3-3

 裸足のままぺたぺたと足音をさせて居間へ戻ると、赤猫が座卓にノートパソコンを開いて向き合い、スマホを耳にあてていた。電話中のようだ。


「とりあえず、また連絡する。悪いな。ああ、それじゃあ」


 私は、ぺた、と足をとめて、背筋ののびた背中を見つめた。


「空き部屋に布団を……」


 赤猫は通話を切ってから振り返り、立ちあがりかけた姿勢でとまった。喜怒哀楽のとぼしい顔にうっすらと驚きの色がただよう。ただそれも一瞬で、彼はすぐ真顔に戻った。


「そんな格好じゃ風邪をひくぞ。サイズが合わ」

「ここに、置いてほしいんです」


 私は赤猫の言葉と動きを遮って、畳に膝をつき、身を乗り出した。

 私が乗り出した分、赤猫がのけぞる。


「なんでもします」

「ミケ子くん」

「美沙緒です」

「美沙緒くん。落ち着こう」

「頼れる人が誰もいないんです。家には帰れなくて、お金もなくて、ひとりぼっちなんです。雑用でもなんでもします。お礼になるなら、なんでも。助けてください。お願いします」


 私は赤猫が畳についた手に、自分の手を重ねてぎゅっと握った。一世一代、渾身こんしんの色仕掛けだ。


「待て、待て」

「私じゃだめですか。お礼にならないですか」

「そうじゃない。そういうことではなくて」

「それなら、受け取ってください。いいんです、赤井さんなら。好きにしてください」


 私ごときが迫ったところでどれほど効果があるかわからない。それでも、この親切そうな探偵に味方になってもらわなければならない。なんとしてでも。


 ここを追い出されてほかの知らない誰かに助けを求めれば、結局払う対価は同じだろう。今の私が差し出せるものは、自分自身か労働力しかない。生きるなら、野良猫のようにしたたかでなければ。


「誤解されても仕方ないが、やましい気持ちで声をかけたわけじゃない」


 赤猫が乗り出した私の肩をぐっと掴んで押し戻す。さとすような口調だった。

 振りしぼった勇気が行き場を失って、泣きたい気分になる。せめて妹の半分でも、私にも可愛げがあればよかった。


 私が前のめりをやめると、両肩にかかった手がゆっくりと離れて行った。


「ついこのあいだ、君の写真を見た」


 そのつぶやきに、はっとして顔をあげる。


 赤猫はノートパソコンの液晶画面に視線を移して、マウスを引き寄せた。

 クリック音とともに、ディスプレイにコメント式の情報サイトが表示される。私と沙奈絵の写真だ。私は制服で、沙奈絵はランドセルを背負っている。見おぼえがあるから、別のサイトから転載したものだろう。


――知っていて、


 この人は私を知っていて声をかけた。そう気づいた瞬間、血の気が引いた。


〈こいつらは同じ目にあうべき〉

〈そろそろ飽きたは〉

〈妹ちゃんのえっちな写真ください〉

〈さっき殺人犯の家の前通ったけど、電気ついてなかった〉


 表示されたすべてのコメントを読みきる前に、赤猫がパソコンを閉じた。


「声をかけて気がついた。二十はだいぶ無理がある」

「……」


 妹はともかく私は目立つ容姿ではないし、大した特徴もない。それでも町を変えても県を越えても、こんな簡単に見つけられてしまうのだ。これじゃあ、もう、どこへ行っても……


