2-2

 すれちがいざま、通行人が控えめにあるいはあけすけに私たちに好奇の目を向けた。親子にしては年が近すぎるし、カップルにしては離れすぎている。年の離れた兄妹に見えなくもないが、それにしては似ていない。そのうえ私はびしょ濡れだから、いかにも訳ありに映るのだろう。


 顔をうつむけて人目に耐えながら歩き続けると、ほどなくして駅についた。思ったよりも駅の近くにいたらしい。

 視界の端に交番が映り込む。ちらりと制服姿の警察官が見えた。


 男は屋根の下へ入ると傘をたたみ、手に提げたビニール袋を私の前へ突き出した。


「びしょ濡れよりましだろう」


 受け取ると、やわらかい。衣類のようだ。

 男が無言で公衆トイレを指す。着替えてこいということだろうか。ずっと無表情で愛想笑いのひとつもない。表情から感情が読み取れないタイプだ。


「どうした」


 突っ立って見上げていると、男が真顔で問いかけた。私はやわらかい袋をぎゅっと抱いて首を横に振った。


 指示に従って、とぼとぼと女子トイレへ向かう。建物から出てきた中年の女性とぶつかりそうになって立ちすくむと、彼女は怪訝けげんそうに私を見つめた。

 罵倒されるのではと思わず身構える。女性はなにも言わずに去って行った。


 とんだ被害妄想だ。


 にわかに早くなった鼓動を落ち着けて、私はそそくさと個室に入った。内側から鍵をかけると、意図せず安堵あんどの息がもれた。


 張りつく服に苦戦しながら下着になって、外気の冷たさに身震いする。


 上下不揃ふぞろいの安物の下着に、いまひとつ凹凸おうとつのぱっとしない身体。この数ヶ月でせはしたものの、残念ながらただ貧相になっただけだった。どう考えても色仕掛けには向いていない。


 落胆まじりに渡された袋の中身を取り出すと、春物のワンピースだった。白地に黄色い小花を散りばめた柄物で、そですそにはフリルがあしらわれている。

 ずいぶん少女趣味だ。てっきり男物だと思っていたから、ちょっと面食らってしまった。


 下着の替えはないのであきらめてワンピースに袖を通す。さらさらした素材でだいぶ薄手だ。デザインはともかく、サイズはちょうどよかった。


 タグはついていないが新品に見える。もしかして、誰かへのプレゼントだろうか。


 もちろんあの男自身が着る可能性もなきにしもあらずだが、それならもう少し大きなサイズを選ぶはずだ。

 脱いだ服を袋に押し込もうとして、袋の中にメッセージカードが残っていることに気がついた。


〈Thank you 気に入ってもらえますように〉


 少し縦に長い整った字だ。


 あの年齢で私と同じくらいの背丈の娘がいるとは考えづらいから、そうすると恋人への贈り物だろうか。


 ロリータふうのフリルワンピースは、薄手ながら生地も縫製ほうせいもしっかりしている。着心地も悪くないし、それなりに値が張りそうだ。人を選ぶデザインだから、この服が似合うとなると相手は相当な美女かもしれない。


 よく似合う誰かのものになるはずだったのに。

 そう考えると、横取りしたようで後味あとあじが悪かった。


 幸いメッセージカードは折れても濡れてもいなかったので、よごさないようかばんにしまった。空っぽになったショップバッグに、今度こそびしょ濡れの普段着を押し込む。


 個室を出ると、手洗い場の鏡に奇妙な女が映っていた。き古したスニーカーとボーイッシュなメッセンジャーバッグが、清楚せいそ可憐かれんなワンピースに恐ろしく不釣り合いだ。髪は濡れてぺしゃんこだし、顔は青白く疲れ果てている。ひどい不細工だ。


 それだけでも最悪なのに、こんな春爛漫らんまんのお花畑にでも出かけるようなワンピース、今日みたいなかんもどりに着る服じゃない。


 いや。乾いた服に着替えられただけでもありがたいのだから、どうせ知らない町だと割りきろう。


 ふらつきそうになりながら、私はできるだけの急いで男のもとへと戻った。しかし、さっきの場所に戻ったはずだが、そこに私を待つ人はいなかった。

 私は人目も忘れてぽつんと歩道に立ち尽くした。


 それもそうか。


 親切心から声をかけたが、電車賃だけで片付かなかった。断るのもこくだろうと連れ出しはしたものの、成人男性が未成年の少女を保護するとなると社会的なリスクを伴う。なるほど交番は目と鼻の先、あとはセルフサービスということか。


