8-1


「おはよう、美沙緒ちゃん」


 午前十時ちょっと前、門の前に突っ立っていると、瑠衣さんが鮮やかなメタルブルーの車で乗りつけた。


 彼はわざわざ車を降りて、颯爽さっそうと私に歩み寄った。美少年をそのまま大人にしたような、細身ですらりとしたシルエットだ。美形だとわかっていたはずだが、実物を目の当たりにして腰が引けてしまう。


「おはようございます。今日は、よろしくお願いします……」


 私は不安いっぱいに頭を下げた。なるべくきれいなニットとジーンズを選んだものの、この人と並んで歩くにはあまりにお粗末だ。メイクの習慣もないから化粧品自体ろくに持っていないし、つまり私はおしゃれどころか普段着、そしてすっぴんという装備でこのイケメンと対峙しなければならない。


「ははっ、そんなビビらないでよ。突然襲いかかったりしないから」

「ハハ……」

「どうぞ、お姫様」


 瑠衣さんが慣れた手つきで助手席のドアを開ける。私は「ハハ」とひきつった声で笑うことしかできなかった。そういうジョークはやめてほしい。


「ブハッ、そんな顔する?」

「……すみません、どうすればいいかわからなくて」

「なりきっておけばいいんだよ。さあ足もとに気をつけて、プリンセス」


 無茶振りだ。


「……苦しゅうない」


 必死に頭を回転させて、出てきた台詞がそれだった。


「ブハッ。武将か」


 瑠衣さんがゲラゲラ笑いながら運転席側にまわり込む。見た目は王子様なのに、やっぱり気取ったところは全然なかった。


「せっかくのデートなんだから、もっとオシャレしてくれてもよかったのに」

「これが限界でした」

「この前のワンピースは?」

「あれはちょっと」

「好みじゃない?」

「私には似合わないかな……」

「ふーん」


 顔さえ見なければまだ話しやすい。助手席に乗った私は、ショルダーバッグを膝に抱えて視線を下向けた。車がゆっくり発進する。


「あの、日用品が揃えばいいので、近くのドラッグストアとか」

「初デートでそれはないだろ」


 おずおずと切り出す私を瑠衣さんがからかう。「デートじゃない」とつぶやくと、彼はわざとらしく大げさな声を出した。


「え? なに? よく聞こえないな!」


 運転手には逆らえない。

 結局車は国道沿いのドラッグストアを通りすぎて、郊外の大型ショッピングモールに到着した。駐車スペースに車を収めながら、瑠衣さんが不意に「すねてる?」とつぶやく。


 移動中ずっと黙っていたからだろうか。私は父に似てむすっとした顔だちだから、笑っていないと機嫌が悪いと思われることがある。


「そう見えますか?」

「そうだったら可愛いなって」


 瑠衣さんはエンジンを切りながら、流し目でニッと笑った。


「はあ……そうですか」

「ハハッ、こりゃ手ごわいや。いいね、美沙緒ちゃん」


 少女漫画の「おもしれー女」みたいな感覚なのか、瑠衣さんが面白そうに笑う。イケメンの気持ちはよくわからない。


「え、やば。かっこいい人いる」

「芸能人?」


 駐車場を抜けてモールに入ったところで、二人連れの若い女性がさっそく瑠衣さんに目をつける。これだけの美形なら目立って当然だ。


 私はさりげなく瑠衣さんから半歩ほど距離を取った。


「小虎もさ」

「えっ、はい」

「赤井小虎、美沙緒ちゃんを拾ったアレだけど、あいつもちょっと目立つでしょ。デカいから」

「そう……ですかね」


 「アレ」と胸の内で繰り返しながら、あいまいに相づちを打つ。


「人ごみだと頭ひとつ抜けるし、あの通り気取ってるからさ。どこぞの御曹司って言われりゃあ信じない?」

「まあ、それは」

「で、その御曹司と婚約してる設定なんでしょ? その格好でデートするか? 信憑性なくね?」


 私は自分のニットとジーンズを見下ろして押し黙った。反論できない。

 素体の問題ではなく、世の中にはTPOに応じたスタイルや振る舞いというものがある。瑠衣さんが言っているのはそういうことだ。


「そういうわけで、ここでひと通り揃えるからな」

「あの、でも私、お金……」

「出させりゃいいんだよ、ドケチ探偵に」


 そう吐き捨てて、瑠衣さんが「行くぞ」と私の手を掴んだ。うわ、と思うと同時に、はっとして瑠衣さんを見上げた。


 やわらかくて細い指。成人男性にしては華奢な身体。

 この人、もしかして……


「お。気づいたな。どうして瑠衣さんとお買いものか、理由わかったろ?」

「あの……」

「女同士なんだから、緊張する必要ないって」


 瑠衣さんが笑いながら、握った私の手に指を絡める。端から見れば間違いなく男女の恋人同士だ。それも、ものすごい顔面格差の。


「いや、します」


 男性ではなく女性だったからと言って、美形には変わりない。それにこんな手のつなぎかた、生まれてこのかたしたことがない。

 どぎまぎしながら答えると瑠衣さんはまたブハッと笑った。


「背筋のばして歩いてごらん。堂々としてれば自信があるように見える。ハッタリかますなら必要不可欠だ」

「……努力します」


 か細く頷くと、瑠衣さんがニコッと笑って、私の手を握る指先にきゅっと力を込めた。かっ、と耳が熱くなる。


