7-3


 そうして、私の赤猫探偵事務所でのアルバイト生活は、夕飯の支度を引き受けることからスタートした。


 言わずもがな犬飼家では母はほとんど家事に手を出さないので、炊事や洗濯は私と父の分業で成り立っていた。鈴村さんのような給仕のプロと比べられると困るが、基本的な家事程度なら私でも一通りこなせる。……はずだ。


 とりあえず今日は冷蔵庫に牛乳とバターがあったので、あり合わせの材料でグラタンと味噌汁を作った。

 家族以外の他人に料理を振舞う機会はめったにない。私は少々緊張しながら、グラタンを口に運ぶ赤猫を見守った。


「……どうですか」


 居間の座卓で、向かい合った赤猫に問いかけると、彼は「ふむ」と頷いただけだった。


 反応が薄すぎる。私は不安になりながら、自分のグラタンにスプーンを差し入れた。焦って口に入れたらとんでもなく熱くて、味わうどころではなかった。


「うまい」


 熱々のグラタンと戦う私をよそに、赤猫が神妙につぶやく。独特なリアクションだ。


「それなら、よかったです」

「俺が君くらいのときなんか、米をとぐのが精々せいぜいだった」

「お料理は苦手ですか?」

「今は可もなく不可もなくだな。君が全部やる必要はない。実働六時間の想定で、それ以外は共同生活だ」

「わかりました」


 今日得た情報によると、この家の現在の持ち主は漆原千鶴子という人で、彼女は日本の映画史に名を連ねる巨匠、漆原幹の妻なのだそうだ。漆原監督はすでに亡くなっているから、未亡人ということになる。


 千鶴子さんは神庭ホールディングスを経営する神庭一族のお嬢様でもあり、今はグループの会長を務めている。鈴村さんはこの千鶴子さんの使用人で、彼女から赤猫の面倒を見るよう指示されているのだ。赤猫と千鶴子さんはあくまで赤の他人だが、千鶴子さんは赤猫にとって親代わりでもあるらしい。


 千鶴子さんを軸に、赤猫と鈴村さんの関係もはっきりした。だから赤猫は鈴村さんに対して遠慮がちで、鈴村さんはわりと強気に世話を焼くのだ。


「そういえば、大家さん、入院してるんですか」


 箸を進めながら人物関係を整理して、ふと赤猫と鈴村さんの会話を思い出した。


「そうだな。階段から落ちて骨を折ったらしい。来週退院だが、東京の家には戻らずにしばらくここで療養するそうだ」

「この家ですか?」

「もともと千鶴子さんの家だからな。君が世話を焼く必要はない。鈴村さんの仕事だ」

「はあ」


 私はあいまいに相づちを打って、手に持った味噌汁をのぞき込んだ。住み込みと言えば聞こえはいいが、実態は居候とそう変わらない。


 どうこう言える立場ではないし、介助を手伝えと言われても文句はない。ただ、聞く限り住む世界がちがいすぎる。粗相そそうをしでかさないかが心配だ。


鬼婆おにばばじゃない。取って食われやしないから、大丈夫だ」


 赤猫がつけ加える。私はまた「はあ」とあいまいに頷いた。

 話題が途切れて、テレビに目をやると、天気予報が明日の気温を告げるところだった。明日も全国的にあたたかいらしい。


 私たちはニュース番組を眺めながら黙々と箸を進め、ほどなくしてどちらもきれいに食べ終えた。


「お茶をいれてこよう」


 食器を手早くまとめて赤猫が立ちあがる。私が、と申し出る間もなく、彼はそのまま居間を出て行ってしまった。

 共同生活だ、という赤猫の言葉を思い出す。あまり出しゃばってもよくない。


 私はなにをするでもなくテレビを眺めた。時刻表示が七時になって、今日のトピックが一覧で表示される。突風被害に事故、あとは政治家の失言。六時台に流れていたニュースと同じだ。


