4
四
いくぶん冷えた体で廊下を洗面所へと戻る。洗濯機は脱水が終わって、乾燥の準備をしているところだった。
まさか下着を借りるわけにはいかないし、観念して赤猫が貸してくれたジャージをはいた。ウエストをひもで調節して、裾は踏まない程度にまくりあげる。シャツのボタンもきちんと一番上までとめた。
鏡をのぞき込むと、目もとが赤くなっていた。まぶたはずいぶん重く感じるが、見た目にはそれほど腫れていない。
シャツ一枚では寒くなったので、カゴにかけておいたジャケットを羽織る。
スリッパを履いて居間へ戻ると、男二人が座卓をはさんで向き合っていた。客人の前には品のよいカップが置かれて、インスタントコーヒーのにおいがただよっている。
私の姿を認めると、さっきのやんちゃそうな男が、あっ、と声をあげた。
「いや、ええと、さっきはごめんね。あの、全然、見なかったから、俺。大丈夫」
「どうした、しどろもどろだぞ」
「純情なんですよ、先輩とちがって」
後輩は二十代中ごろに差しかかるくらいに見えた。赤猫は赤猫でそれなりにうろたえていた気がするが、今はすっかりすまし顔だ。
「こちらこそ、お見苦しいものをお見せして」
「いやっ、見苦しいなんて、そんな。全然。見苦しくない、ない」
見たくもないものを見せたわけだから、私は私で頭を下げる。すると男は再びしどろもどろになって頬を赤らめた。
「しっかり見てるじゃないか」
「……先輩……」
いじわるな先輩だ。赤猫にぼそりと指摘されて、後輩から
さすがに気まずくなって私が視線を落とすと、後輩はフォローしなくてはと思ったのか、急かされたように喋り出した。
「いや、その、彼氏の服着てるみたいな、そういう感じで、ほら、かわいいよね。見たというかそういうのじゃなく、すごくいいというか、いや、いいよね! 好きだな!」
「やめておけ、
フォローというか弁解というか、必死に取り
赤猫に一言刺されると、後輩は背中を丸めて両手で顔を覆った。
「だって徹夜続きですげえ疲れてて、心配して駆けつけたのに、先輩は女の子といちゃいちゃしてて……」
「してない」
きっぱり言い放つと、赤猫は息をついて気を取り直し、立ったままの私を斜めに見上げた。
「彼は学生時代の後輩で、現役の刑事だ」
刑事という単語に反射的に身構える。しかし、うつむいた男の頭に視線をやると、どうしてか力が抜けてしまった。
それほど堅そうには見えないが、警察官である以上、家に帰れと言われて振り出しに戻るのは避けたい。そう思うとほんの少し緊張感が戻ってきた。
「わかります、先輩。刑事って刑事というだけでモテないんですよ」
「今日のお前面倒くさいな」
赤猫に面倒くさがられながら、若い刑事がため息をつく。彼はぐっとコーヒーを飲み干すと、背筋をのばして私に向き直った。
「犬飼美沙緒さん。お父さんの事件は管轄外で詳しくないけど……大変だったね」
「……」
「赤井さんから経緯は聞いたよ。疲れているだろうけど、少しだけ話を聞いていいかな。今も言ったけど俺は事件の担当じゃないし、勤務時間外だ。だから警察官じゃなく、一人の大人として君の相談に乗りたい。どうかな」
刑事は穏やかな口調でうかがうように言った。
猫なで声とはちがうが、優しく話そうという意識を感じる。しかし同情的ではないし、恩着せがましくもなかった。
助けを求めて赤猫を見ると、自分のとなりに座るよう手振りで示した。
「あたたかいものを持ってこよう」
赤猫が立ちあがり、居間を出て行く。取り残されて困惑する私に、刑事もまた座るようにと手振りして微笑んだ。
徹夜続きだと嘆いていたように、よく見ると目もとにくっきりと隈が浮かんでいる。心なしか顔色もあまりよくない。
先輩を案じて仕事終わりに駆けつけるくらいだから、赤猫とはよほど仲がいいか、あるいはお人好しなのだろう。類は友を呼ぶ、という言葉もある。
「そうだ。俺は
「……」
自己紹介を聞いて、私はうつむくように頭を下げた。
岩亀さんは私が座布団に膝をつくのを待ってから、本題に入った。
「これは確認しなきゃならないことなんだけど、君の家族は、君がここにいるって知っているかな」
私はちらりと岩亀さんの疲れた顔を見てから、下を向いて首を横に振った。
「君は十八才で十分大人だけど、まだ未成年だ。保護者の許可なしに俺や赤井さんが君を保護すると、大問題になる」
「……」
「ご家族の連絡先はわかるかな」
岩亀さんの口ぶりは、さっきまでとは打って変わって落ち着いていた。
私は観念してかばんからスマートフォンを取り出した。ほとんど触らなかったので充電はまだ十分残っている。
画面を表示したが、新規の通知は一件もなかった。
「……母の電話なら」
すっと端末を机に出したところで、赤猫がティーカップを片手に戻ってきた。彼はカップを私の前に置いて、私のとなりに腰を下ろした。
