6-1


 交通情報を聞きながら、流れ去る景色を眺めている。


 朝食のあと、私たちはそれほど間を置かずに出発した。岩亀さんの車で、助手席に赤猫が座り、私は運転席側の後部座席に乗った。

 職業柄家に帰れない日も多いのか、岩亀さんの車の後部座席は着替えや日用雑貨でごちゃっとしていた。岩亀さんは「はずかしいな」と言いながら荷物を強引に押しやって、私が座るスペースを作ってくれた。


 車内には、岩亀さんがパーキングエリアで買ったコーヒーのにおいが充満している。カーナビの画面を見ると、次のインターチェンジで高速道路を降りるよう指示が出ていた。


 時刻は午前十時三十分をまわったところだ。

 ETCレーンを抜けて一般道路をしばらく走ると、見おぼえのある景色に変わった。自宅が近づくにつれ、非日常感が薄れて現実味が増してくる。


「そこを左です」


 カーナビに先立って住宅街のせまい道を案内する。「目的地周辺です」の音声案内とともにナビが終了した。


「その……」


 と、示した我が家のブロック塀に、貼り紙が増えている。思わず言葉を飲み込んでしまったが、車は車庫の前ぎりぎりに寄せて停まった。

 ぽつんと残された父の車をよく見ると、タイヤが不自然に潰れていた。


 赤猫と岩亀さんが車を降りる。私もシートベルトを外して、浮かない気分でドアを開けた。ちょうど小型犬を連れた六十代くらいの女性が通りかかって、見慣れない隣県ナンバーの車両と男二人とを警戒するようにジロジロ見ていた。


 犬にも女性にも見おぼえがある。ぬいぐるみのようなトイプードルはアポロという名前で、私が子どものころからうちの前の道を散歩コースにしている。女性は車から降りた私を見てなにか言いたそうな顔をしたが、すぐに目をらした。


「キューン」


 小さなアポロがリードをいっぱいにのばして、甘えた声を出す。相変わらず人懐こい。


「こんにちは」


 私が挨拶すると、女性は困った顔で私を見つめた。


「……ねえ。昨日、変な男がうろうろしてたわよ。気をつけて」

「ありがとうございます」

「大変ね。がんばって」


 女性は小さな声で言って、犬のリードを引っ張った。アポロが名残惜しそうに私を振り返る。女性は人目を恐れるように早足で去り、彼女とアポロはかどを曲がって見えなくなった。


「ひどいな」


 ひと殺し、とプリントされた紙を塀から剥がして、岩亀さんがつぶやく。

 私はかばんから玄関の鍵を取り出して、門の前にかがんでいる赤猫に歩み寄った。なにをしているのかとのぞき込むと、たばこのがらが落ちていた。路上でよく見かけるゴミだが、さっきのおばさんが言っていた不審者の痕跡とも考えられる。