 ぼうっとニュースを見ていると、政治家の失言問題にスタジオのコメンテーターたちがもの知り顔で噛みつきはじめた。失言を責め立てるコメントを聞いていると、にわかに気分が悪くなってくる。


 リモコンを引き寄せてテレビを消す。ほっと一息ついたところに、赤猫が湯飲みを持って帰ってきた。


「明日は十時ごろ迎えにくるそうだ」

「瑠衣さんですか?」

「ああ」

「赤猫のお友だち、なんですか?」

「いわゆる幼なじみだ。まあ、あいつは俺を家来けらいくらいにしか思ってないだろうが」

「家来……」


 赤猫が腰を下ろそうとすると、玄関チャイムが鳴った。来客らしい。赤猫が表へ出て行って、私はまた一人になった。


 息を吹きかけて熱いお茶を冷ましながら、瑠衣さんと買いものか、と明日の自分を案じる。人柄は親しみやすそうだが、いかんせん見た目が整いすぎている。並んで歩く場面を想像すると、あまりにも不釣り合いで不安になった。


 買いものといってもシャンプーとか歯磨き粉とか日用品が揃えばいいから、そのへんのドラッグストアに連れて行ってもらえば十分だ。交通の便が悪いとはいえ三十分かそこら歩けば駅につくし、そもそも瑠衣さんに頼まなくても……。


 うしろ向きになっていると、赤猫が客人を伴って戻ってきた。


「やあ。さっきぶり」

「岩亀さん」


 夕方別れたばかりの岩亀さんだ。


「今日はありがとうございました。さっきはお礼も言えなくて」

「全然。あわただしかったからね」

「コーヒーいれてきます。お砂糖どうしますか?」


 私は湯飲みを置いて、聞きながら立ちあがった。

 今日一日で岩亀さんがコーヒーを購入するシーンを三回見た。二杯はブラック、一杯はスティックシュガーを一本だった。


「いや。砂糖は一日一杯にしてるんだ」


 苦笑しながら岩亀さんが頭を掻く。パフェもぺろりと平らげていたし、意外と甘党なのかもしれない。

 「わかりました」と私がキッチンへ向かうのと入れ替わりに、赤猫と岩亀さんが座卓に落ち着く気配がした。


「このあとは?」

「家に帰ります。じゅんさん最近マンションに入りびたりで、ばあちゃんもそっち行ってるから惨憺さんたんたるもんですよ。先輩よくこんなきれいにしてますよね」

「刑事なんてやってたらそんなものだろ。うちは鈴村さんもいるし」

「いいなあ。ここんとこコンビニ弁当続きだったんで、久々の手料理がみましたよ」


 居間のふすまもキッチンの扉も開いたままなので、二人の話し声がよく聞こえる。

 インスタントコーヒーを溶いて居間へ戻ると、岩亀さんは座卓の下に足を投げ出して天井を仰いでいた。お疲れの様子だ。


「どうぞ」

「ありがとう」

「夕食は……」


 来客用のカップを差し出しながら気遣うと、岩亀さんの目がきらきらと輝いた。失礼ながら、「おやつよ」と声をかけられた犬のようだった。


「先輩たちもこれからすか?」

「済んだところだ」


 身を乗り出した岩亀さんに赤猫が答える。期待した返答と異なったらしく、岩亀さんがしゅんとうなだれた。


「作りすぎたので少し残ってますけど……」


 普段の感覚で作ったので、グラタンも味噌汁も三人分になってしまった。

 取りあげられたジャーキーが再度目の前に登場すると、岩亀さんの瞳に輝きが戻る。岩亀さんは私に笑顔を向けたあと、じっと赤猫を見つめた。


「……よし」


 赤猫が短く言い放って、岩亀さんがガッツポーズする。ふと口に合わなかったらどうしようと不安になったが、いまさら、やっぱりありませんとも言えない。


「温めますね」


 私がキッチンへ戻る途中、うしろから「おかわりは一杯までだ」と赤猫が岩亀さんをしつける声がした。

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