5


 甘い香りで目覚めると、ぼやけた視界に見知らぬ天井が映った。

 自分が一体どこにいるのか、一瞬理解できなかった。状況を少しずつ整理して、そうか、夢ではなかったのだと納得する。

 昨日私は赤井小虎、通称赤猫と名乗る探偵に拾われて、その事務所兼自宅にひと晩泊めてもらったのだった。


 一人で住むには大きすぎる二階建ての一軒家は、年季こそ入っているものの、隅から隅までよく手入れされている。私が案内されたのは二階にある六畳ほどの和室で、文机ふづくえとシェードランプのほかはなにもなく、普段は空き部屋のようだった。


 昨日の夜は、心身の疲労とは裏腹になかなか寝つけなかった。うとうとしてはハッと目覚めて、それを何度か繰り返した。雨以外、なんの音もないとても静かな夜だった。


 いつ寝ついたのかわからないが、それからの眠りは深かった。夢を見たおぼえもなければ眠気も残っておらず、頭も身体もすっきりしている。


 布団から起きあがって廊下へ出ようとふすまを開くと、その先も六畳間だった。廊下は逆方向のようだ。

 続きの和室にも布団が敷かれていて、誰かがこちらに背を向けて眠っていた。枕もとにカーキのパーカーが丸めてある。私の記憶が確かなら、赤猫の後輩で刑事だという岩亀さんだ。

 岩亀さんはぴくりともせず、よく眠っているようだった。起こさないようそろりとふすまを閉めて、反対側から廊下へ出る。


 吹き抜けのガラス窓にやわらかな朝日があふれて、雨はすっかりやんだようだった。昨夜は暗くて気づかなかったが、窓が多くて明るいつくりの家だ。


 手もとには着替えもなにもない。私は起き抜けのままゆっくりと階段を下りて行った。

 窓越しに立派な前庭を眺めながら居間へ向かうと、ひょこりと制服姿の女の子が顔を出した。


「おはようございます、ミケ子さん」

「おは、ようございます」


 不意打ちに陽鞠の笑顔を浴びて、気圧けおされながら挨拶を返す。彼女は髪から服まできちんと身なりを整えて、寝ぼけた様子はどこにもなかった。

 陽鞠のうしろから、鈴村さんがエプロンで手を拭きながらやってきた。


「おはようございます。朝食はアトリエでどうぞ。すぐにご用意します」

「アトリエ……」


 耳慣れない単語を繰り返すと、鈴村さんは手のひらで廊下の突き当たりを示した。


「お洋服は洗面所にたたんでおきました」

「ありがとうございます」


 鈴村さんの気遣いに頭を下げる。料理といい洗濯といい、この家の家事を一手に担っているのだろうか。


「おじいちゃん。私、小虎さんを起こしてくるね」


 と、朝から元気な陽鞠が軽快に居間を飛び出すが、すぐに、あっ、と声をあげて立ちどまった。起こしに行こうとした人物と鉢合はちあわせたらしい。

 ジャケットにスラックス、昨日と似たような装いの赤猫が差し込む朝日を背負ってのそりと現れた。


「鈴村さん、気を遣ってくれなくていいのに」

「いえ。ミケ子さんのほかにもお客様がいらっしゃるようですから。まだ起こさないほうがよろしいでしょうか」

「いや、せっかくだ、陽鞠ちゃんに起こしてもらえば喜ぶだろう」

「陽鞠」


 どことなくしゅんとしていた陽鞠は、鈴村さんに呼びかけられると浮かない表情を振り払った。彼女は「うん」と返事して、廊下を去って行った。


「今日は早起きでいらっしゃる」


 陽鞠を見送ってから、鈴村さんが赤猫に向き直る。

 赤猫も背が高いのだが、二人を見比べると鈴村さんのほうが更に大きかった。


「用ができたので」

「そうでしたか」


 赤猫がすまして答えると、鈴村さんはにこりともにやりとも取れる笑みを浮かべた。


 私はちらりと赤猫を盗み見た。なるほど、普段はあまり朝に強くないが、今日はきちんと起きてきたらしい。おそらく家族でも友人でもない私がいるからで、つまり、いつもより気取っているのだろう。


「朝食はアトリエにご用意します。新聞もそちらに置いてありますので」


 鈴村さんはそれ以上余計なことは言わず、案内を述べて台所へ戻って行った。


 陽鞠が赤猫に憧れているのは明らかで、彼女にとっては真剣な恋心のようだ。けれど赤猫はやんわりとかわしているふうにも見える。年の差を考えればそれも仕方ない。

 とはいえ陽鞠からすれば、自分とそう変わらない年ごろの私が赤猫のシャツを着ているのも、私の手前赤猫がちょっと格好つけているのも複雑だろう。


「眠れたか?」

「おかげさまで」


 私の視線に気づいた赤猫が、ありきたりな質問をする。私もあたりさわりなく答えて、彼のあとに続いてアトリエへ向かった。


「ここはもともと芸術家の別邸べっていで、所有者の奥様からご厚意で貸してもらっている。鈴村さんは奥様の使用人だ」


 明るい廊下を歩きながら、赤猫が世間話程度に教えてくれる。芸術家の別荘か。なるほど、それなら立派な庭園や坪庭、アトリエ、この家の変わったつくりにも納得が行く。表札にあった「漆原」がその芸術家の名前だろう。


