3-2
雨音に混じって、カチ、カチ、と秒針の音がする。壁にかかった時計は午後五時五十分を指していた。
目の前のお椀を両手でつつむ。あたたかい。私は箸置きから箸を取って、汁物にそっと口をつけた。上品な味つけだ。
ほっ、とため息をつくと同時に、ぽろりと涙がこぼれた。すっかり
ふらりと家を出てからたった一日、知らない町へやってきてからたった一日なのに、もっと長い時間が流れたように感じた。
ぼうっと椀に浮かんだミツバを見つめて、沙奈絵はどうしているだろうと思った。ちゃんとご飯を食べているだろうか。あたたかい場所で眠っているだろうか。
「急ごしらえですが」
鈴村さんがお粥を持って入ってきたので、私はあわてて手のひらで頬をぬぐった。彼はなにも言わずに茶碗を私の前に置き、木製のスプーンを差し出した。
「熱いですから、ゆっくりお
穏やかで優しい声に涙がこみあげそうになる。私はぎゅっと唇をかみしめて、うつむきがちに頷きながらスプーンを受け取った。
鈴村さんが作ってくれたのは、素朴な色と香りのたまご粥だった。「いただきます」とささやいてゆっくりとスプーンを差し入れると、背後で床板が鳴った。
「鈴村さん。ブラウンの上着を知りませんか」
「クリーニングに出しました。お代は
「よかった。目途が立ったんですね」
「ええ。あとでご相談します。お食事でよろしいですか?」
「ああ、大丈夫、自分で……」
「私の仕事を奪うとおっしゃる」
「……では、ご
言い負けた男がすごすごと私のとなりに座る。
鈴村さんは満足そうに頷いて、再びキッチンへと去って行った。
「
すくったお粥に息を吹きかける私に、男が横やりを入れる。
言われなくてもわかってる、と思いながら黙ってスプーンを口に運んだ。冷まし足りなくて、まだ熱かった。
たまご粥はほんのり塩気があって、あたたかくて、冷えた身体に優しく染み渡った。知っている味つけとはちがうのに、なぜかなつかしい気持ちになる。私は目尻の涙をそっとぬぐって、お粥を一心に口に運んだ。食べることに集中しなければ泣き出してしまいそうだった。
男が腕組みしてこちらを眺めている。けれど彼はなにも言わなかったし、私も黙々とお粥を食べ進めた。
そのうちに鈴村さんが大きな四角いお盆を持って戻ってきて、それを座卓に下ろした。
「よろしかったらデザートに。先生の好物です」
そう言いながら、鈴村さんが私の前に小皿を進める。おしゃれな黒い小皿に、半分に切られたイチゴ大福が乗っていた。
「苺大福なら福松屋というだけで、好物というわけじゃない」
「でしたらこちらもお嬢様に」
男が理屈っぽくつぶやくと、鈴村さんは残り半分の大福を乗せた皿を私の前に追加した。半分のイチゴ大福が二つで、つまりまるまる一個が私のものになってしまった。
続けて湯飲みが置かれて、ほうじ茶の香ばしいにおいがただよってくる。
鈴村さんはごはんとお吸い物、煮物、焼き魚、青菜のおひたしを無駄のない手つきで男の前に並べて、てきぱきと給仕を終えた。
「それでは、本日はこれでおいとまいたします」
鈴村さんが軽く会釈して居間を出て行く。
ふすまが静かに閉まると、男は小さく息をつきながら
「いただきます」
私は彼が椀を手に取る様子をじっと眺めた。その視線が気になったのか、男は吸い物に口をつける前に私のほうに顔を向けた。
「……なんだ」
私は大福に視線を落として、一皿を男のほうに押し出した。
「遠慮しなくていい」
「食べきれないので」
「そうか」
私の主張に納得すると、彼は小皿を受け取っておひたしのとなりに置いた。
私は自分の大福をちまちまと食べた。甘さ控えめの、あっさりとした白あんだ。それでいて
ほとんど丸一日なにも食べていなかったのに、お吸い物と控えめに盛られたお粥、それから半分の大福だけで十分満足してしまった。
