3-1


 車が停まって、目が覚めた。

 いけない、眠っていた。もうひと寝入りしたい気持ちを退けて、私は異様に重いまぶたをなんとか開いた。


 ぼやけた視界にずらりと続く白壁が映る。そして目の前に、純和風の立派な門がドンと構えていた。お寺だろうか。


「ついたよ」


 運転席の青年が微笑みながら振り返る。

 髪をかけた左耳に金色のシンプルなピアスが揺れている。眉は細く整えられて、肌もきれいだ。涼しい目もとに、すっと通った鼻筋。間近で見るとますます整った顔だちだった。


 ぼうっとしたまま視線を奪われていると、触れてもいないのに後部座席のドアが開いた。となりに座っていたはずの男が、いつの間にか傘を掲げて車外に立っている。彼は私のほうへ傘を差しかけて、降りろと言うように首をかしげた。


 私は、夢ではなかったのか、とぼんやりしながら記憶を確かめた。相変わらず身体は重いし、見知らぬ建物がある以外、景色も大して変わらない。ほんの数分居眠りしただけだろう。


 のろのろと車を降りると、車外の冷気が寝ぼけた頭によく効いた。

 湿しめった土のにおいを感じながら、眼前にそびえる門を見上げる。普通の住宅ではなさそうだ。お寺か、あるいはドラマや漫画に出てくるやくざかお金持ち、どちらかの屋敷に見えた。


 さするふりをして頬をさりげなくつまんでみる。痛い。


「悪かったな、瑠衣るい


 我に返って振り返ると、男が助手席の窓から車をのぞき込んでいた。

 あの美青年はルイさんというらしい。名前まで王子様みたいだ。


「どういたしまして。なにかあれば連絡よこせよ。予定が合えば手伝うから」


 少しも気取らない口調で言って、瑠衣さんがシフトレバーに手を置く。


「ありがとうございました」


 私があわてて頭を下げると、瑠衣さんはファンサービスでもするように「またね」と軽く手を振った。


 都会的なメタルブルーの車が見通しのよい田舎道を颯爽と走り去って行く。それをぼうっと見送った。


 道路こそ舗装されているが、見渡す限り田畑ばかりで、遮蔽物しゃへいぶつはほとんどない。おとなりさんと呼べる距離に住宅はなく、車通りも多くはなさそうだ。閑静な立地とはいえ駅は遠いし、生活するには車がなければ不便だろう。


 瑠衣さんの車が見えなくなると、男は傘を持ち替えて門を振り返った。私も向きを変えて、再び立派な門構えに向き合う。目的地はここで間違いないようだ。


 私はショルダーバッグの肩ひもをぎゅっと握って、男の足取りに従った。


 ひんやりした空気のおかげで目が覚めた。はっきりした意識で門に目をやると、左右の角柱にそれぞれ木製の表札が取りつけられているのに気づいた。

 左側の柱には上下に二枚の札があり、上が「漆原うるしはら」で下が「鈴村すずむら」だった。どちらも年季が入っているが、鈴村の札は漆原に比べて若干小ぶりだ。


 その二枚と比べると、右側の柱の表札はまだ新しい。文字数がかなり多く、ずいぶん縦に長かった。刻まれた文字を目で追うと「赤猫あかねこ探偵事務所」とある。読みちがいかと、もう一度確かめる。探偵事務所で間違いなかった。