「ここがアトリエだ」


 赤猫が廊下の突き当たりのドアを開ける。

 アトリエと呼ばれるその部屋は、窓際にシンプルなダイニングテーブル、壁際にソファ、それから観葉植物の鉢植えがひとつあるだけのがらんとした洋室だった。


「あの、私も着替えてきます」

「ああ」


 私はアトリエに入る前に赤猫を見上げて、そそくさと廊下を引き返した。

 洗面所に向かいながら坪庭に目をやると、岩のくぼみにたまった水がキラキラと陽光を反射している。今日はあたたかくなりそうだ。


 すっかり乾いた私の服は、丁寧にたたまれて洗面所の編みかごの中にまとまっていた。一番上にワンピースが置かれて、下着類はその下に隠して重ねてあった。


 私はさっと洗面所の引き戸を閉め、パジャマ代わりのシャツとズボンを脱いだ。下着を身につけてほっとしたところで、年季の入ったカットソーを手に取ってしばし眺める。あのアトリエには、けば立ったセーターよりも春物のワンピースのほうが相応しいような気がする。


 鏡に向かってそっとフリルのワンピースを合わせてみる。分かりきってはいたが、やはり似合わなかった。これはだめだ。


 ワンピースをたたみ直してもう一度カットソーに手をのばす。と、なんの前触れもなく引き戸が開いた。


「……」

「……ごっ、めん!」


 あくびをしながら現れた岩亀さんが口を開けたままかたまって、我に返ると同時にピシャリと戸を閉めた。寝起きの顔はだいぶ気が抜けていた。


 あとがつかえているようなので、セーターを着てズボンをはき、軽く髪を整えただけで洗面所を出た。岩亀さんは引き戸の続きの壁にもたれ、額を押さえてうなだれていた。


「あきました。どうぞ」

「ごめん、ホント、わざとじゃない……」

「大丈夫です。こちらこそ朝からお見苦しいものを失礼しました」

「いや、そんなことない。むしろラッ……」

「……らっ?」

「なんでもないです……」


 はっきりとした語気で話し出した岩亀さんが急に口をつぐむ。そしてそのまま壁に頭を押しつけて、落ち込んでしまった。フォローしようとして墓穴を掘るタイプで間違いない。


「顔、洗ってくる……」


 気落ちした岩亀さんの背中を見送って、私はいったん二階へ戻った。

 六畳間の文机にワンピースを置き、ついでに敷いたままの布団を片付ける。かばんからスマホを取り出すと、充電はまだ四十パーセントほど残っていた。やはり通知は一件もない。


 アトリエへ戻ると、赤猫と岩亀さんが窓際のテーブルに向かい合っていた。

 顔を洗い、髪をきちんとセットした岩亀さんは、さっきよりずいぶんシャンとしている。赤猫はすまし顔で今日の新聞に目を通していた。


 こうして見ると、なかなかちぐはぐなコンビだ。


「お――おはよう」

「おはようございます」


 岩亀さんは先ほどの失態を引きずりながら、なんとか大人の威厳を保って言った。私が何事もなかったように返すと、明らかにほっとした様子だった。


「着替えでものぞいたのか」

「ゴッ」


 新聞に目を落としたまま赤猫が指摘して、安堵ついでにコーヒーに口をつけた岩亀さんがあわや大惨事を起こしかけた。

 噴き出しかけたコーヒーを飲み込んで、岩亀さんががっくりと肩を落とす。


「事故なんすよ……ハァ……」

「お前の弱みだぞ。懲戒ちょうかい処分に気をつけろよ」

「怖いこと言わないでくださいよ」


 二人が向き合うテーブルに近づくと、赤猫が新聞から顔をあげて、空いた椅子に座るよう手振りした。

 四人がけの丸テーブルの真ん中には、サラダを盛りつけたガラス製のボウルが置かれていた。メインディッシュはこれから運ばれてくるようだ。


 赤猫の手もとに目をやると、カップの中身はコーヒーではなく紅茶だった。

 英国探偵とアメリカンヒーロー。二人のちぐはぐ感を表現しようとしたら、そう例えるのがぴったりかもしれない。


「あり合わせですが」


 私が席につくのとほとんど同時に、鈴村さんが入ってくる。鈴村さんは丸皿を右手と左手に合わせて三枚、レストランのウエイターのように器用にのせて、まず一皿を私の前に置いた。


