2-1
二
午後六時前、終点についた。
ホームから改札を出るまで、駅の構内は帰宅ラッシュで混雑していた。
私は人波に身を任せて改札を抜け、土産物店を横目に駅舎を出た。
一歩外へ踏み出すと、知らない町のにおいがした。真冬と比べればずいぶん日ものびたはずだが、
――なにをやっているんだろう。
途方もない
他人の目はそれほど気にならなかった。ここが知らない町だからかもしれない。
私がこの町を知らないように、この町も私を知らない。そんな気がした。
帰りの切符は買えない。これからどうするんだ、と他人事のように自問して、でも答えはどこにもなかった。
私は目的なく町をさまよった。そのうち歩き疲れて、雑居ビルの隙間に腰を落ち着けた。ここなら人目につかないだろう。
冷えたコンクリートに座って、
三月の夜はまだ肌寒い。私は
なにが正解だったんだろう。母とけんかしなければよかったのだろうか。
提案を受け入れて、一緒に東のところへ行けばよかった?
そう考えて、思わず顔が
いや。こんな状況になってもやっぱり無理だ。
母の性分を理解はしても、二人の関係を肯定はできない。そうでなくても、そもそも私は東晴樹という男が好きではないのだ。
東が我が家に居候していたころ、彼はよく私や妹の遊び相手を買って出た。無職で
東は母と同学年で、父とは一つか二つしかちがわない。けれど父よりずっと若く見えたから、私も妹も、おじさんではなくお兄さんと呼んでいた。陸上でインターハイに出場したこともあるとかで、一見した印象は爽やかなスポーツマンだった。
私が小学生だから、妹の沙奈絵はもっと幼かった。
沙奈絵は東によくなついていたと思う。でも私は、その爽やかな東お兄さんが苦手だった。
東はいつでもニコニコしていて、私はそれが不気味だった。
笑顔が
東の嘘っぽい笑顔は、特に私の前で
成長して母と東の関係を知ってからは、それに対する嫌悪も加わった。母と一緒に東のところへ身を寄せたとしても、長くはもたなかっただろう。結局言い合いになって飛び出して、遅かれ早かれ同じ状況になったかもしれない。
それとも、と、今朝より前に時間を戻した。
もっと稼げる仕事をすればよかった?
いや、十二月の日曜日に父の外出をとめればよかったのだろうか。
そこまで戻って、膝を強く抱いた。
ちがう。過去は変えられない。そうではなくて、これからどうするかを考えなければ。
ふと視線を横向けると、薄闇にキラリと光るものがあった。ドキッとした瞬間、ニャァ、と鳴き声がした。猫だ。
薄よごれたハチワレが
「……なにもないよ」
私は上向けた手のひらを差し出した。
猫はフンフンとにおいをかいでから、通りのほうへ去って行った。
「あっ、ねこちゃん」
「かわいい」
通りから若い女性の声がする。なるほど、あいつはああやって世を渡っているのだ。
私は行き場を失った自分の手のひらを見つめた。
――ほんとうに、なにもない。
不意に口にした言葉が自分自身に突き刺さる。
残った砂を必死に握りしめていたはずなのに、気づいたら全部こぼれ落ちてしまっていた。もうなにも残っていない。
急に涙ぐんできて、空を仰いだ。
耐えようとした。でも無理だった。涙がボロボロ、
私は
ひどくみじめだ。泣いたところでなにも変わらないのに、次から次へと込みあげてとめようがない。
でも、その涙も、さすがに一晩中は続かなかった。
通りの店から明かりが消えるころには枯れ果てて、頬にヒリヒリとした痛みが残った。酸欠なのか頭がくらくらしている。
ひどく疲れた。でも気持ちは軽くなった気がする。
真夜中の町は、暗くて静かで、寒かった。私はビルの隙間に座り込んだまま、孤独な夜を明かした。
いつの間にかウトウトしたらしく、バイクの音でハッと目覚めた。新聞配達だ。町はまだ暗く静まりかえっていたが、うっすらと朝の気配がただよっていた。
どこか陰気なのは、どんよりとした天気のせいだろう。
手の甲にポツリと雨粒が落ちた。見上げると、頬にひと粒。屋根のある場所にすればよかった、と思ったが動く気力は湧かなかった。
そのうち始発列車の音がするころには、雨はしとしとと降る小雨になった。
雨水がじわじわと服に染み込んでくる。でも店に入るお金もないし、いまさら雨宿りできる場所を探すのも
――寒い。
それからしばらく、ただ膝を抱いてうずくまっていた。
びしょ濡れになるのに、それほど時間はかからなかったと思う。寒さにじっと耐えていたが、さすがにつらくなってきた。