白いティーカップの中で透き通った黄色い液体が揺れている。緑茶ではなさそうだ。野草を煮出したような、独特な香りがしている。
「カモミールだ。就寝前だからな」
「意識高いっすね」
「お前も飲むならいれるが」
「大丈夫です。カフェインは友だちなので」
赤猫と岩亀さんのやりとりを聞きながら、カップを手に取る。おそるおそる口をつけるとほんのり甘かった。はちみつだろうか。不思議な味だが、甘みがあるおかげで飲みやすかった。
ふう、と息をついてティーカップをソーサーに戻すと、話題がカモミールから私の身の上話に戻った気配がした。
「お母さんから連絡は?」
岩亀さんの質問に、首を横に振る。岩亀さんは黙ったまま腕を組んで、次の台詞を探しているようだった。
「けんかしたの?」
言葉を選んだ問いかけに、私は改めて私と母の行きちがいを
「どう話せばいいかわかりませんが……」
ティーカップを両手でつつみながら、私はぽつりぽつりと今の生活に耐えかねた母の提案と、それを拒否した自分と、その結果、私の留守に母と妹が姿を消したことを語った。
ひと通り事情を説明すると、岩亀さんがうーんと唸った。
「そうなると、お母さんと妹の所在は君にもはっきりしていない?」
「はい。東さんの住所も電話番号も知りません」
「そうか……」
岩亀さんはつぶやいて視線を落とし、少し考えてから壁時計を見上げた。時刻は午後九時三十分をすぎたところだ。
「俺がかけてもいいかな?」
母が私の番号からの電話を取るかわからないが、私自身がかけるより冷静な話し合いができるだろう。岩亀さんの提案に頷いて、私は通話履歴から母の番号を選び出した。
「君が帰宅したとき、鍵は?」
黙っていた赤猫が不意に口をはさむ。
「……かかってました」
「家中の戸締りを確認したか? 空き巣の可能性は?」
「ないとは、言いきれません。でも荒らされてはいなかったし、着替えや使いかけの化粧品もなくなってました。出かける前に母と言い争いになったから、荷物をまとめて東さんのところへ行ったんだと……思って」
言われてみると、すべて私の想像で確証はない。母と妹が自ら荷物をまとめたかどうか、間違いなく東のところへ行ったかどうか、置き手紙があったわけでも本人から連絡があったわけでもないのだ。
「
「母は夜型なので、普段なら夜中まで起きてます。雨戸とカーテンは閉めてますが、光が一切もれない構造ではないので……」
「妹とのきょうだい仲は?」
赤猫は顎に手をあてながら質問を続けた。
「いいほうだと思います。でも大人しい子だから、よほどのことがなければ母に逆らいません。妹は四月から中学生で……まだスマホは持たせてないです」
「ふむ」
第三者が母と妹が家を出たように見せかけたという可能性もあると気づいて、胸がざわついた。誰かに
「でも話を聞く限り、事件性が高いとは思えない。伝言も見落としたのかもしれないし、家に帰ってもう一度確かめてみるのが一番じゃないかな」
私の表情が曇ったのを察して、岩亀さんがフォローする。
「亀、明日は?」
「……ちょうど代休すね」
「彼女は?」
「いれば予定がありましたね」
「まず自宅を確認しよう。念のため電話はそのあとだ」
赤猫の言葉に、岩亀さんが表情を引き締める。岩亀さんは困惑気味に頭を掻いて、私を見た。
それもそうだ。実態がどうであれ「成人男性が十八才の家出少女を保護」という見出しが世間に与える印象を考えたら、未成年の私を保護するという決断は大きなリスクを伴う。特に岩亀さんは警察官で、もしニュースになれば大問題だ。
じっとうつむいていると、岩亀さんがのそりと立ちあがった。
「……風呂借りていいすか。昨日入ってなくて。あとレンジ借ります。弁当買ってあるんで」
見上げると、岩亀さんは困ったように笑った。
「そういうことだから、訴えないでね」
彼はそのまま荷物を取りに居間を出て行った。
やっぱり類は友を呼ぶのだ、と親切が身にしみる反面、申し訳なくもある。
「まあ、昔からのつきあいだからな」
事も無げに言って、赤猫が座卓の上のコーヒーカップを片付けはじめた。
「まだ飲むか?」
聞かれて、私は冷めたカモミールティーを飲み干した。空になったカップを赤猫が無言で回収する。
彼は台所へ引っ込もうとして、思い出したように足をとめた。
「好きにしていいんだろう?」
きょとんと見上げると、赤猫はやはりすまし顔だった。
「やりたいようにやらせてもらう。覚悟したまえ」
彼は決め台詞よろしく言って、居間を出て行った。
ぽつんと取り残された私は、思わずくしゃりと泣き笑いのような顔になった。本当におかしな人だ。
まだ頼んでもいないのに、自分から首を突っ込むつもりらしい。親切か、それとも探偵としての性なのだろうか。本当に損な性分だ。
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