「わあ……」


 シンプルな白い皿の中央で、高くふくらんだパンケーキが湯気を立てている。表面はこんがり焼けて、上に乗った溶けかけのバターがなんとも魅惑的だ。思わず嘆息して、釘づけになる。

 パンケーキのサイドにはカリカリに焼けたベーコンと、見るからに口溶けの良さそうなスクランブルエッグがそえられていた。


「はちみつとメープルシロップです。お好みでどうぞ。コーヒーと紅茶はどちらがよろしいですか?」


 鈴村さんはサラダボウルの前に並んだ二つのミルクポットを示してから、私に飲みものの希望を聞いた。


「それじゃあ、紅茶をいただいても……」

「もちろんです」


 おずおずと答えると、鈴村さんが優しく微笑む。

 放浪生活から一転、まるで貴族にでもなってしまったようだ。


「先輩、よく太らないっすね」

「毎日じゃない」


 岩亀さんの一言にそっけなく答えながら、赤猫が新聞をたたむ。

 鈴村さんは曜日によって暮らしの面倒を見ているようなことを言っていたから、赤猫は毎日でなくても定期的にこんな食卓にありつけるのだ。うらやましい。


「ご用命さえあればいつでもお手伝いするよう言われていますが、ご本人がなかなか頼ってくださらないものですから」

「いいなあ。俺も住みたいですよ」

「ひと月五万」

「思ったよりも良心的すね」


 岩亀さんと赤猫が息の合ったやりとりをしながら、それぞれカトラリーを手に取った。


「すぐに紅茶をお持ちします。ごゆっくりどうぞ」


 鈴村さんは私に優しく声をかけて、キッチンへ戻って行った。

 テーブルマナーに戸惑いつつ、私も左手にフォーク、右手にナイフを持つ。


「ご厚意に甘えたらいいじゃないですか」


 パンケーキをフォークで押し切りながら岩亀さんが言った。ナイフを使う気はないらしい。対して赤猫はパンケーキにフォークをそえて、ナイフで丁寧に切れ目を入れた。


「十分甘えてる」


 鈴村さんは赤猫にこの家を貸している奥様の使用人で、その奥様から赤猫の面倒を見るよう言いつけられている。すると、お手伝いさんつきの物件ということだろうか。


 まあ、それはともかく。二人の会話を聞きながら、私の心はすっかりパンケーキに奪われている。

 はちみつかメープルシロップか、それが問題だ。いや、やっぱり最初はバターだけで味わおう。


「いただきます」


 フォークとナイフを構えてつぶやくと、赤猫と岩亀さんが揃って私のほうを見た。赤猫は切り分ける手をとめて、岩亀さんは口に突っ込む寸前のフォークを引いて前かがみの姿勢を正した。


「いただきます」


 と、二人の声が重なる。


 パンケーキの端にナイフを入れると、きつね色の表面がサクッと音を立てた。外はサクサクで、中はふわふわだ。どきどきしながら、ひとかけら口に運ぶ。シンプルでなつかしい味だ。おいしい。


 さあ、はちみつかメープルシロップ、どちらにしよう。両方を半々でもいいんじゃないだろうか。それがいいんじゃないだろうか。

 ミルクポットに手をのばそうと目線をあげると、フォークをくわえた岩亀さんが私を眺めていた。


「おいしい?」

「……はい」


 とっさに真顔で答えると、岩亀さんがにこりと笑った。年上の男性に対して失礼かもしれないが、人懐こいというか、どことなく無邪気な印象のある人だ。

 笑い返そうとして、口もとがひきつる。表情筋が笑顔の作りかたを忘れてしまったらしい。


「連絡はあったか?」


 そう聞かれて赤猫を見ると、彼はちょいと自分の口の端を指で示した。同じところに手をあてるとパンケーキの破片がついていた。


「いえ。なにも……」


 答えながら、はちみつのポットに手をのばす。

 私と母の親子関係を説明するのは面倒だしややこしい。おいしいパンケーキを食べているのだから、できれば今はやめてほしい。


「とにかく現場を確認して、それからっすね。すぐ出ます?」

「ああ。陽のあるうちに片付けよう。お前も忙しいだろう」

「よっぽどじゃなきゃ大丈夫ですよ。なんで」


 幸い、母の話題にはならなかった。ほっとしながらパンケーキの右半分にはちみつをかける。

 パンケーキの熱で溶けるはちみつを満足な気持ちで眺めていると、赤猫が黙って手を差し出した。はちみつをご所望らしい。


 私が無言でミルクポットを手渡すと、


「熟年夫婦なの……?」


 と、岩亀さんがつぶやいた。

 まさか。出会ってから、まだ二十四時間経っていない。

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