気をまぎらわそうと、私は震える手でかばんからスマートフォンを取り出した。
メッセージが一件。昨日の夜、モカからだった。
〈大変だったら今じゃなくてもいいから、でも、また会いたい。私は友だちやめるつもりないから、これからもよろしく〉
私がモカと知り合ったのは高校一年のとき、たまたま同じクラスになったからだ。
モカは自分の世界を持っている子だった。友だちという言葉で私を
モカの短いメッセージがとても心強かった。
枯れたはずの涙がほんの少しあふれて、その一筋だけあたたかかった。
〈ありがとう。いま、
かじかんだ指で返信するとすぐに既読になって、「りょーかい」の文字と一緒にシュールなペンギンのイラストが返ってきた。
息を
まず必要なのは寝食に困らない仕事だ。住み込みで働ければ一番いい。
でも、こんな格好で乗り込めば家出だと思われるし、必ず事情を聞かれるだろう。それは困る。
それなら、とニュースで見た家出少女の特集を思い出した。
彼女たちは夜の町で泊めてくれる大人を探していた。世の中には若い女なら誰でもいい人が大勢いるらしい。犯罪に巻き込まれる可能性はもちろんあるが、なるほど単純だし手っ取り早い。
今の私が一人で生きて行くためにはそれしかない。
そう覚悟して抱えた膝に額を押しつける。
じっとうずくまったまま時間が流れた。
雨は次第に激しさを増し、ついに本降りになった。冷たい雨に体温を奪われて、身体が震える。
私の決意とは裏腹に、通りは
馬鹿みたい。屋根がある場所にすればよかった。
飲まず食わずで今夜もここにうずくまっていたら、死んでしまうだろうか。ふと、そんな考えがよぎった。
でも、そうなってしまったほうが生きて行くよりつらくないかも――……
「朝からずっといるな」
突然声が降ってきて、大げさなくらい肩が跳ねる。
顔をあげると、ジャケットにスラックスの、気取った印象の男が
若そうに見えるが落ち着いた声色だ。三十代くらいだろうか。
目もとはややつり目がちで涼しく、それなりに整った顔だちだった。身なりも小綺麗だし、長身ですらりとしている。この容姿なら女には困っていなそうだ。
「……お金がないんです」
くじけかかった心を励まして、私は覇気のない声で答えた。私に興味を持ってくれる人が何人いるかわからないから、貴重なチャンスだ。
「ふむ」
男は何事か考え込むように、口もとに手をあてて頷いた。
彼はジャケットのポケットから使い込まれた革財布を取り出して、その中身と私の顔とを見比べた。
「これで帰りなさい」
二千円。差し出された千円札をかぞえてから、私は男の顔を見上げた。
無表情だが冷徹には感じない。額面も間違いなく電車賃だし、親切心から声をかけたまっとうな大人のようだ。
私は顔を伏せて、首を横に振った。
「足りないのか?」
「家に、帰れないんです。でも頼れる人いなくて」
つぶやきながら男の左手を見た。指輪はしていない。かばんの
「いくつだ?」
問われて、私はまた男を見上げた。
「はたち」
低く見積もるか高く見積もるか少しだけ考えて、後者を選ぶ。
相手は身なりの整った一見良識的な大人だ。未成年だと申告すれば、交番へ連れて行かれるだろう。
「ふむ」
男は再び
私の格好は地味なベージュのセーターとネイビーのボーイフレンドパンツで、化粧もしていないし髪も染めていないから、中学生には見えても二十に見える可能性は限りなく低い。
「泊めてほしいんです」
そう口にして、泣きたくなったのをきゅっとこらえる。
まともそうな人だから、断られるだろうか。でもこの人なら助けてくれるかもしれない、そんな気もした。
男はじっと私を見下ろして、私は男を見上げていた。
もしかしたら
「……」
雨がパタパタと傘を叩いている。
沈黙ののち、男は私に向かって手を差し出した。
警察へ連れて行かれるのか、それとも泊めてくれるのか、その手がなにを意味するのかわからなかった。聞き返すべきか、黙って手を取るべきか。
男の顔に目をやると、相変わらず無表情だった。
私は差し出された手におそるおそる自分の手を重ねた。男は私の指先を握り、引きあげるようにして立たせた。あたたかい、と思った。
大きな手がすっと離れて行く。
男が、行こう、とでも言うように首をかしげた。彼のあとについて、とぼとぼと小路を出る。差しかけられた傘に入り、私は見ず知らずの他人と肩を並べて歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます