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空は太陽で煌めき、ジリジリと肌を焼くように日射しが降り注ぐ、最近は春と夏の季節の境が曖昧に感じられるばかりだ。一体、梅雨はどこへいってしまったのか、ジメジメとした梅雨の時期特有の蒸し暑さは苦手だが、時には雨も恋しくなる。多々羅たたらは少しばかり太陽を睨み付けた。


多々羅と愛は、店を出て電車に乗り込んだ。

今日は日曜日、世間的には休日ということもあり、空調の効いた電車内は、平日の昼間よりも人が多く、若者達の楽しげな話し声が聞こえてくる。

服の袖を捲り直し、多々羅は隣に立つ愛に視線を向けた。あの眼鏡は不思議だ、横から見ても愛の右目がちゃんと黒く見える。そう言えば、この眼鏡はいつから掛けるようになったのだろう、少なくとも、多々羅が愛と毎日のように会っていた子供の頃は、この不思議な眼鏡は掛けていなかった。留学中に使うようになったのだろうか。

ぼんやり考えている内に、多々羅の視線は愛の胸元に下がり、それから自身の服を見下ろした。


「そういえば、仕事中はスーツって決まってるんですか?俺も、合わせた方が良いかな…」

「好きな服で良いよ。俺は、この格好が落ち着くだけだから」


ふぅん、と頷きながら、多々羅はかっちりと上まで留められたシャツのボタンに目を止めた。苦しくないのだろうか。


「…暑くないですか?」

「通気性は良い。多々羅君だって、暑くないの長袖」


そう言われて、多々羅は自身の服を再び見下ろした。多々羅は、ボタンで留める服が苦手だ。体が締め付けられる感じが窮屈で、ハイネックは問題ないが、ワイシャツのボタンは苦手だった。なので、会社勤めの頃はその窮屈さとも戦いであった。だが、今の自分のゆるっとした服装を見れば、愛が尋ねたくなるのも分かる気がする。

見た目で言えば、多々羅のスウェット姿の方が暑そうに見えるだろう。


「俺は、袖が無いとなんか落ち着かないんですよね。今日は、もうちょっと薄手にした方が良かったかな…」


暑いや、と呟いた多々羅を愛は暫し見つめ、それから口元を緩めた。


「リンクは寒いっていうし、それでも良いんじゃないか?」

「あ、そっか…。見つかると良いですね、ネックレス」


愛は頷き、流れる車窓の景色に目を向けた。




彩の使っているスケートリンクは都内にあり、愛達の暮らす街からもそう遠くなかった。電車も乗り換え無く行ける場所だったが、愛は方向音痴だけでなく、電車の乗り方もほとんど忘れていたようだった。馬鹿にするなと豪語していた愛だが、瀬々市の家にいる時は車移動がほとんどで、仕事がある時も、正一しょういちが手配した車で移動したり、交通機関を使う際は、正一が切符を買っていたという。なので、切符の買い方から多々羅がレクチャーする事になった。

養子とはいえ、瀬々市ぜぜいちの坊っちゃん恐るべしだ。


スケートリンクの場所をスマホで調べると、駅から近い場所にあることが分かった。

近代的な氷を模したかのような大きな建物で、中へ入って行く人々を見ると、子供や親子連れの姿も目立つ。スケートスクールの生徒だろうか。


「入りますよね?見学料とか取られるのかな…」


幾らだろうと、多々羅はジーンズのポケットに突っ込んでいた財布を取り出そうとしたが、財布がポケットの角に引っ掛かって落ちてしまい、更には運悪く小銭をばらまく始末だ。


「うわっ、」


ここはまだ建物前の通りで、人通りもある。恥ずかしいやら迷惑になるやらで、多々羅は赤くなりながら大慌てでそれをかき集めているが、愛はそれには構わず「先に行ってる」と言い残し、さっさとエントランスへの階段を上がっていってしまった。薄情な、と思いはしたが、周りの視線もあり、恥ずかしさが先に立つ多々羅は文句の一つも言えなかった。


そんな多々羅の思いはきっと気にもせず、愛は先へ進んでいく。開放的で広々としたエントランスに入れば、右手にはカフェや物販の店舗があり、左手側に受付カウンターがあった。愛は受付へ向かった。