 門を開けて庭へ入ると、赤猫と岩亀さんがついてくる。赤猫はなにかを探すようにずっとうつむいていた。


銘柄めいがらがちがう。喫煙者は複数だな」


 赤猫が急にかがむ。ここにも吸い殻が落ちていた。


「鍵が……」


 気づいてつぶやくと、赤猫が顔をあげる。


「なんだ?」

「最近、門に鍵をつけたんです。ナンバーロックの。今までつけていなかったけど、迷惑な人が増えたから……。でも今、なかったですね」


 岩亀さんが素早く戻って門を調べる。私も合流したが、それらしきものは門にもかかっていないし、近くにも落ちていないようだった。


「家を出たのは一昨日だったな。そのときは?」

「門の鍵をかけた記憶はないです。そういえば、帰ってきたときに外した記憶もない……。バイトに行くときは、確かにロックしたと思うんですけど」

「中を見てみよう」


 赤猫に促されて玄関へ向かう。庭先に落ちた吸い殻に目をやって、暗い気持ちになった。


 玄関のドアは施錠されたままだった。開けたらどうなっているかを想像すると、怖い。一人じゃないから大丈夫、と自分を励まして取っ手を引いた。


 家の中は静まりかえっていた。荒らされた様子もなければ、人の気配もない。玄関にはやはり一足の靴もなかった。

 たった一日留守にしただけなのに、もっと長い時間が経ったような気がする。


「確かに、荒らされた様子はないな」


 リビングに案内すると、つぶやきながら赤猫が窓際に歩み寄った。カーテンを少し開けて、窓の施錠を確認しているようだ。私の目から見ても、リビングに異変は感じなかった。


「私が家を出たときのままに見えます」

「じゃあやっぱり、お母さんは帰ってないか」


 岩亀さんがつぶやいて、赤猫を振り返る。


「この家に一人じゃ置いとけませんね」


 岩亀さんが言い終わるのと同時に、電話が鳴った。二、三コール待ってから赤猫が無言で受話器を取り、少し耳にあててもとに戻す。無言電話だったのだろう。


 受話器を置いてすぐ、再び着信音が鳴り響いた。


「もしもし」


 赤猫はもう一度受話器を取って、今度は短く応答した。そして「切れた」とつぶやいて受話器を置いた。


「ノイローゼにもなるな」

「ニュースになってすぐは、もっとひどかったです」

「そうだろう」


 言いながら、赤猫は電話機の横に置いてあるメモ帳を手に取ってパラパラめくった。


「荷物をまとめてくるといい。亀、一緒に行ってやってくれ」

「はい。部屋は?」

「二階です」


 よかった、連れて帰ってもらえるのだ。ほっとしながら、岩亀さんを伴ってリビングを出る。見慣れた階段をのぼって、二人で私の部屋に向かった。


 一階同様、二階にも変わった様子はない。


「こっちは妹さんの机?」

「はい」

「開けても?」

「どうぞ」


 私と妹の部屋も出て行ったときのままに見えた。岩亀さんが沙奈絵の勉強机を検分しているあいだに、私はクローゼットからリュックを引っ張り出した。

 リュックに春物の着替えと、なるべく新しくて、できるだけ子どもっぽくない下着を選んで詰める。それから充電器も。


「美沙緒ちゃん」


 呼ばれて振り向くと、四つん這いになった岩亀さんが沙奈絵の机の下に頭を突っ込んでいた。のそりと顔を出した岩亀さんの手に、メモ用紙が握られている。


〈お姉ちゃんへ。お母さんと、東さんのところに行きます。小山田おやまださんがむかえにきてくれます。お母さんは、お姉ちゃんは行かないと言っていたけど、わたしはお姉ちゃんがいないと不安です。東さんの家は〉


 沙奈絵からの伝言はそこで終わっていた。母に隠れて書いたのかもしれない。


「小山田さんって?」

「父の職場の人です。色々親身になってくれて……。母は免許を持っていないので、小山田さんを頼ったのかもしれません」

「小山田さんの連絡先は?」


 私は首を横に振った。小山田さんの番号は母のスマホに登録してあって、私の端末には入っていない。

 岩亀さんからメモを受け取って、沙奈絵の字を見つめる。この先は東の住まいを書こうとしたのだろうか。


 わずかに開いたカーテンに気づいて、メモを片手に窓際へ近づく。と、門の前に人影が見えた。大学生くらいだろうか。若そうな男が三人、明らかに不審な動きでうろうろしている。

 一人がたばこを吸いながらこちらを見上げたので、すぐにカーテンを閉めた。


「どうした?」

「家の前をうろうろしてる人が」


 岩亀さんがカーテンをほんの少しつまんで、外の様子をうかがう。ピンポーンとチャイムが鳴った。あの三人組だろう。面白半分のいたずらだ。無視に限る。

 動揺を飲み込んで、私はベッドに置いたリュックを持ちあげた。それを岩亀さんがひょいと取りあげる。


「これだけ?」


 こくりと頷くとまたチャイムが鳴った。

 部屋を出て階段を降りると、腕組みした赤猫が廊下の壁にもたれていた。


「来客らしい」


 しつこくチャイムが鳴る。今度は玄関のドアがノックされた。庭まで入ってきたらしい。


「あのー。すいませーん」


 玄関ドア越しに、若い男の声がする。男はもう一度コンコンとドアを叩いた。乱暴な叩きかたではないが、知り合いではないし、目的もわからない。

 赤猫に視線で問いかけると、彼は口もとに手をあてて軽く顎をしゃくった。


「なんの用か聞いてみろ」


 そう言われて、仕方なく最後の階段を降りる。続こうとした岩亀さんを、赤猫が手をかざして制止した。

 嫌だなと思いつつ玄関まで行って、本当に聞くのかという気持ちで振り返る。赤猫は表情を変えずに頷いた。


「……どちらさまですか」


 私が低い声で応答すると、わずかに沈黙があった。


「あのー……おれたち、小山田さんに頼まれて……」


 男の喋りかたはごく普通だった。若干間延まのびしてはいるが、下品でも乱暴でもない。


 父は私立大学の事務職員だった。小山田さんもそうだ。一瞬小山田さんが学生になにか頼んだのだろうかと考えたが、プライベートの、しかも殺人が絡むような事件に生徒を巻き込むはずがない。


「どんなご用ですか」

「えっとー、開けてもらえませんか?」


 男は詳細を口にしなかった。小山田さんの名をかたった罠ではないのだろうか。赤猫を振り返ると、彼はまた頷いて階段を一段のぼった。玄関から死角になっているので、赤猫の姿はまったく見えなくなった。


 私もさすがに馬鹿ではない。こんな怪しい訪問、普通なら絶対に取り合わない。


 そういえば一人の声しかしないが、二階から見た限り三人組だった。ドアスコープをのぞいてみると、立っているのは一人だけだった。


「あのー、頼まれたことがあってー……えっと、開けてほしいんですけどー……」


 青年が間延びした声で繰り返す。私はもう一度廊下を振り返った。本当に開けるのだろうか。岩亀さんが顔をのぞかせて、袖をまくりあげた。任せろということだろう。


「……今、開けます」

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