「人の顔をおぼえるのは苦手じゃない」


 赤猫は私の思考を読み取ったようにつぶやいた。

 彼の顔を直視できない。この人は私の素性を知っていてここまで連れてきたのだ。見知らぬ人から責め立てられた記憶がよみがえってくる。


 赤猫が片膝を立てた。私はうつむいたままびくりと震えた。


「いつからあそこにいたか知らないが、ろくに寝ていないだろう。睡眠不足は判断力を低下させるぞ。話は明日聞こう」


 赤猫の声は淡々としていた。私はかろうじて呼吸しながら、彼を見上げた。


「どうして……?」


 唇から、かすれた声がこぼれる。

 赤猫は立ちあがるのをやめて、頭を掻きながら座り直した。彼は口にするかするまいか少し迷ってから、表情変化が乏しいなりに眉を歪めた。


「震える子猫を、見殺しにできるか?」


 赤猫は腕を組んでそうぼやいた。回答というより、自問しているようだった。そして、ふう、と息をついてすまし顔を取り戻す。


「拾ったからには面倒は見る。言っておくが贅沢はできないぞ。ここは借り屋だし、探偵業もあまり流行ってない」


 なにを言えばいいか、言葉が浮かんでこなかった。しかし、この人に私をしいたげるつもりはない。それは間違いないと思う。


「……損な、性分ですね」


 私がひねり出したのはそんな可愛げのない一言だった。

 赤猫は気分を害するでもなく、腕を組んだまま自分の行動を振り返った。


「拾って帰ったのははじめてだ。訴えられたら勝ち目はない。どうかしてるんだ、本当に。……頼むから服を着てくれ」


 ため息まじりに嘆いて、彼は私の顔を見た。その視線が私の胸もとから膝もとにかけて泳ぐ。


「気持ちだけもらっておく。君に魅力がないわけじゃない、だが俺はこれ以上罪を重ねるわけにいかない。わかるな?」


 赤猫は一言一言丁寧に言った。言葉選びにも口調にも、私の自尊心を傷つけまいとする配慮がにじんでいる。気遣いではあるけれど、嘘っぽくはなかった。

 ただ真摯しんしに私と向き合おうとしてくれている、そう感じた。


「同意のうえでもだめですか?」

「俺は同意してないぞ」


 聞いてみると、彼はきっぱりと言いきった。なるほど、確かに。


「それじゃあ私が襲ったことになると、私の罪になるんでしょうか」

「そこが世間と法律の怖いところだ。君は未成年、確実に俺の罪になる。おじさんを脅して楽しいか?」


 私はふるふると首を横に振った。

 赤猫が腕組みをといて、あぐらをかいた膝に両手を置いた。彼は至極真面目な顔で私の目をじっと見つめた。


刹那せつな主義には賛同しかねる。今の君は心身ともに疲弊ひへいしている。まず休息が必要だ。そのあとで、まだどうしてもお礼がしたいというなら、清らかなおつきあいからはじめよう」


 と、私よりずっと年上の大人が真顔で言うのだ。冗談でもその場しのぎでもなさそうで、おかしくなって笑ってしまった。


 変な人だ。私たち見ず知らずの他人なのに。この人、ひどいお人しだ。


「おかしい」


 あんまりおかしくて、鼻の奥がツンとした。涙が畳にぽたぽた落ちる。ひと晩かけてあれだけ泣いたのに、まだ残っているのか。


 赤猫はうなだれた私の頭に戸惑いがちに手を置いた。けれどすぐに思い直して優しく肩を叩いた。この調子では、おつきあいをはじめてもハタチになるまで手もつなげなそうだ。


「どうすればいいか、わからなくて」

「大丈夫だ。一緒に考える」


 今日までの出来事や感情がごちゃまぜになって込みあげてくる。私の視界はもう、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。この人にはみっともない姿しか見せていない。だから、いまさら気取る必要も意地を張る必要もどこにもない。


 私は嗚咽をこらえながら音を立てて息を吸い、それほど厚くもなさそうな胸にすがりついた。こんな泣きかたをするのは、少なくとも物心がついてからははじめてだった。


 大きな手がためらいがちに背中をぽんぽんと叩く。彼は声を殺して泣き続ける私をしばらく無言で支えていた。そのうち背中を叩く指先がとまって、彼は私を静かに抱きしめてくれた。