「よっしゃ、勝った」

「……なんの勝負ですか」

「こんなイケメンと一緒なのに、美沙緒ちゃん全然照れねーんだもん。つまんねーじゃん」

「自覚がある……」

「なかったら嫌味だろ」


 それもそうだけども……。


 私が瑠衣さんに敵うはずもなく、結局、瑠衣さんの見立てで服や靴、化粧品などを一式見繕みつくろうことになった。


 瑠衣さんのあっけらかんとした性格は行動にも現れていて、彼女は値札をろくに見ずに会計を済ませてしまう。赤猫とのあいだでひとまず瑠衣さんが立て替えるという話になっているそうだが、最終的な請求がとても怖い。瑠衣さんは赤猫に払わせると主張するのだが、ただでさえお世話になっている身でそこまで甘えられない。


 いずれ必要になるものを先に揃えたと考えて、これからコツコツ働こう。瑠衣さんをとめる自信がない以上、そう割りきることにした。


「いやー、楽しい。こういうプロデュースみたいなの、好きなんだよね」

「なにからなにまで、ありがとうございます」


 瑠衣さんの決断力のおかげで、昼食前にひと通りの買いものが終わった。お昼はモール内のちょっとお値段のいいカフェで、デザートつきのランチセットをご馳走になった。本当にデートみたいだ。


 アイスティーの氷を鳴らして、瑠衣さんがグラスを置いた。


「美沙緒ちゃんは? 楽しかった?」

「嵐のようでした」

「ブハッ、正直」

「でも、楽しかったです」


 こんなショッピングは久々だった。人目を引くのは怖いが、目立つのはあくまで瑠衣さんで、私ではなかった。瑠衣さんの存在感のおかげで私の影が自然と薄くなるから、かえって他人に怯えずにいられた気がする。


「ならよかった」


 瑠衣さんがテーブルに肘をついて、頬に手をあてながら目を細めた。


「うんと甘えればいいよ。そのほうが小虎も喜ぶ」

「はあ……」

「どうせ自分じゃ言わないだろうけど……」


 伏し目がちに、瑠衣さんがグラスの氷を見つめた。それだけなのにとても絵になる。


「あいつ、高二で家族亡くしてさ。両親が死んだだけでもキツいのに、親父さんはあらぬ疑いかけられて……死人に口無しってやつだよな。親戚はもめるし、世間からはうしろ指さされるし、あのときあいつは間違いなくこの世に一人ぼっちだった」


 瑠衣さんは低い声で言って、ストローで氷をつついた。


「そういうの、美沙緒ちゃんに重ねてんだと思う。だから、得体の知れない親切じゃないっていうか……。まあ、下心がこれっぽっちもないかはわからないし、困ったときは迷わず逃げてきてほしいんだけどさ」


 私は黙って頷いた。


――自分が無力な子どもだったとき、差しのべられた手に救われたからだ。


 赤猫は過去の自分を私に重ねている。きっとそうだ、と思った。

 父親が逮捕されて、世間から責められて、一人ぼっちで路頭に迷って、自分は不運だと思った。でも世の中には、もっと過酷な悲劇が山ほどあるのだ。

 瑠衣さんが語った赤猫の過去と比べれば、家族が生きているだけでも私のほうがずっとマシだ。


――一人で寂しくありませんか。

――それなりだな。せいせいする日もあれば、思い出したように寂しくなる日もある。


 はじめて出会った日に投げかけた言葉を後悔する。薄いガラスを手の中で砕いてしまったような気分だ。


「まあ、ほら、十年も前の話だから。本人も立ち直ってるし、そこまで気にすることじゃないんだけどね。わけのわからん親切ほど不気味なものはないし、伝えたほうが安心できるかと思ったんだけど……」

「ありがとうございます。教えていただいて」


 平然としているから平気だとは言いきれないし、泣いていないから悲しくない、というわけでもない。

 瑠衣さんが言うように、赤猫はもう乗り越えたのかもしれない。それでも思い出したように寂しくなる日はあるのだ。

 私は罪悪感を飲み込んで頭を下げた。これで無意識に恩人を傷つけずに済む。


 そして昨日、沙奈絵と話していたときの赤猫の優しい声音を思い出して、私はほんの少しの予感とともに瑠衣さんに問いかけた。


「あの……亡くなったご家族って」

「両親と、弟だね」

「そうですか」

「ただ、あいつは遼志さんと……いや、ゴメン。なんでもない」

「いえ、大丈夫です。詮索せんさくしてすみません」


 嘘には真実を混ぜると効果的だと聞いたことがある。設定は嘘でも、赤猫が選ぶ言葉や乗せる感情はところどころ本物だったのではないだろうか。

 赤猫が私に過去の自分を重ねているとしたら、沙奈絵に弟の面影を見出したかもしれない。彼は小手先の話術だけで沙奈絵の心を掴んだのではない、という気がした。


 視線を下げながら、私は氷が溶けて薄くなったジンジャーエールを飲み干した。私がグラスから手を離すのを待って、瑠衣さんが心持ち明るい声で聞いた。


「ほかに買うものある?」


 私が首を横に振ると、瑠衣さんが「よし」と席を立つ。


「それじゃ、面白いモノ見に行こうぜ」

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