 門をくぐると石畳いしだたみがまっすぐに続いていた。左右に青々とした竹林を従えて、やはりお寺のようなつくりだ。

 敷地内に足を踏み入れると、竹の葉を打つ雨音につつまれた。物寂しい雨の田舎が一瞬で風雅な空間に変わってしまった。


 石畳の突き当たりに、古風な日本家屋がたたずんでいる。竹林は家屋の少し手前で途切れて、代わりに玉砂利の敷かれた立派な日本庭園が広がっていた。


 表札の通りなら探偵事務所なのだろうか。ますます謎が深まる。するとこの愛想のない男は探偵なのか、あるいは私に探偵を紹介しようとでもいうのだろうか。

 男は玄関前の軒に入ると傘をたたみ、チャイムも声かけもなく慣れた手つきで引き戸を開けた。ガラガラとレトロな音が響く。


 すると軽快な足音がして、エプロン姿の女の子が飛び出してきた。


「おかえりなさい……」


 女の子は笑顔で男を出迎えて、私に気づくと戸惑いの色を浮かべた。長い黒髪をおさげにした、ちょうどこのワンピースが似合いそうな清楚で可愛らしい子だ。私よりもいくつか幼そうだった。


「お客様ですか?」


 すぐに気を取り直して、彼女は愛想よく微笑んだ。目もとはぱっちりと黒目がちで、ほかのパーツも整っている。年の離れた妹だろうか。だが男とこの子と似ているかと問われたら、そうでもない。


拾得物しゅうとくぶつだ」

「……?」


 男の返答に女の子が困った顔をした。首をかしげるしぐさも可愛らしい。

 女の子を見ていると、急に自分がみすぼらしく思われた。似合わない服もびしょ濡れの髪も靴も、自分のすべてが突然恥ずかしくなって、足元に視線を落とす。


「おかえりなさいませ」


 今度は低い声がして、廊下の奥から初老の男性がやってきた。シャツの袖をひじまでまくり、腰に紺のハーフエプロンを巻いている。一見すると職人ふうだが、やけにかしこまった口調だった。髪はほとんど灰色で老年にはちがいないが、筋肉質で身長も高く、玄関先にぬっと立つとかなりの威圧感があった。


 やくざ、という単語が脳裏をかすめる。


「お風呂をご用意してあります」

「鈴村さん、そんなに気を遣ってくれなくても」

「月曜と金曜は面倒を見させていただくお約束ですので」


 かしこまった口調の男性に対して、男が遠慮するそぶりを見せた。鈴村さん、と聞こえたから、表札の鈴村はこの職人ふうの男性の姓なのだろう。

 表札に刻まれた苗字は漆原と鈴村、そしてここは探偵事務所で、男と鈴村さんと女の子と、一体どういう関係なのだろう。


「陽鞠。お前の着替えを」


 鈴村さんが私を見てから女の子を振り返った。ひまり。可愛らしい響きだ。


「いえ、大丈夫です。先になにか軽く食わせてやってください。朝から飲まず食わずらしい。のぼせても困る」


 陽鞠が返事をする前に、男が靴を脱ぎながら遮る。鈴村さんは「かしこまりました」と承知すると、私に向かって会釈えしゃくしてから、奥へ戻って行った。


「かしこまらなくていいんだが」


 男がぼそりとつぶやく。立派な敷地を見る限り、男と鈴村さんがお坊ちゃまと使用人だとしてもおかしくはない。しかしそれにしては男の腰が低いような気もする。


「あの、私の服、持ってきましょうか」


 成り行きを見守っていた陽鞠が気遣わしげに胸の前で手を握り合わせて、そう申し出た。


「いいんだ陽鞠ちゃん、気にするな。シャツくらい俺も持ってる」

「はい……」


 男がほんの少し口調をやわらげて、めいっ子にでも接するような距離感で断ると、陽鞠の表情が曇った。兄妹ではなさそうだ。


 陽鞠がなぜそんな表情をするのか不思議に思って、すぐにぴんとくる。なるほど、出迎えのときの笑顔といい、年の離れたこの男にちょっとした恋心でも抱いているのだろう。


「ミケ子」


 と、あがりかまちに立った男が玄関に突っ立つ私を振り返った。


「あがりなさい」


 ぼけっとしているとそう指示される。ミケ子。私のことだろうか。

 なるほど犬猫は落としものと一緒、拾えば拾得物だ。そう思いながら、黙って靴を脱いだ。


 濡れたスニーカーから足を引き抜くと、くるぶし丈の靴下が脱げて靴の中に残ってしまった。


「遠慮しなくていい」


 濡れた足でかまわないのか視線でうかがうと、男が玄関わきにあった来客用らしきスリッパを投げてよこした。遠慮せず、さっさとしろということだろう。陽鞠に対する態度とずいぶんちがう。


