7-1


 赤猫の自宅兼事務所である漆原うるしはらていに到着したのは、午後四時をまわるかまわらないかという時分だった。

 空はまだ明るく、車を降りると、うっすらと花の香りがただよっていた。春のにおいだ。


「それじゃ、また連絡します」


 私と赤猫を門の前まで送り届けると、岩亀さんはちょっと敬礼してそのまま去って行った。お礼を言うタイミングを失った私は、軽くお辞儀して遠ざかる車を見送った。白いSUVは塀の終わりを左に折れて見えなくなった。


「さて」


 つぶやいた赤猫を振り返ると、竹箒たけぼうきを持った鈴村さんがちょうど石畳をやってくるところだった。


「岩亀さんはお帰りですか」

「ええ。仕事が入ったらしい」

「刑事さんは大変ですね」


 鈴村さんは石畳の端に立って私たちを迎え入れた。朝はシャツとズボンだったが、今着ているのは濃紺の作務衣さむえだ。腰にベルトタイプのシザーケースをさげているから、庭木の手入れをしていたのかもしれない。


 鈴村さんは、私に視線を移すと表情をやわらげた。


「おかえりなさいませ」

「ただいま、もどりました」


 迎えの言葉にぎこちなく頭を下げる。どことなく照れくさくて、でも帰ってきてよかったのだという安堵が胸に広がった。


 私は赤猫のうしろを少し遅れてついて行った。母屋に向かう途中で、鈴村さんが石畳を掃く音が聞こえてきた。

 雨の中では物憂げに見えた竹林も、今日は青々としてすがすがしい。


 赤猫がガラガラと引き戸を開けて、一緒に玄関に入る。誰もいない母屋はシーンと静まりかえっていた。差し込む陽射しがほんのりと夕暮れの色を宿して、廊下にあたたかみをそえている。自分の家ではないのに、なぜかなつかしかった。


「お茶でいいか」


 居間へ入って、赤猫が振り返る。


「手伝います」


 お世話になる身なのだから、いつまでもお客さんでいるわけにはいかない。リュックを降ろしながら答えると、赤猫が「そうだな」と頷いた。


「勝手が分かったほうがいい。自分の家だと思って好きにやってくれ」


 居間を通り抜けると奥の廊下に出る。すぐ向かいにドアがあって、そこを開けるとキッチンだった。台所自体はもちろん、備えつけの棚や流し台もそれなりに年季が入っているようだが、家屋同様手入れが行き届いている。

 部屋の真ん中には作業台代わりにもなりそうなナチュラルブラウンのテーブルがひとつ。これはまだ新しそうだった。


「お茶類はだいたいここにある」


 赤猫が備えつけのガラス棚を指さす。のぞき込むと、インスタントコーヒーの瓶に緑茶の缶、ティーバッグの紅茶などがひとまとまりになっていた。


「台所に限らず、あるものはなんでも好きに使っていい。どこになにがあるかはあとで適当にあさってくれ」


 私がガラス棚を眺めていると、かがみ込んだ赤猫が戸棚の中をごそごそ探った。


「なんでも好きなものを選びなさい」


 言われて、とりあえず棚のガラス戸を開ける。緑茶や紅茶のほかにココアにカフェオレ、カモミールティーもある。私は少し考えて、カフェオレのスティックを手に取った。


「赤……猫は」


 赤井さんと呼ぼうか迷って、本人がそれでよいと言った愛称で呼びかける。

 四角い箱を取り出した赤猫はちょっとこっちを見てから、それを開けにかかった。


「同じでいい」


 私がスティックをもう一本取り出すあいだに、赤猫は箱からマグカップを取り出した。白地にデフォルメ調の三毛猫が描かれて、しっぽが持ち手になっている。


「もらいものだが、ちょうどいい」

「そういえば、どうしてミケ子なんですか?」

「タマ子のほうがよかったか」

「……ミケ子でいいです」


 素朴な疑問を口にすると、予想外の角度から返答がきた。


「どうせ聞いても名乗らなかっただろ」


 赤猫がマグカップと引き換えに、私の手からカフェオレのスティックを一本抜き取る。それはそうかもしれないが、だからどうしてミケ子なのだろう。


「深い理由はない」

「……なるほど」


 特に理由がないのであれば、問いただしたところで答えはない。まあいいか、と思いながらポットのお湯でカフェオレを溶いた。


 カップを持って居間へ戻ると、赤猫が私のほうへ手を差し出した。


「電話を貸してくれ。お母さんにかけてみよう」

「充電があんまりないです」

「問題ない」


 私はバッグからスマートフォンを取り出し、ロックを解除して赤猫に手渡した。充電残量は十八パーセントだ。赤猫は通話履歴を表示して、すぐに母の番号を見つけ出した。


「この番号か?」

「そうです」

「打ち合わせ通りで行こう」


 赤猫はなにを気負うでもなく、友だちに電話をかけるくらいの気安さで通話ボタンをタップした。静まりかえった居間にコール音が響く。その音を聞きながら、私も座布団に腰を下ろした。


 ……なにか打ち合わせたっけ?


