作品が映す作者像

小狸

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「あなたの小説を読んだよ」


 親からそう言われた時に、背筋が凍り付いた。


 小説家としてデビューしたことも、某出版社で作品を発売させてもらっていることも、誰にも話していなかった。話すメリットがないからだ。人の触れられたくない事情に寄ってきて、蜘蛛の子を散らすように周囲に拡散する。そういう最低な人間が、僕の周りにはあまりに多すぎたからである。


 だから人に話すことはやめ、自営業をしているとか、実家を手伝っているとか、フリーターだとか、適当に言ってきた。


 ただまあ、それも勝手に解釈されたようで、ニートだのなんだのと馬鹿にしていたと聞く。他人の人生を馬鹿にすることで自分が相対的に幸せ者だと認識したい愚か者が、どうやら僕の知り合いの大多数を占めていたようだ。


 元から茫洋ぼうようとした人間関係であったので――前述の通り、誰にも伝えていなかった。


 はず――なのだが。


 どういうことか、親はそれを知っていた。


 両親とは、大学生の頃から疎遠である。


 虐待を平然と行う、機能不全家族であった。


 大学時代に一人暮らしをするようになってから、極力実家には帰らないようにして、社会人になってからは関係を断った。


 ただ――ここ数日は話が違う。


 実家で同居していた、父方の祖母が亡くなったのだ。


 嫌な人だった、と、死んだ今でも思う。


 見守ってくれた敬意はもちろん感じているけれど、戦争を乗り越えた世代だったので、苦労を乗り越えろだとか、生きていればそのうち良いことがあるだとか――そういう中身のない老害が言うような台詞を、延々と僕ら孫に押し付けてきた。


 苦労を乗り越えられて、生きていて良いことがあって、ちゃんと老いることができた――そんな持っている者の台詞など、僕には雑音も等しかった。嫁姑の関係も酷かったもので、しばし家の中で怒号が飛び交っていた。


 そんな中で育った僕が、まさかまともな人間に育つはずもなく――だから小説家になったのである。


 小説家とは、社会不適合者がなる職業である。


 僕が――そうであるように。


 故に、世間体を気にし、いっそ世間体を息子にすれば良いのにとも思う程に世間体に固執する親には、絶対に秘密にしようと思っていた。


 父も――母も。


 子が自分より幸せになることを、許せるような人間ではないからだ。


 同じように苦労し、同じように泣き、同じように辛酸を舐めて欲しいと思っているのだ。


 小説の執筆は正直大変ではあるけれど、恐らくそんなことは関係はない。小説家として成功していることのみを、彼らは見、そして嫉妬してくるのだ。


 自分たちが不幸だから。


 お前も不幸になれ、と。


 だから、言わなかった。


 なのに。


「読んだよ」


 僕が何も返答しないのを不思議がったのか、親――母親は、静かな、それでいて寂しそうな口調でそう言った。


「…………」


 何を言えば良かったのだろう。 


 次に何の台詞が来るのだろう。


 どんな嫉妬の台詞が来ても良いようにしておこう。


 どんな賞賛の言葉も嘘だと割り切ろう。


 そう脳髄の中で用意したところで――母親はこのように続けた。


「物語を読んで、家のこと、辛かったんだな、苦しかったんだなって思った。ごめんね」


 それは。


 それは。


 それは。


 それは。


 予想、していなかった。


 ただの嫉みや妬み、お世辞や賞賛、それが心からの感想だったとしても。


 僕は。


 はち切れた。


 葬式会場の外で。


 僕は母親の胸倉を思いっきり掴んで。


 言った。


「っっっっざけんな!!!」


「え……ちょ、何」 


 そうだろう。僕が何を言われても怒らない、。親は恐怖よりも驚嘆していた。反抗期にもこんな風に反発したことはなかった。驚くのも無理はないだろう。ただ――。


「何が、ごめんね、だ! 何が、物語を読んで、だ! 何が、家のこと辛かった、

 だ! 苦しかったんだな、だ! どうして僕の小説が、おまえらに影響されていなきゃならないんだ! 僕の唯一の居場所なのに! どうしてそこに、おまえらは影響を見出すんだ! ふっざけんなよ!」


 自分で書いた――小説。


 自分で書こうと思った、小説。


 僕の小説は、陰鬱な私小説、ミステリというのに近い。


 その中に、母親は自分の陰を――虐待の痕跡を見出したのである。


 私があの時ぶったから。


 私があの時殴ったから。


 私があの時叩いたから。


 私があの時罵ったから。


 そのせいで――息子はこういう物語を書くんだ。


 そのせいで、息子はこういう文章を使うんだ。


 


 それが、許せなかった。


「っざけんなよ、ざけんなよ! 僕だって殴られたくなかった! 我慢した! それで一人になって、自由になったんだ! いつまでもお前の影響なんて、受けてないんだよ!」


 どうして僕は、泣いているのだ。


 泣く理由なんて、どこにもないだろう。


 もう僕は大人だろう。


 感情が高ぶって泣くなんて――まるで小説の登場人物みたいなことを、どうしてこの歳になって行っているのだろう。


 それでも、涙は止まってくれなかった。


「お前らに叩かれたことなんて、ちっとも辛くなんてなかった! 酷いことを言われたって、ちっとも苦しく何てなかった! いじめを受けていた時助けてくれなかったことなんて、何とも思わなかった! 辛くなんて! 苦しくなんて! なかった! 何とも思わなかった!!」


 僕は、母親の首を絞めていた。


 細くて脆くて。


 折りやすそうな首だった。


 「ぐ」

 

 蛙が潰れるような音が聞こえた。


 もちろん。


 ここで母親を殺害していないということは、明記しておく。

 

 駆け付けた親族の方々に押さえつけられ、僕は警察の方々のお世話になった。

 

 家庭事情を話すと納得はしてくれたものの怒られた。

 

 これを契機に――僕は両親と完全に疎遠となった。


 これで良い、と思う。


 もうあの異常者たちと会わずに済むのは、僕の人生にとって確実に良いことだった。


 それでも。


 僕が、最後に母親に言った台詞と。


 その時の母親の表情は。


 なぜか頭の中にこびりついて離れることはなかった。


「僕は幸せだった」




 (了)

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