 大切な贈り物を譲ってくれただけで十二分に親切だと思いながら、私は濡れた服が入った袋をぎゅっと抱いて、今着ているワンピースがいくらで売れるかを考えた。


 と、うつむいた視界に小ぶりの缶ジュースが割って入る。ちがう。トウモロコシの絵。ジュースではなくスープだ。


 顔をあげると、さっきの不愛想な男が立っていた。とっさに言葉が出てこない。吸った息を吐き出せないまま見つめていると、男は軽く首をかしげた。


「ココアがよかったか?」

「……」


 なんとか首を横に振る。


「血糖値が急にあがると、よくないだろ」


 男は理屈っぽく言って、缶を受け取るよううながした。小ぶりのスチール缶をおそるおそる手に取ると、驚くほどあたたかかった。


「ありがとう、ございます」


 私はだんを求めるように、トウモロコシの絵が描かれた缶を両手で握りしめた。「ホットは向こうにしかない」と、男が少し離れた自販機に視線を向けた。


 彼は私をちらりと見たが、似合わないワンピースをほめることもけなすこともなく、腕時計に視線を移した。そして気づいたようにジャケットの内ポケットからスマホを取り出して、耳にあてがった。


「もしもし。ああ、悪いな、仕事中に。いや、大したことじゃない」


 男が手振りで、行くぞ、と合図する。私はそれに大人しく従った。


「またあとで電話する。今夜は……そうか。忙しそうだな。それじゃあ、十時すぎに。ああ。悪かったな」


 端末を耳に押し当てたまま、男が少し振り返る。彼は私がついてくるのを確認すると、電話を切り、ふいと正面を向いて歩き出した。


 私は黙って彼のあとに続いた。交番が遠ざかって行く。


「ん」


 男は券売機で大人二枚分の切符を買って、一枚を私に差し出した。

 定期券でないということは、この駅を通勤で使っているのではないらしい。支度したくもずいぶん身軽だから、休日にプレゼントを――このワンピースを買いにきたのかもしれない。


 男に連れられてたどりついたのは、昨日通った改札とはまた別の場所にある、単線のホームだった。ちょうど下り列車が発車待ちをしているようだ。車両はたったの二両で、閑散としたホームにはレトロな空気がただよっていた。


 男は慣れた様子で車両に乗り込み、長座席に腰を下ろした。私はそのとなりに少し隙間をあけて座った。


 列車内は暖房がかなり効いていて、湿度のせいでむわっとしていた。ちょっとあたたかすぎるくらいだが、冷えきった身体にはちょうどいい。


 手に持った切符の行き先は「東花岡ひがしはなおか」だった。知らない地名だ。

 ちらりと男を盗み見ると、腕を組んで正面を向いていた。


 私は手もとに視線を戻して、缶スープのプルタブを起こした。少し冷めてしまったが、まだ十分あたたかい。ふたを開けるとコーンの甘い香りがした。


 とろみのついたスープは甘くてあたたかくて、まるで幸福そのものだ。それだけのことがなぜか胸に迫る。こんなところで泣き出すわけにいかないから、にじんだ涙を指先でぬぐって誤魔化ごまかした。


 そのうちに発車のベルが鳴って、列車が走り出す。乗客はまばらで、みんな口を閉じて行儀よく座っていた。


 やがて町場を抜けると、窓いっぱいにどんよりとした田園風景が広がった。

 途中駅で学生がまとまって乗り込み、にわかに車内がにぎやかになる。卒業式は終わったが春休みはまだのはずだ。談笑する制服姿の女の子を横目に、私はほんの少し物寂しさをおぼえた。


 事件が起こった十二月から学校へはほとんど行っていない。卒業証書はもらったけれど、卒業式には出なかった。


――先生はどうしただろう。


 私をかばったために火の粉を浴びてしまった橋田先生。教師としてあるべき姿だったはずなのに、世間と学校は先生を追い詰めた。彼女にこそ、なにひとつ罪はなかったのに。


 ぼうっとガラス窓を見つめる。寒々とした景色を背景に、水滴が筋を作って真横に流れて行った。


「次は東花岡、東花岡……」


 車内アナウンスを聞いて、切符に目をやる。東花岡。次の駅だ。

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