1-2
沙奈絵の勉強机には教科書や雑貨が残っていた。ランドセルも置かれたままだが、四月から中学生になるから必要ない。
共用のクローゼットを開けると、沙奈絵の服だけなくなっていた。旅行用のボストンバッグが見当たらないから、それに詰めて行ったのだろうか。
家を出て行った説がいよいよ濃厚だ。
途方もない
ぼうっと部屋を眺めていると、違和感をおぼえた。なにがおかしいのかまわらない頭で考えて、あるはずのものがないのだと気づいた。
本棚の上にいるはずのブサイクなブタ。
割らないと中身が取り出せないタイプの貯金箱で、それなりに小銭がたまっていたはずだ。私の貯金箱なのだから残っていてしかるべきなのに、見当たらない。
もしやと立ちあがって、自分の机の引き出しを開けた。
通帳と印鑑がなくなっている。
――まさか、持って行った。
沙奈絵がこんなことをするはずがないから、やったとしたら母だろう。つまり、今この家には、これっぽっちの生活費も残されていないということになる。
非情な仕打ちに放心しかけたところで、ぼうっとした頭が少しばかり働いた。
母が頼りたいと言った愛人は
私が小学生のときだから、十年前くらいだろうか。東がまだ三十かそこらだったころ、彼は友人と立ちあげた事業に失敗した。そして多額の借金を背負い、仕事も家もなくして父を頼みに我が家に転がり込んだ。
見捨てられれば生きて行けないくらいの有様だったから、父は仕事が見つかるまでという条件で、東の
そして、いわずもがな、この同居生活を発端に母と東の不倫がはじまったのだった。
十年。もうそんなに経ったのだ。そう考えると行きずりの恋が多い母にしては、ずいぶん長く続いている。
そのときの東の居候は半年ほどだったように思う。彼は職を見つけて犬飼家を出て、それからどんな暮らしをしていたのか、私はよく知らない。借金を返し終えたのかどうかもわからない。母を自分のもとに呼び寄せるくらいだから、今も独身なのだろう。
母は自分のブランドバッグから娘の貯金箱に至るまで、金目のものをとにかくかき集めて行った。東の生活にゆとりがあれば、そんな意地きたない真似は必要ないはずだから、おそらく東自身も
それでも母は、この家で母娘三人で暮らすよりましだと判断した。どのみち、私の就職が決まらなければ貯金を切り崩して生活するしかない。それなら恋人にすがるほうが彼女にとって安心だし、安全でもあるだろう。これも、そう、気持ちはわからなくもない。
は、と、唇から乾いた笑いがもれた。
父の代わりに母と妹を私が守らなければならないと、ずっと気丈に
今日までの自分が急に
――美沙緒ちゃんは、大人だもんね。
今朝の口論のあと、母がささやいた言葉がよみがえる。
公民の授業で先生が言っていたっけ。法律が変わって、今まで二十才だった成人年齢は遠からず十八才に引き下げられるのだそうだ。それを適用したら、十八才の私はもうとっくに大人ということになる。
大人だもん、一人で生きて行けるね。母はそう言おうとしたのだろう。
今までの彼女なら、なんの前触れもなく娘二人を放り出して姿を消したはずだ。そう考えると、私に相談したのも、まだ子どもの妹をちゃんと連れて行ったのも、親として大きな進歩だった。
母は東を選んで、私は選ばなかった。
おたがいちがう道を選んだ。それだけの話なのだ。
財布にいくら入っていたっけ。
〈美沙緒、どうしてる? 大丈夫?〉
メッセージの送り主はモカ――友人の木下
彼女と最後にやりとりしたのは年明けの一月上旬、モカからのメッセージを私が無視してそれきりになっていた。
ふと、友人を頼るという選択肢が思い浮かんだ。いや、だめだ。モカの人生を壊してはいけない。
〈大丈夫だよ〉
そう送ると、モカからすぐに返信がきた。
〈本当? 私、来週引っ越しなんだ。その前に会える?〉
モカの第一志望は確か、東北の大学だったはずだ。そうか、試験が終わって、もう合否も出たのだろう。