「すみません、店長。幾らでしたか?」


遅れてやって来た多々羅が財布を広げるのを見て、愛はそれをしまわせた。


「代金は払っておいた。さ、行くぞ」

「え、すみません、ありがとうございます!」


にこりと微笑んだ愛に、こういうところは優しいんだなと、多々羅はちょっと感動を覚えていた。

受付カウンターの横にはリンクへ向かう通路があり、途中には、スケート靴の貸出カウンターがあった。愛に靴のサイズを聞かれたので、多々羅は疑問に思う事もなく答えれば、愛はスケート靴を取り、そのまま先へ進むので、多々羅もただそれに続いた。


スケート靴の貸出カウンターを過ぎると、壁際にズラリとロッカーが立ち並んでいた。このどこかに、彩のネックレスは落ちているのだろうかと、多々羅は足元に視線を落としながら愛の後を追う。

この日は休日とあってか、スケートリンクは多くの人で賑わっていた。楽しげな子供達の笑い声が、輪になって聞こえてくる。この状態での物探しは、閉館後でないと困難かもしれない。


「多々羅君、スケートはやった事ある?」

「え?あー、子供の頃、一回だけやった事はありますけど」


ふーん、と愛は返事をしながら、多々羅を側のベンチへ促した。そこで、スケート靴を履くよう指示を受け、多々羅は促されるままに靴を履き替えれば、愛はさっさと多々羅の手を引いて歩き出すので、多々羅は戸惑いながらも覚束ない足を進ませた。愛の魂胆に思いを巡らせるよりも、多々羅は履き慣れないスケート靴で歩く事に注意を注いでいて。

そして気づいた頃には、多々羅はひとり氷の上に立たされていた。


「え?」

「反射神経も運動神経も良いなら、滑れちゃうよね」

「え、ちょ、ちょっと!俺、子供の頃一回しか滑った事ないって言いましたよね!」


まさかリンクに立たされるとは思わず、多々羅はツルツル滑る氷で転びそうになり、慌ててリンクの壁にしがみついた。


「久しぶりだろ?楽しんできたら?」


そう言って、愛はにこりと微笑む。お客さんにしか見せなかった王子様の微笑みに気を取られていれば、多々羅の指は愛によって壁から剥がされてしまった。支えを失いバランスを崩した体は、バランスを取ろうともがけばもがく程に勝手に体が回転し、そんな多々羅の背中を、愛は軽く押してくる。


「え、ちょっと!嘘嘘嘘!」


それだけで、リンクの奥へ奥へと勝手に進んでしまう多々羅。素人ではない動きで横切るチビッ子スケーター達に怯えつつ愛を振り返れば、愛は上機嫌に笑って手を振っている。


「これ絶対仕返しでしょ!写真の仕返しでしょ!」


泣き叫ぶも、周囲の賑わいに掻き消され声すら届かない。いや、あれはきっと、聞こえない振りを決め込んでいる。「ちくしょう!」と、多々羅がリンクの中央でじたばたしていれば、チビッ子達に追い抜かれ際に笑われる始末。多々羅は半泣きのまま、ひとり氷の砂漠を彷徨うのだった。





「さて」


満足気に呟き、愛はリンクに目を向けながら、その周囲を歩く。リンクサイドの人々、リンクの中、その目は、子供達に教わりながら、よろよろと滑り始めた多々羅には目もくれず、何かを探しているようだ。


「あ、」


愛はある一点を見つめ、足を止めた。掛けていた眼鏡をずらし、リンクの中を見つめる。眼鏡越しでも化身の存在は見えるのだが、肉眼で見た方がその存在を感じ取りやすい気がしている。

ふらりと揺れるそれは、確かに物の化身の影のようなもので、それは愛に気づく事なくリンクの外へと消えてしまった。

愛は首の後ろに手をやり、僅かに肩を落とした。子供に手を引かれ、多々羅の泣き叫ぶ声が視界の端で遠く横切っていく。それにはやはり目もくれず、愛は消えてしまった物に少しでも近づこうと、それが見えた場所へ、リンクの外側から回っていく。


「野島先生、やっぱり教えるのが上手ねぇ」

「お嬢さんの彩ちゃんは、最近活躍出来てないみたいじゃない?」

「綺麗なのにね、頑張って欲しいわ」


歩いていると、子供をスケート教室に預けている母親達だろうか、そんな会話が聞こえてきた。愛はリンクに再び目をやった。多々羅の周りに居る子供達とは別の場所で、女性を中心に囲って、ひとかたまりになっている子供達の集団がある。

中央の女性は、子供達に向かって身振り手振りを交えながら、何か教えているようだった。あの人が野島先生だろうか、ということは、彩の母親は彼女かもしれない。

熱心に子供達と向き合っている彼女の姿を、愛は暫し遠くから眺めていた。




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