「ミケ子さんていうんですか?」


 スリッパを履く私を見ながら、陽鞠が素直な疑問を口にする。


「そうだ」


 どう答えればよいかほんの少し考える間に、男が肯定してしまった。私は黙って床に視線を落とした。

 やたらに素性を知られたくないし、名乗らなくていいなら名乗りたくない。この際ミケ子でも文句は言うまい。


 ふと、羽織ったジャケットがかすかに震えた。震源は内ポケットのようだ。スマートフォンだろう。取り出すと電話の着信だった。


 男が差しのべた手に端末を渡す。


「はい、赤井あかいです。いえ、こちらこそ。お役に立ててなによりです。……ええ、渡すには渡しましたが、どうでしょうね。それは彼女次第ですから、私からはなんとも」


 着信を取りながら男が歩き出す。そのあとを陽鞠と一緒について行った。男は丁寧な口調でずいぶん愛想よく受け答えしている。仕事の電話だろうか。


「可愛いワンピースですね」


 突然、陽鞠が私に微笑みかけた。嫌味でもなんでもなく、無邪気な世間話だ。私は口の端をひきつらせて応じた。


 陽鞠の背丈は私とそれほど変わらない。ストレス痩せした私よりずっと華奢きゃしゃで、でも不健康そうではないから、もともと痩せ型なのだろう。髪はくせもなくつややかで、顔だちも可愛らしく、身だしなみも整っている。


 確かに、この子を基準にしたら、私は目つきの悪い野良猫だ。


「着替えを取ってくる」


 通話を切った男がちらりと振り返って去る。

 私は陽鞠の案内で、たたみ敷きの部屋に通された。


「ミケ子さん、どうぞ」


 居間だろうか。広い和室の真ん中に立派な座卓ざたくがある。

 薄型の大きなテレビ、古風なタンス、壁かけ時計、それから神棚。最低限のインテリアが置かれただけの整然とした部屋だ。


 座敷と廊下は雪見ゆきみ障子しょうじへだたれて、外窓を通して庭が見えるつくりになっている。築年数はそれなりだと思われるが、畳はまだ新しく、座布団もくたびれてはいない。庭と同じように、屋内も手入れが行き届いているようだ。


 立ち尽くしていると向かいのふすまが開いて、お盆を持った鈴村さんが入ってきた。


「どうぞ、座ってお待ちください」


 座卓の座布団を示してから、鈴村さんが畳に膝をつく。おそるおそる座布団に座ると、目の前に漆塗うるしぬりふうのおわんが差し出された。


「お口に合うかわかりませんが」


 立ちのぼる湯気からふわりとだしの香りがする。器をのぞき込むと、紅白のかまぼこと梅の花の形に切ったニンジンが透き通った汁にひたって、軽くミツバが散らしてあった。


「おかゆをご用意していますので、少しずつどうぞ」


 見た目こそ強面だが、鈴村さんの口調はとても穏やかだった。私はお吸い物から鈴村さんに視線を移し、あわてて頭を下げた。


「おじいちゃん、私も手伝う」

「先に戻りなさい。宿題もあるだろう」

「うん……」


 陽鞠が落胆した様子で頷いて、ちらりと私を見た。目が合うと彼女は愛想よく笑ってお辞儀した。


 おじいちゃん。なるほど、鈴村さんと陽鞠は祖父と孫娘なのだ。


 陽鞠が去るのを見送ってから、鈴村さんも居間を出て行く。広い和室に私一人がぽつねんと取り残された。

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