 家族でも恋人でもない、でもただ一人、今この世界で私の味方でいてくれる人のような気がした。


 私はひとしきり泣いて、疲れ果てて、目を閉じたまま赤猫にもたれかかっていた。このまま眠ってしまってもきっと許してくれる、そんな甘えが思い浮かぶ。捨て猫が拾い主になつくとき、こんな気持ちなのだろうか。


 まどろみかけていると、不意に廊下の床板がきしんだ。


「げん、現行犯げんこうはん

「ちがう。早まるな」


 第三者の声とともに赤猫が私の肩を掴み、ぐいと自分から遠のけた。と思うと、顔にハンカチが押しつけられる。私はそれを受け取りながら、ずっ、と鼻をすすった。

 もう涙はとまっているが、ひどい顔をしているにちがいない。


「未成年……淫行……」


 廊下に、赤猫よりもいくつか若そうな男性が立ち尽くしている。髪を短く刈りあげて、水色のワイシャツの上にカーキのマウンテンパーカーを羽織はおっていた。ネクタイをめて、ボトムスはスラックス。仕事帰りのようだ。


「ちがう、ちがう。誤解するな。お前こそいつの間に入ってきた」

「チャイム鳴らしましたよ。心配してすっ飛んできたんですよ、こっちは」

「またあとで電話すると言っただろ。仕事じゃなかったのか、十時まで」

「必死に片付けて駆けつけたんですよ。知ってます? 先輩からの電話の九十九パーセントが『頼みがあるんだが』からはじまるんですよ。ずいぶん後輩やってますけど『相談があるんだが』ははじめてですよ、はじめて。何事かと思うじゃないですか。よかったですよ間に合って。気持ちはわかりますけど、すごく先輩好みに育ちそうですけど、十八才未満はホントダメ、絶対」


 赤猫を「先輩」と呼ぶその男は、そう言って両手でバツ印を作った。

 日常的にきたえているのか、赤猫よりもずっと身体に厚みがある。見るからに体育会系でやんちゃそうだが、雰囲気は落ち着いていた。


「私、十八です」


 私は、すんっ、と鼻を鳴らして二人の会話に割り込んだ。ひどい鼻声だった。


「十八?」


 赤猫が驚いたように振り返る。もっと低く見積もっていたらしい。


「ならギリセーフですけど、だからってこんなところで……俺は心配して駆けつけたのに……」

「だから俺はやましいことはなにもしてない」


 両目を押さえて後輩がうつむくと、赤猫がきっぱりと言いきった。赤猫はくたびれた様子でため息をついて、私にうろんな眼差しを向けた。


「本当に十八か? また嘘じゃないだろうな」

「……本当です」


 二十と嘘をついた手前、疑われても仕方ない。

 私は畳の上に放り出したメッセンジャーバッグを引き寄せて、財布から運転免許証を取り出した。去年の夏休みに取得して以来のペーパードライバーだが、身分証明にはなる。


「本当だな。陽鞠ちゃんと同じくらいかと」

「中学生? もう高校生になったんでしたっけ? そんな子に手を出そうと思うの、ヤバいっすよ」

「だから出してない」

「でも説得力ない……」


 若い男が私のほうにためらいがちな視線をよこす。

 改めて自分の格好を見下ろすと、男物のシャツ一枚でボタンは胸もとまで開いているし、下はなにもはいていない。


 なにも……と思い出して、ぎゅっとシャツの裾を引っ張った。


「ジロジロ見るな。訴えるぞ」

「見っ、てないすよ!」


 赤猫に指摘されると、男は頓狂とんきょうな声をあげて真っ赤になった。一見やんちゃで遊んでいそうなのに、そうでもないらしい。


「君は服を着てきなさい」


 今度は私が赤猫にチクリとされる。

 立ちあがろうとして、さすがに成人男性二人の視線を気にすると、廊下に突っ立った後輩がハッとなにかに気がついた。


「あ、十八、なら問題ない……っすね。そっか、邪魔ですね俺。すみません、帰ります」


 視線の意図を完全に勘違いした台詞に「そうじゃない」と、私と赤猫の声が重なった。

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