私はそのメッセージに返信せずに、スマホをかばんに戻した。ついでに財布を取り出して中身を改める。残金は千五百三十七円だった。
これでどのくらい暮らせるだろうか。せいぜい数日、となるとすぐに仕事を見つけて……いや、すぐ見つかれば苦労しない。
父の事件は全国ニュースで大々的に報道された。人前に出ない品出しや厨房の仕事を選んで応募しても、私がその娘とわかるとなかなか雇ってもらえない。
だめだ。これからどうするか考えるべきなのに、頭がぼうっとする。
ベッドに座って
母だったらと、わずかに期待しながら立ちあがる。私の通帳だけでも返してくれと交渉しよう。
私が階段を降りるあいだも、着信音は途切れず鳴り続けた。
電話機の前に立ち、呼吸を整えてから受話器を取る。
「もしもし」
「……」
相手は無言だった。「もしもし」と再びつぶやくと「人殺し」とさっきと似たような男の声がした。なんだ、迷惑電話だ。今度はなかなか切れなかった。
この人は一体なにをしたいんだろう。わざわざ労力を
ぼうっと無言で受話器を持ち続けていると、自転車がベルを鳴らしながら窓の外を通りすぎた。
そのベルが受話器の向こうで繰り返された気がした。
はっとして、反射的に電話を切る。
わずかな静寂のあと、またすぐに着信音が鳴り響いた。
隙間なく閉まった遮光カーテンを振り返る。今や、電話はどこからでもかけられる時代だ。まさかと思いつつも、外をのぞく勇気は出なかった。
私はかばんの肩ひもをぎゅっと握りしめた。
電話は依然として鳴り続けていた。思いきって留守電ボタンを押すと、すぐに留守番メッセージが流れ出す。その途中で相手が電話を切った。
ほっとしたのも束の間、再び着信音が鳴りはじめた。
これから私は一人ぼっちだ。一人で、この家に。急に心細くなって、逃げ出したい衝動に駆られた。鳴り続ける電話から、この場所から、この瞬間そしてこの現実から。
今は戦えない。でも泣きつく先もなければ、助けてくれる人もいない。逃げ込める場所はない。自分で立ち向かわなければならない。でも、逃げ出したい。私は唇をぎゅっと噛んで、泣きそうになるのをこらえた。
三か月間、ずっと戦ってきた。守るものがなくなったなら、もう逃げ出したっていいじゃないか。
がらんとしたリビングを見つめてから、私は家を飛び出した。
なんのあてがあるわけでもない。でも逃げ出したい。現実が追いつかないくらい遠くまで、逃げて行ってしまいたい。
門を出るとブロック塀に貼られた紙が目につく。帰ったときにはなかったはずだ。
〈ひと殺し、出て行け〉
ゴシック体で印字された貼り紙を
――言われなくても。
通りのかどで人影が動いたように見えた。私は顔をそむけて走り出した。
誰かがあとをつけてくるような気がする。本当にそうなのか、それとも私の妄想なのかもしれない。
ときどき歩いて、走って、それを繰り返しながら、やっと駅前通りについた。息が切れて思わず電柱にすがりつく。
妹だけでなく、私の写真もウェブ上に
私は殺人犯の娘として、見ず知らずの誰かに顔をおぼえられている。
そう考えると、他人の足音が私を追ってくるように聞こえた。
「二番線に到着する列車は午後四時二十六分発……」
めまいに耐えながらなんとか駅舎にたどりつくと、ホームのアナウンスが聞こえてきた。電光掲示板を見上げる。下り線の終着駅は、となりの県の行ったことのない町だった。
路線図に目を移す。片道切符なら買えそうだ。私は券売機に歩み寄って、終着駅までの切符を一枚購入した。財布に残ったのは百円玉と五円玉が一枚ずつ、それから一円玉が二枚だった。
馬鹿なことをしていると頭の端で理解しながら、薄っぺらい切符を握って、何故か少しほっとした。逃げ出せる気がしたのかもしれない。
どうしようもないなら、どうにでもなってしまえ。
そう思ったらいっそすがすがしかった。
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