あたたかいほうじ茶をいただきながら、ふう、と息をつく。空腹が満たされて、今日の宿の目途もついた。こんなにほっとすることはない。
男はなにも
そのうち男は夕食をきれいに平らげ、食器を重ねながら席を立った。大福だけまだ残っている。
「お茶は?」
聞かれて、首を横に振った。私が「ごちそうさまでした」と頭を下げると、彼はそのまま居間を出て行った。
私はまた一人になって、何気なしに天井を見上げた。鈴村さんも陽鞠もこの家に住んではいないらしい。でも表札があったし、もしかすると敷地内に別棟があるのかもしれない。
家の中はシンと静まりかえっていた。ほかに人の気配はしない。こんな広い家に一人暮らしなのだろうか。
静けさにひたっていると、男が自分のお茶を持って戻ってきた。彼は無言で私のとなりに座り、満を持して大福に手をのばした。そして私がちまちまと食べたそれを、ふたくちで食べ終えてしまった。
男の口が湯飲みから離れるのを待って、私は低い声で切り出した。
「ここに一人で住んでるんですか」
「そうだな。鈴村さん……さっきの人だ。あの人と孫娘は離れに住んでる」
「……一人で
私は空になった湯飲みをのぞきながら、ぽつりと聞いた。どうしてそんな質問が出てきたのか、自分でもわからない。
「それなりだな。せいせいする日もあれば、思い出したように寂しくなる日もある。君は?」
「……」
聞き返されて、私は戸惑いながら男を見上げた。自分の感情をまだ整理できていない。
私に見つめられると、男はほんの少し首をかしげた。そして思い出したようにズボンのポケットに手を入れて、革製の名刺入れを取り出した。
「そういえば、名乗っていなかったな」
差し出された名刺を受け取って、文字を追う。
赤猫探偵事務所、所長・探偵、赤井
「赤井さん」
「赤猫でいい」
「赤猫……」
ずいぶん可愛いニックネームだ。どうしてそんな愛称なのかと疑問を抱いたところで、赤井さんもとい赤猫が「小虎だからだ」とつぶやいた。
小さな虎、それで猫か。なるほど。
「子どものころ、そう呼ばれてた」
言いながら赤井さん――いや、赤猫は膝を立てた。彼は自分と私の小皿を重ねて、私の手から空の湯飲みを取りあげた。
「洗濯ものをまとめておけ」
赤猫はそう指示して居間を去った。そのうち、水音と、食器が擦れ合う音が聞こえてきた。洗いものを片付けているらしい。
私は濡れた服が入ったビニール袋を手に取った。あと、靴下だ。
時計を見るともう午後七時になるところで、窓の外はすっかり暗くなっていた。廊下も真っ暗だが、どこで明かりをつけるのかわからない。薄闇の中を玄関へ引き返し、手探りで靴下を回収した。
居間へ戻ると、ちょうど、赤猫が腕まくりを直しながら帰ってきたところだった。
「こっちだ」
歩き出した赤猫に大人しく従う。パチンと音がして、真っ暗だった廊下が明るくなった。
ひんやりした廊下を進むと、途中にガラス窓で囲まれた
「洗うものはここに」
赤猫は私を洗面所に案内して、ドラム型の洗濯機を示しながら使いかたを簡単に説明してくれた。
最近水まわりをリフォームしたらしく、洗面所自体は古めかしいが、洗濯機や洗面台は真新しかった。のぞき見える浴室もダークカラーで統一されたモダンなデザインだ。
「着替えはとりあえずこれを。サイズは我慢してくれ」
言いながら、赤猫がたたまれた衣類を差し出す。受け取ると紺の襟つきシャツと
ジャージのズボンだった。
「質問は?」
私は首を横に振った。
「よし」
頷いて、赤猫は脱衣所の引き戸を閉めて去って行った。
ぽつんと取り残されてから、とりあえず洗濯機の中に濡れた服をひっくり返す。
