7-2
「……もしもし」
「どうして言わなかったの」
母と話すよう身振りで指示されて、戸惑い半分に口を開く。最後の「し」を言い終わらないうちに、母が
突然登場した御曹司に関心を奪われて、けんかのことはすっかり忘れてしまったらしい。
どう答えたものか。私はちらりと赤猫を見てから、視線を落とした。
「お母さんと赤井さんを会わせるの、嫌だったから」
「どうして」
「お母さん、すぐに人のもの取ろうとする」
私は高校一年のときのむなしい初恋を思い出しながらつぶやいた。
いや、初恋と呼ぶのは大げさかもしれない。当時、私は担任の星野先生に淡い憧れを抱いていた。まだ大学を出て数年の若い男性教員だった。
先生は現代文の授業を受け持っていた。国語の成績はよかったし、一人の生徒として可愛がってもらっていた自覚はある。それに気づいた母は保護者面談をきっかけに、自分とひとまわり以上離れた青年を誘惑した。そしてあっという間に自分のものにしてしまった。
先生はすっかり真剣になってしまって、でも母にとっては遊びだった。大事にならずに済んだものの、先生は次の春に転任してしまった――そんな過去のおかげもあって、設定上の赤井さんを母に紹介すればどうなるかは、容易に想像がつく。
「そんなの、したことないじゃない。ひどいわ」
「心配はしてくれなくて大丈夫。私には赤井さんがいるから」
「どうしてそんな言いかたするの」
母は困り果てたような弱々しい声で言った。いつでも被害者になりきれるところは、むしろうらやましい。
「お父さんのことも赤井さんが相談に乗ってくれるから。あとで
「美沙緒ちゃん」
「沙奈絵そこにいる? 代わって」
母は押し黙った。赤猫が腕を組んで私のやりとりを眺めている。
しばらく沈黙があって、そのうち「もしもし」と沙奈絵のか細い声がした。
「沙奈絵?」
「うん」
「大丈夫? 困ったことない?」
「うん。お姉ちゃんは、大丈夫?」
「大丈夫だよ。赤井さんって、とっても頼りになる人が一緒なの。だから困ったら、いつでもお姉ちゃんに連絡してね」
「あのね、東さんがスマホ買ってくれたの」
「そうなんだ。今持ってる? お姉ちゃんの番号教えるから、登録しておいて」
「うん。待ってね……」
私と沙奈絵のやりとりに、母も東も口をはさまなかった。私は沙奈絵の端末に私の電話番号を登録させて、ショートメッセージを送らせた。
沙奈絵は怯えた様子もなく、元気そうだった。東は嫌いだが沙奈絵に連絡手段を与えたことは評価しよう。
沙奈絵との会話がひと段落すると、赤猫が手を差し出した。
「ちょっと待って。赤井さんが沙奈絵とお話ししたいんだって」
私はちらりと充電の残りを確認してから、赤猫に端末を手渡した。まだ十四パーセントある。十分もちそうだ。
「はじめまして、沙奈絵ちゃん」
「……はじめまして」
もれ聞こえる沙奈絵の声はやや萎縮していた。人見知りだから、仕方ない。
「僕は赤井といいます。沙奈絵ちゃんのお姉さんとおつきあいしています」
「……はい。お姉ちゃんと、結婚するんですか」
「うん。いいかな」
「お姉ちゃんのこと、好きですか?」
沙奈絵の口調はいつものように大人しく遠慮がちだが、鋭い質問だ。
ぎくっとしたのは私だけで、赤猫は少しも動じていなかった。
「沙奈絵ちゃんに負けないくらい、好きだよ」
「……うん」
沙奈絵は黙り込んだあと、はにかむように言った。赤猫はたった一言で、人一倍警戒心の強い沙奈絵の心を掴んでしまったらしい。探偵というより詐欺師の才能があるのではないだろうか。
「好きなら、いいよ」
「ありがとう。お姉ちゃんと結婚したら僕は沙奈絵ちゃんのお兄ちゃんだから、困ったときはなんでも相談していいし、わがまま言っていいからね」
「うん。……赤井さん、あのね」
言いかけて、沙奈絵は口をつぐんだ。
「……お姉ちゃんを、守ってね」
「約束するよ」
沙奈絵は「うん」と頷いた。赤猫がすぐに呼びかけて、会話を
「沙奈絵ちゃん。今度会いに行くから、おみやげはなにがいいか考えておいて」
「うん」
「充電があまりないから、お母さんにはまた連絡すると伝えてもらえるかな」
「わかりました」
「それじゃあ」
赤猫がそのまま通話を切る。
優しい声色で微笑んでいた赤井さんは、スッと無表情になった。
「……詐欺師ですね」
「ほめ言葉として受け取ろう」
私のスマホを操作しながら、赤猫は淡々と言った。さっきまでの好青年はどこへやら、すっかり不愛想に戻ってしまった。
「俺と岩亀くんの番号を入れておいた。あとで母親と妹の連絡先を送ってくれ」
「今送ります」
赤猫から端末を受け取って、すぐに母と妹の連絡先を送る。
「
そう言って、赤猫は自分のスマホを操作しながらマグカップに口をつけた。
「……甘いな」
ぼやいて、赤猫がカップをのぞき込む。そういえば、今日見た限り紅茶はストレート、コーヒーはブラックだった。砂糖は入れないタイプなのかもしれない。
