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 一


「人殺し」


 低い声がして、電話が乱暴に切れる。

 私は受話器を持ったまま、がらんとしたリビングをうつろな気分で振り返った。


 三か月前、十二月に入ったばかりの日曜日に、私の父は殺人犯になった。自宅にいた私と母と妹は、それをニュース速報で知った。


 その日を皮切りに自宅には報道関係者が押しかけ、義憤ぎふんに駆られた人々あるいは野次馬が家のまわりをうろつき、電話はひっきりなしに鳴り続けた。

 一歩外へ出ればつけまわされて、写真を撮られることもあった。そしてかかってくる電話のほとんどがちょうど今のような、無言だったり罵声ばせいだったり、中身のない嫌がらせ電話だった。


 私は高校、妹は小学校の卒業を控えていたが、事件が起こった十二月から通学できる状況ではなくなった。母に至ってはおびえきって一切外出しなくなった。


 それから三か月が経ち、三月上旬に差しかかるころには、自宅まわりをうろつく報道関係者や不審者はずいぶん減った。同様に迷惑電話も思い出したようにかかってくる程度になった。


 ただそれは、三か月前と比較してましになったというだけで、事件が起こる前の日常が戻ったわけではない。


 今日、私はスーパーの品出しアルバイトをたった一週間でクビになった。

 勤務態度が悪かったわけでも、ミスをしたわけでもないが、お客さんから本社に「不快だ」とクレームが入ったのだそうだ。


 同情的だったパートのおばさんたちが内心では迷惑していたのも知っている。口では励ましてくれたけれど、私を引きとめる人はいなかった。店長だけはこれからの私の生活を心配して、本社にかけ合うことも提案してくれた。


 私は気持ちだけ受け取って、辞職を受け入れた。


 事件から間もないころ、私は一人の教員を休職へ追いやった。担任の橋田先生だ。

 彼女は私が学校へ通えるようにしようと親身になって、そのせいでいわれのない非難を浴びる羽目はめになった。そして学校へこられなくなってしまった。


 店長の顔と先生の顔が連鎖的に思い浮かぶ。二人とも黒い髪をひとつに束ねた、二十七、八才くらいの女性で、どことなく印象が似ていた。

 店長の眼差しが私を案じていたからこそ、この人まで不幸にしてはいけないと強く思った。


 ふと、定まらない焦点に意識が戻った。


 そうだ、そうしてバイトを辞めてとぼとぼ帰宅したところで、追い打ちをかけるようないたずら電話を取ってしまったのだ。


 私は受話器を持ったままリビングに立ち尽くして、ぼうっとソファの背もたれを眺めた。もう、ため息も出なかった。

 放心していようと時は流れる。ただただ無駄な時間だ。

 でも、それ以外にどうしようもなかった。自分を急かす気力も残っていない。


 どのくらいそうしていただろうか。特にきっかけはなかったが、私ははたと我を取り戻して、受話器を本体に戻した。

 電話線を抜いてしまおうかと考えて、いや、母や妹から連絡があるかもしれないと思いとどまる。私はうつむいて、ダイヤルボタンを見つめた。


――無職になって帰ったら、家に誰もいなかった。


 母と妹が二人きりでちょっと買いものに出かけるなんてことは、少なくとも現在ではありえなかった。しつこい報道関係者やいたずらに怯えて母は庭先にすら出なくなったし、妹は十二才で、四月から中学生とはいえまだ子どもだ。軽率に外出しないよう言い聞かせてある。


 でも玄関には靴が一足もなくて、家の中もこの通り静まりかえっている。事前になにも聞いていないし、置き手紙も見当たらなければ、メールもメッセージも届いていない。


――まさか二人の身になにかあったのか。


 事件のあと、真っ先に目をつけられたのは妹の沙奈絵さなえだった。私は父親似のきつい顔だちだが、妹の沙奈絵は母の病弱そうな美貌びぼうを受け継いだ。

 学校帰りに芸能事務所の名刺をもらってくるくらいだから、それなりに人目を引くのだろう。


 ランドセルを背負った沙奈絵の写真がインターネット上に投稿されると、その記事には見るにえない卑猥ひわいなコメントが連なった。中には誘拐や暴行を示唆しさするようなものもあった。


 遮光しゃこうカーテンを閉めきったリビングは、昼間でも薄暗い。幽霊のように立ち尽くしていた私は、重い頭を起こして壁時計を見上げた。

 時刻は午後三時半をすぎたところだ。


 一抹いちまつの不安に駆り立てられて、私はスマートフォンの通話履歴から母の番号を選び出した。


 通話ボタンを押そうとして、手をとめる。


 そういえば今朝、母と口論になった。

 愛人のもとに身を寄せたい母と、それを受け入れられない私とで言い合いになったのだ。


 私の母親――犬飼いぬかい沙彩さあやは、いくつになっても男遊びがやめられない。常識的に考えたら、親としてどうかと思う。

 しかし、それが彼女の根っからの性分だった。それについてはよく知っているから、いまさらとやかく言う気はない。


 父は母の気質を理解したうえで一緒になったし、我が子に関心のない妻の代わりに私と妹をきちんと育ててくれた。だからはたから見れば異質でも、私たちは家族として成立している。


 男遊びが好きだからといって、母は父をうとんでいるわけではない。夫として頼りにしていたし、愛情もあったと思う。

 信頼する夫が起こした事件も、夫の不在も、母にとって大きなストレスだった。それでも彼女は三か月間、先行きの見えない不安に耐え続けた。


 そして、限界がきた。

 帰ってこないかもしれない人を待つより、今自分を助けてくれる人のそばにいたい。その気持ちはもちろん想像できるし、わからなくもない。


 けれど私は、父を待っていたかった。

 私たちが家族として成り立っていたのは父がいたからで、そうでなかったら家庭はめちゃくちゃだったろう。犯罪者だと言われても、私にとっては真面目で頑固で不器用で、でも家族思いの父親なのだ。


――私は、三か月経った今も父の罪を受け入れられない。そして父の無実を信じていたかった。


 反対に、母は現実をすぐに受け入れた。父を待ちたい私と、待っても無駄だと結論した母。愛人問題以前に私たちの立場は相容あいいれない。


 私はスマホの画面を消して、肩にかけたままのショルダーバッグにしまった。


 母と妹が二人だけでこの家を出て行ったとは考えられない。でも、信頼できる他人が一緒だとしたら?


 私はかばんを持ったままリビングを出た。母と妹がどこへ行ったのかわからなくても、部屋を調べれば家出か誘拐かの見当くらいはつくかもしれない。


 まずは、一階の両親の寝室へ入った。雨戸を閉めきった薄暗い寝室には、母の香水だろう、人工的な甘ったるいにおいがただよっていた。

 明かりをつけると、ベッドは起きてそのままの状態だった。


 化粧品がない。


 母の鏡台はすっかりきれいに片付いて、引き出しの中もほとんどカラだった。

 クローゼットを開けると、服の数も減っているし、ブランドもののバッグがすべてなくなっていた。通帳と印鑑も見当たらない。


 使いかけの化粧水まで持って行く泥棒はいないだろうし、荒らされた様子もないから、母自身が持ち出したと考えるのが妥当だとうだろう。


 私は気が遠くなりそうになるのをこらえて、寝室を出た。そしてそのまま階段をのぼり、二階の自室へ向かった。


「沙奈絵、いる?」


 私と妹は広い部屋を棚で区切って共用しているので、ここは私の部屋であると同時に妹の部屋でもある。

 ドアを開けながら問いかけてはみたが、もちろん返事はなかったし、誰もいなかった。

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