ため息まじりに洗面台を振り返ると、鏡の中に、やはり疲れ果てた女が映っていた。中途半端に乾いた髪がボサボサでひどくみすぼらしい。目の下にはくっきりと
羽織ったままのジャケットに何気なく手をそえると、ほがらかな陽鞠の笑顔が思い浮かんだ。
〈姉、ブサイクだなw〉
〈殺人犯の娘って顔じゃん〉
インターネットに書き込まれた、私の写真に対しての中傷がよぎる。
私はジャケットの襟もとを握って、唇をきつく結んだ。父に似た鋭い目もとは嫌いではないし、私らしいと思っている。けれど今はなぜか、それが疎ましく感じられた。
首を振って雑念を追い払い、ふうっと息をついた。
疲れているのだ。余計なことを考えるのはやめよう。
服を脱いで、ジャケットとワンピース以外を洗濯機に放り込む。タグを探すとワンピースには手洗いの表記があった。押し洗いする気力もないので、とりあえずたたんで適当なカゴの上に置く。教えられた通りにボタンを押すと、洗濯ドラムがぐるぐるまわりはじめた。
浴室へ入った私はレバーをシャワー側に倒して、しばらくぼんやりと温水を浴びた。
これから、と、顔にかかった水を手でぬぐいながら考える。
今晩はこの家に泊めてもらえるだろう。けれど明日は、明後日は?
――赤猫探偵事務所。
探偵、というとつまり、主な仕事は人探しや浮気調査だろうか。事件や事故の調査も請け負っているのだろうか。
裁判は待ってくれない。時間が経てば経つほど人の記憶も手がかりも薄れてしまう。行動を起こすなら早いほうがいい。
空腹が満たされて身体もあたたまったからか、かすかに前向きな気持ちが湧いてくる。
赤猫が声をかけてくれたのは、本当に幸運だと思う。下手をすれば今日も野宿だったし、どんな人になにをされていたかもわからない。そのうえ、彼は探偵なのだ。真実は自分で探すものだ、と、神さまがくれたチャンスかもしれない。
思考をめぐらせながら、私はシャンプーのポンプを押した。
鈴村さんや陽鞠の様子からも、この家は追い詰められて駆け込む人間に慣れている。もちろん職業柄というのもあるだろう。だからこそ、事情を説明すれば知恵を貸してくれるかもしれない。
探偵業が
うつむいてシャンプーを洗い流す。温水がぼたぼたと頬を伝い落ちた。
事情を説明したら、同情してくれるだろうか。面倒事だと追い出されるだろうか。軽蔑されるだろうか、拒絶されるだろうか。親切にしてくれるのは私が家出少女だからかもしれない。殺人犯の娘とわかったら、態度が変わるだろうか。
そんな思いが去来して、きゅっと唇を噛んだ。
現実的に考えて、ここに
家賃もすぐには払えないから、支払いを待ってもらう代わりに雑用でもなんでも、お金以外でできることがあるならなにをしたっていい。
――モカも待ってる。
私は、よし、と決意して浴室を出た。
ここに置いてもらう。そして父の事件を一緒に調べてもらう。そのために私はなんでもする。
やわらかく厚みのあるバスタオルで身体をつつんでから、改めて鏡に向き直る。顔色はずっとよくなって、キュッと吊った目もとにも、さっきより覇気があった。
身体の水気を拭いてから紺色のシャツに腕を通す。下着は洗濯中で替えもないから、素肌にそのまま身につけた。
シャツは思ったよりも大きくて、ぶかぶかだった。胸の真ん中あたりのボタンから順番に下へ閉じると、太ももの中ごろまで裾に隠れた。
ドライヤーを勝手に借りてきちんと髪を乾かせば、さっきまでただよっていた悲壮感もほとんど見当たらなくなる。美人とは言えないが、少し前よりはずっと健康的だ。
ふうっとひと呼吸気合を入れて、私はシャツ一枚で脱衣所を出た。
雨音の響く廊下はひんやりと冷たい。けれど身体があたたまっているせいか、寒くは感じなかった。
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