 しばらく呼び出し続けたが、母が応答する気配はない。マグカップを両手でつつみながら壁時計を見上げると、四時半になるところだった。心配しろとは言わないが、電話くらい出ろ。そう思いながら赤猫に視線を移した瞬間、


「美沙緒ちゃん?」


 赤猫の耳もとの端末から、男の声がもれ聞こえた。東だ。


「犬飼さんのお電話でしょうか?」

「……ええ、そうですが」


 赤猫が切り出すと、東の声が低くなった。明らかに警戒している。

 赤猫がちらりと私に目配めくばせした。


「赤井と申します。美沙緒さんのことでお話があってお電話したのですが……失礼ですが、東さんでしょうか」

「……ええ」

「そうですか、よかった。置き手紙もなにもなかったというので、心配していたんです。もっと早く連絡すればよかったのですが、こんなタイミングになってしまって。ほとんどけんか別れだったと聞いているので、沙彩さんに美沙緒さんは無事だとお伝えください。また改めてお電話させていただきます」


 よくもまあすらすらと口がまわるものだ。普段よりずっと愛想のよい赤猫に「ちょっと」と、東が食い気味に割り込んだ。


「これ、美沙緒ちゃんの電話ですよね。あなた誰なんですか」

「赤井と申します。美沙緒さんとは、少し前からおつきあいさせていただいています」

「は……」

「もしもし」


 東が言葉に詰まると、急に女の声がした。母だ。東から電話を奪ったらしい。


「もしもし。美沙緒さんのお母様ですか」


 赤猫の目配せに、私は黙って頷いた。電話の向こうから「そうです」とか細い声がする。


「はじめてのご挨拶がお電話で申し訳ありません。赤井と申します」

「赤井さん……。娘がそちらにお邪魔しているんですか?」

「ええ。連絡するよう言ったのですが、意固地になっているようで……」

「そういう子ですから。ご迷惑をおかけしていないでしょうか」


 母の返答に、ムッとしたくなるのを抑えてカフェオレをのぞき込んだ。意地になっているのはそっちのくせに。


 聞こえてくる母の声はやけにしおらしかった。それに、ちょっと鼻にかけた、甘えるような音も混じっている。電話口の見知らぬ男、つまり赤猫へのびと興味がありありとにじみ出ていた。


「頼りにしてもらえてほっとしています。こんなタイミングで、順序も逆になってしまいましたが……美沙緒さんをお預かりするうえで、結婚を前提としたおつきあいをお許しいただきたいと思っています」

「まあ、結婚」


 母はそうつぶやいたきり黙り込んだ。私もぎょっとした。赤猫だけが涼しい顔でスマホを耳にあてている。

 恋人という設定で切り出すのは承知していたが、そこまで話を広げるとは聞いていない。


「……すみません、突然で、驚いてしまって。あの子、そんなそぶりを見せたことがないものですから」

「年が少し離れているので、私に配慮してくれたのだと思います。今までご挨拶もせず申し訳ありませんでした」

「まあ、誰とおつきあいするのも、あの子の勝手ですから……」


 自由と言えばいいのに、母の言葉選びにはとげがあった。


「美沙緒の人生ですから、私が口を出すことじゃありません。でも、ご迷惑じゃありませんか。ニュースでご存じでしょう。その子の父親が……」

「だからこそ、私が支えたいと思っています」


 でっちあげの作り話なのに、赤猫の声には妙な説得力がある。母は反論をやめて「そうですか」と頷いた。


 赤猫は少しうつむいて、自分のマグカップを見つめていた。それなりに端正な顔だちで、スタイルも悪くない。案外役者にでも向いているのではなかろうか。


「美沙緒は幸せですね」


 わずかな沈黙ののち、母はぽつりとつぶやいた。自分がこの世の不幸をすべて背負い込んでいるとでも言いたげな声色だった。


「お母様は今、どちらに?」

「夫の知人の家にお世話になっています。自宅は嫌がらせがひどくて……。娘にも一緒にくるよう言ったのですけど」

「東さんですね。美沙緒さんから聞きました。もし困ったことがあったら、いつでも連絡してください。あとで私の連絡先を送ってもらいます」

「ご親切に、ありがとうございます」

「広い家に一人暮らしなものですから、本当は家族が増えるのを楽しみにしていたんです。手間取っているうちに東さんに先を越されてしまいました」


「……失礼ですが、あの、お仕事は?」

「祖母の会社で、今は出版部門のアドバイザーを担当しています。神庭かんばホールディングスをご存じでしょうか」

「存じております。まあ、そうですか。おばあさまが……」


 母は圧倒された様子でつぶやいた。

 神庭ホールディングスといえば、映像や出版のほか服飾美容から製薬まで、幅広く事業を展開している超有名企業だ。


「遠からず、直接ご挨拶させてください」


 赤猫は御曹司よろしく温厚な口調で言った。声色に説得力がありすぎて逆に胡散臭うさんくさいくらいだ。けれど母の性格を考えると間違いなく信じるだろう。設定とはいえ、とんでもない彼氏ができてしまった。


「ええ。ぜひお会いしたいわ。あの、美沙緒に代わっていただけますか?」

「もちろんです。美沙緒」


 赤猫が小芝居しながらスマホを差し出す。それを受け取って、探偵の顔を見た。どうすればいいのだろう。

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