赤猫はちょっと眉をしかめたが、すぐに気を取り直して本題に戻った。
「東のフルネームは?」
「東晴樹です。東西南北の東に、天気の晴れに、樹木の樹」
「年齢はわかるか?」
「四十二、三くらいだと思います。……東さんが、なにか」
「身辺を洗っておくに越したことはない」
言って、赤猫はスマートフォンを机に伏せた。
「若本というのは?」
「父を担当してくれている弁護士です。母から私に連絡がくるか怪しいので、赤猫からも
「わかった」
それきり私も赤猫も黙り込んだ。
赤猫は眉間にしわを寄せつつカフェオレに口をつけて、何事か思案しているようにも見えた。
何気なく廊下を振り返ると、窓越しに竹林が揺れていた。風が出てきたようだ。夕焼けに染まる景色の中で、作務衣姿の鈴村さんが庭園と竹林のあいだの石畳を掃いている。どことなくノスタルジックな、絵になる光景だった。
「どうして、そんなに親切にしてくれるんですか」
私は窓の外の鈴村さんを眺めながら聞いた。
「拾ったからには責任がある」
少し間があってから、赤猫は子供だましの理屈を述べた。視線を移してじっと見つめると、彼は観念した様子でカップを置いた。
「自分がそうしてもらったからだ」
赤猫は
そして思いついたように私を見て「下心があるからじゃないぞ」とつけ加えた。
「自分が無力な子どもだったとき、差しのべられた手に救われたからだ」
相変わらず無表情だったが、赤猫の声はずいぶんやわらかかった。そういう理由なら、少しは納得できる。
「そういえば、さっきの」
「なんだ」
「あんな嘘をついて、大丈夫ですか」
結婚を前提とした交際、というのは、年齢差を考えればかえって誠実な印象を与えるかもしれない。問題は赤猫のプロフィールだ。御曹司を装うなんて話はこれっぽっちも聞いていない。
赤猫はピンとこないのか「なにがだ」と真顔で聞き返した。
「仕事とか……」
「あれは嘘じゃない。漆原
漆原幹。名前は知っている。日本映画界の巨匠だ。
「名前は……。確か、もう亡くなってますよね?」
「ああ。この家はその漆原監督の別邸だった。本人が亡くなって、今は妻の千鶴子氏のものになった。彼女の旧姓が神庭なんだ」
「神庭ホールディングスの神庭ですか?」
「そう。千鶴子さん、つまりこの家の大家だが、彼女は神庭家の一人娘で神庭ホールディングスの現会長だ」
赤猫がジャケットの内ポケットから名刺を取り出す。昨日もらった名刺とはまったくちがうデザインで、肩書きは神庭ホールディングスの総合アドバイザーになっていた。
「この名刺がなかなか便利でな」
「そうでしょうね」
私は受け取った名刺を返却しながらしみじみと頷いた。この肩書きがあれば、日本国内どこへ行っても一瞬で社会的信用を勝ち取れるだろう。
納得しかけて、もう一つの問題に突き当たった。御曹司の赤井さんはその大企業を「祖母の会社」と表現していた。
「待ってください。そうすると、その千鶴子さんが赤猫の……」
「それは嘘だ」
言いかけると、赤猫がそう言いきった。
「俺と千鶴子さんは赤の他人だ。色々と面倒を見てもらって、そういう意味では俺にとって親みたいなものではあるが」
「じゃあ、玉の
「残念ながら」
ポケットに名刺を戻して、赤猫がちょっと笑う。彼はスマホをひっくり返して手短に操作し、再び机に伏せた。
「日用品も色々と入用だろう。瑠衣に頼んでおいたから、明日は買いものに行ってくるといい。俺はちょっと、仕事がある」
「いえ、でも……」
確かにシャンプーやリンスまでは持ってこれなかった。必要と言えば必要だが、いかんせん資金不足だ。
戸惑いながら言葉を濁すと、赤猫が腕を組みながら片手を口もとにあてた。たびたびこういうポーズを取るから、くせなのだろう。
「日給五千円。必要に応じて調査補助、事務、来客対応および家事。住み込みの探偵助手アルバイト、でどうだ」
そう言う赤猫を、私はきょとんとした顔で見つめた。
住み込みのアルバイト。聞き流しかけたが多分そう言った。
「所定労働時間を約六時間として、だいたい時給八百三十五円。低賃金だが衣食住は保証する」
「でも私、依頼料も」
「依頼もなにも、俺が勝手に首を突っ込んでるだけだ。君をつきそいや家事に従事させるなら、対価を支払うのは当然じゃないか?」
赤猫が不思議そうに言う。私は何度か目を
一応雇用契約だから、ポンとお小遣いを渡されるよりずっと対等で健全だ。
変に意地を張っても仕方ない。私は赤猫をじっと見つめたあと、姿勢を正して頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。まあ、仲良くやろう」
と、赤猫は微笑むでもなく、淡々とした声で言った。
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