第4話 リストカット
「今週末、また来るよ。」
菜月は昨日の昼休み、職員室まで来て、楓にボソッと言った。
「わかった。ありがとう。」
楓は笑顔で返事をし、菜月の背中を軽く叩いた。
六月下旬に行なわれた個人面談の席で、菜月は楓に、また母親に新しい男ができたことを伝えてきた。
「ゴールデンウィークを過ぎたあたりから言われるようになったの。週末は起きたら外に行ってほしい、って。だから私、なるべく図書館とか行くようにしているの。そこだったら中学生がいても何も言われないし、でも週末の図書館は十七時で閉館になるでしょ。だからその後、二十一時ぐらいまで時間を潰すのが、苦痛。」
菜月は合服の袖口で汗をぬぐいながら、つぶやくように話していた。周囲の女子生徒はもうすでに夏服を着用していたが、彼女は頑として合服で登校してきていた。合服にこだわりがあるのではないのは、すでに楓も分かっていた。そして他の女子生徒から、体育も相変わらず長袖のジャージを着ているという報告を受けてから、ひとつの予感が楓の脳裏をよぎった。
彼女は夏服が着られないのである。半そでの体操着を着用できないのである。
彼女は必死に隠そうとしているが、きっとその手首にはリストカットの跡があるだろう。ここまで彼女を追い詰めているのは何か。
母親になろうとしない女である。そして、通ってくる男だ。
楓は今日、その2人と対峙しようとしていた。芝原中学校から菜月の自宅まで向かう途中、徳田市立図書館で菜月をピックアップした。
「家の鍵、あるね。」
「うん。でもチェーンしているかも。」
「大丈夫、この間、カーマホームセンターで番線切りを買ってきたから。」
「先生。」
「何?」
「何でそんなに一生懸命になってくれるの?担任だから?仕事だから?」
菜月は真っ直ぐ前を見つめている。だから楓も前を向いたまま答えた。
「担任だからじゃない。悪いけど人間としてあなたの母親とその男が嫌いだから。本当はちゃんとアポイントメントを取って、あなたの家に行くのが筋だとは分かっている。だけど電話に出てくれないし、学校の電話番号だけじゃなくて、私の携帯番号も着信拒否しているのかな?だからこういう少し暴力的な方法をとるしかない。こんなやり方好きじゃないよ。でもね。」
「でも?」
「あたし、早くあなたに夏服を着てほしいの。もう六月も半ばでみんなTシャツとかで街中を歩いているのに、菜月は相変わらず長袖スタイル。夏らしい格好をさせたいの。何にも考えず、季節に合わせた格好をしてもらいたいの。それだけ。」
ちらっと横を見た。菜月は袖口を引っ張ってうつむいている。幼さのためか日焼け防止のための長袖というのには、違和感がありすぎる。どこをどう見ても、私は訳ありです、と主張しているような服装だ。
「あの・・・先生、でも、そこまでしたら罰を受けるかもしれないよね。先生が・・・。」
「子どもが心配することじゃないよ。次の信号で右に曲がるんだよね。」
「あぁ、はい。」
菜月の家に到着するまで、一度も信号に引っかからなかった。今からの行動に対して運が味方してくれているようで、少し楓は気持ちが楽になった。
菜月のアパートの向かいにあるコンビニに車を止め、楓と菜月はアパートに向かった。
「怖かったら合鍵だけ私に預けて、菜月は車の中で待っていていいよ。」
「ううん。大丈夫。あたしの家だから。それに見なきゃいけないような気がする。」
菜月はそれ以上言わず、楓の後ろを黙ってついてきた。
二〇五号室前に到着。菜月が鞄から鍵を取り出し、差込んでノブを回した。ガチャっという音がしてドアを引くと、やはり少し痛んでいるチェーンが見えてきた。
「ちと、これ持っていて。」
楓は自分の鞄を菜月に預け、左手に持っていた袋から番線切りを取り出した。
「ちょっとドアだけ押さえていて。」
少しだけ開いているドアの隙間から番線切りを入れ、楓は思いっきり握った。
バチンッという金属音が小さくなりチェーンはあっけなく切れた。
「さすが、一番高い番線切りを買ったから、一発やったね。」
「先生も怪力なんだよ。」
二人は静かに笑い合い、ゆっくりとドアを開けた。菜月の話によると、寝室に母親と男はいるという。
「チェーンを切っている音とか、絶対したと思うけどなぁ。気づかなかったのかな。」
楓は番線切りを袋に片付け、静かに靴を脱いで上がった。
「寝室は左奥の部屋だから。ドア閉めきっていると、聞こえなかったのかもしれない。それか行為に夢中になっているか。」
「こらっ。子どもがそんな下世話なこと言わないの!」
二人は摺り足で寝室まで向かった。近づくにつれて、男女の図々しい喜悦の歌声の謦咳に接することができた。確かに、寝室から遠慮なく漏れてきている。
「菜月、見るの怖くない?」
「ううん。ちゃんと男の顔が見たい。好奇心の方が勝ってる。早く見たい。」
・・・私が怖がっているんだ。
「わかった、あたし、開けるよ。」
「うん。」
楓は鞄を足元に置き、心を整えた。
・・・さようなら、ミッフィー
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