしな。コイツのおごりだから」

「買いものは終わったのか」

「終わったからいるんだろうがよ、ここに」


 瑠衣さんが横柄おうへいに言う。容姿から想像がつかないほどのがらの悪さだ。

 口論にも取れそうなやりとりを聞きながら、私は渡されたメニューに目を通した。普通のコーヒーは一杯三百円。良心的な価格設定だ。


 サンドイッチやパンケーキ、軽食のほかにケーキやパフェもある。さっきお昼のデザートでタルトを食べたばかりだし、と悩んでいると「シャーベット」の文字が目についた。


「これって」


 メニューを指さしながら赤猫を見上げる。


「今日はエルダーフラワーだ」

「エルダー、フラワー」

「マスカットみたいな感じ」


 聞き慣れない単語を繰り返すと、カウンターから補足が入った。


「じゃあ、それで」

「私はいつものな」

「ん」

「ん、じゃねえんだよな、ん、じゃ」


 瑠衣さんが「いつもの」を注文して、赤猫が去って行く。瑠衣さんはぼやきながら不愛想なウェイターの背中を視線で追った。

 腕を組む瑠衣さんに「あの」と小声で呼びかける。


「ああ。ここ、実家」


 私がなにを言わんとしたかを察して、瑠衣さんは端的に答えた。


「両親は引退して、弟が継いだんだけどね」

「弟……」

「双子だから年は変わらないけど」


 私は「おとうと」と繰り返しながらカウンターの女性を見た。弟、はつまり、兄弟において年少の男性のことだ。


「顔、同じだろ?」

「同じ……ですね」

れいのほうが女子力高いから、メイクとかわからなかったら聞くといいよ」


 私の視線に気づいて、瑠衣さんの弟が小さく手を振る。

 男性と言われれば、骨格は瑠衣さんよりしっかりしているかもしれない。でも言われなければわからない。いずれにせよ瑠衣さん同様、間違いなく美形ではある。


「今日はランチの予約があって、小虎くんに手伝ってもらったんだ」


 コーヒーとシャーベットをトレンチにのせて、弟さんがやってくる。


おおとり麗です。よろしくね」

「犬飼……美沙緒です……」

「美沙緒ちゃん、うちは時給八百五十円なんだけど」

「やっす。マジか?」


 麗さんがそっとささやくと、瑠衣さんがバカでかい声をあげた。

 背の低いレトロなデザートグラスが私の前に置かれる。シャーベットのほかにアイスが二種類、バニラとカシスだろうか、ミントをあしらって可愛らしく盛りつけられていた。


「赤猫探偵事務所より高いです」

「ひでえな。マジか」

「もしよかったら土日とか、暇なときだけでいいから」


 首をかしげた麗さんに可愛くお願いされる。顔は瑠衣さんと同じだが、雰囲気は真逆だ。

 どちらかといえば麗さんがお姉さんで瑠衣さんが弟……いや。そうだっけ、あれ、ちがう。混乱してきた。


「小虎くん。もう大丈夫だから一緒にコーヒー飲みなよ」


 麗さんが瑠衣さんの前と、私のとなりの空席にコーヒーカップを置く。


「美沙緒ちゃん、コーヒー飲める?」

「飲めます」

「じゃあもうひとつ持ってくるね」


 麗さんはやわらかく微笑んでカウンターへ戻って行った。思わず見とれてしまうような、穏やかで優しい空気をまとった人だ。

 入れ替わりに、洗いものをきりあげた赤猫がエプロンを外しながらテーブルの横に立った。


「いじめられなかったか」

「誰にだ。言ってみろよ」


 ソファに腰かける赤猫に、瑠衣さんが息の合った間で噛みつく。


「緊張しました。イケメンなので」

「俺だってハンサムだぞ」

「……はあ……そうですか」


 ちょっと軽口をはさんでみると、本気なのかとぼけているのか、赤猫が真顔で返してきた。


「見苦しいぞ、オッサン」

「俺がオッサンならお前だってオバ」

「もう、けんかしない。美沙緒ちゃんが困っちゃうでしょう」


 瑠衣さんと赤猫の言い合いがはじまるところに、麗さんが割り込む。赤猫と瑠衣さんが幼なじみなら、麗さんもそうなのだろう。三人ともよく息が合っていた。


「麗ちゃん、お会計いい?」

「はい。ありがとうございます」


 追加のコーヒーを私の前に置いて、麗さんがレジへ戻って行く。奥の席で盛りあがっていた女性グループが帰るようだ。

 赤猫が小さく咳ばらいをひとつして、コーヒーに口をつけた。


「小虎くん、またね」

「名刺、酒井さんに渡しておくわね」

「ありがとうございます。またお越しください」


 そしてこの、突然人格が変わったのかと思うような好青年ぶりである。


「やだあ! くるに決まってるじゃなーい!」

「もう、山野さんたらお酒入ってる?」

「シ・ラ・フ」


 アッハッハと楽しそうに笑って女性たちが出て行く。五十代くらいだろうか。地元客のようだ。


 陽気なマダムたちが去ると、店の中は急に静かになった。

 微笑みを浮かべていた赤猫がスッと無表情になる。


「必要なものは揃ったか?」

「いい性格だよ、ホント」


 言いながら、瑠衣さんがカップに指をかけた。まったく同感だ。

 私は赤猫の質問に「はい」と頷いて、やわらかくなったシャーベットにスプーンを差し入れた。なんとかフラワーは確かにマスカットみたいな味だった。さっぱりしていて、おいしい。


「別に変なやつはいなかったよ」


 コーヒーに口をつけながら瑠衣さんが報告する。私はバニラアイスをすくおうとした手をとめて、「ならよかった」と答える赤猫の横顔を見つめた。


「つけ狙われていないとも限らんだろう。瑠衣なら傍目はためには男だしな」

「すみません、私、全然考えてなくて……」


 赤猫にそう言われて、自分の油断に気づかされた。自宅に襲撃してくる輩がいるくらいだ。復讐、脅迫、目的はなんであれ執拗しつように狙われる可能性もある。

 そんなことも忘れて無防備に楽しんでいたなんて。軽率な自分を恥じかけたところに、瑠衣さんの明るい声が響いた。


「楽しめたってことだろ? いいじゃん、息抜きも必要だって。どこか行きたいときはまた呼んでよ、美沙緒ちゃんとのデートなら大歓迎だから」


 瑠衣さんがパチンと器用にウィンクする。見事なファンサービスだ。

 ふと、お昼に瑠衣さんから聞いた話が頭の片隅に浮かんだ。赤猫にとって瑠衣さんと麗さん、幼なじみ二人の存在は大きな支えだったにちがいない。


「ミケ子、こいつは女たらしだからな」

「そうですね」

「まあ、落とせない女はいないな」


 真顔で言う赤猫に乗っかると、瑠衣さんが赤猫の口調としぐさを真似た。


「似てる……」

「似てる似てる」


 思わずつぶやくと、カウンターから麗さんが参加する。


「俺をなんだと思ってる」


 赤猫がぼやくのを聞きながら、私は、おさげに眼鏡の、モカのそばかす顔を思い出した。幼なじみではないけれど、私にとってかけがえのない友人だ。


〈私、来週引っ越しなんだ。その前に会える?〉


 今ならモカのメッセージに前向きな返信ができるかもしれない。

 バニラアイスをひとさじすくって口に運ぶと、淡い希望の味がした。

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