第27話 マリア・グラーシェの来日 後

 耳の機能は大きく三つの外耳、中耳、内耳に分類されている。


 外耳と呼ばれる耳介みみたぶや外耳道、これは音の振動を効率よく集める働きをしている。


 中耳と呼ばれる場所には鼓膜と耳小骨がある。

 音の振動を波として伝え、耳小骨と呼ばれる小さなちいさな骨が、拾った振動を増幅させる。


 そして内耳では、蝸牛と言われる巻き貝のような場所で、音を電気信号に変えて、蝸牛神経を介して、脳に伝える。

 最後に脳が電気信号を処理して、音を感じる・・・・・


 これほど色々と細やかな役割がなされて、人は音を聞くことができている。

 そして、難聴はこれらのどこが原因でも起きておかしくない。


 鼓膜が傷つく。

 耳小骨と呼ばれる骨につく小さな筋肉が上手く働かない。

 蝸牛の中にある、音を電気に変換する有毛細胞と呼ばれる細胞の毛が抜ける。

 脳につながるかぎゅう神経や、脳の聴覚野そのものに異常が起きる。


 ひとえに難聴といっても、これほど複雑に問題が分かれていた。


 そういった耳の機能について、マリアは医師から長々と説明を受けた。

 そして分かったことといえば、これらの考えられる原因に対して、打てる手はほとんどない、ということだけだった。


 どれだけ詳しく解説されたところで、治らなければ意味はない。

 畢竟、治れば余計な説明などなくても構わないのだ。

 マリアにとって、一番大切なのは、音を、自分のアイデンティティを取り戻す、それだけだった。


 タクシーが伝えた住所に向かって走り、一軒の喫茶店の前に止まった。

 小さな特に代わり映えのしない、むしろ人気の少ない店にマリアには見えた。


 こんなところで、本当に私の耳が治るのか。

 病院の治療には期待していなかったが、だからといって喫茶店で治るとはもっと思えなかった。


「やあマリア。久しぶり」

「ハイ、ミツル。本当に声が治ったのね。良かったわ」

「ありがとう。でも今は僕のことよりも君のことだ。大変だったね」

「本当よ。散々な目にあったわ」


 自分が素晴らしい歌手だからといって、他の美声の持ち主を評価しないわけではない。

 むしろ第一線で活躍するマリアだからこそ、かつての若井の声を誰よりも高く評価していた。

 その声がとっくの昔に失われていたと聞いたときには、どれほど残念に思ったことか。

 そして、かつての全盛期を上回る復活を成し遂げたと聞いた時、どれほど嬉しく思ったことか。


 だが、その声も今はぼんやりとしていて、明瞭に聞き取ることができない。


 喫茶店で出迎えてくれた若井の表情は明るい。

 喉が壊れて失意の底に沈んでいた男が、今は幸せそうに、元気に笑っている。

 マリアを見つめる目には気遣う素振りがあったが、だからといって不安な色合いはまったくない。

 本当に良くなると信じているのだ。


 これならば、自分も治るのかもしれない。

 マリアは期待を持った。


 そして、その目を店内に移し、美女に囲まれる平凡な男が目に入った。

 アメリカで出会った成功者たちと比べると、なんて普通な、代わり映えしない外見の男だろう。


 だというのに、マリアの直感は、この男こそが自分を救ってくれるのだと、一目で強烈な確信を抱かせた。

 雷に打たれたように、マリアはビクリと全身を震わせ、目が離せなくなった。

 どくん、どくんと心臓が大きく鳴り響く。


 渡が店内のソファから立ち上がって握手を求められ、マリアは慌てて手を取った。

 手汗を気にしたのはいつ以来だろうか、と思った。

 握られた手は温かく、優しかった。


「はじめまして。俺は堺渡と言います」

「マ、マリア・グラーシェよ。よろしく、ワタル」

「あれ? マリアさんは日本語ができるんですか?」

「ほんとうにかんたんな言葉だけね」


 少しだけ得意げにマリアが言った。


 何度も日本に滞在するうちに、挨拶などの触りだけは覚えたのだ。

 もっと勉強していたら良かったかもしれないと、残念に思う自分がいる。


 その後の通訳は、満が引き受けてくれた。

 そして今回提供されるポーションの効用が伝えられ、日本語と英語が併記された契約書に署名する。


 わざわざ秘密保持契約を交わさないといけない治療というところには大いに疑問を感じたが、手術の際にも多数の契約を結ぶし、今は何よりも優先するべきは、治ることだ。


「マリアさん、契約については理解いただけたと思います」

「もちろん。私もこれまで大切な契約をいくつもしてきた。信じてもらっていいわ」

「今回俺が提供する薬は二種類あります。日本円で五百万円です。もしかしたら片方だけでも抜群の効果があるかもしれません。その際は一つ分の料金で十分です」

「分かったわ。さっそく始めましょう」


 そんなにすぐに治るものなのか。

 そもそも、アメリカの最先端医療でも治せないこの難聴が、本当にたった五百万円で治るのか。

 マリアからすれば、本当に完治するならば、五百万ドル・・・・・でも惜しくなかった。


 治療費として途方もない大金ではあるが、自分の体さえ万全ならば、またいつでも稼げる自信はあった。

 渡はテーブルに二つの瓶を置いた。

 どちらも少量の液体が入っている。


「どっちから飲めばいいの?」

「そうですね……。値段が値段ですからね。できるだけ一本目で治って欲しいですし、悩ましいです」

「アタシは急性の方が良いと思う!」

「その心は?」

「訓練中に鼓膜が破れて聞こえなくなったやつに飲ませたら、すぐ治ってたから!」

「却下」

「えー! なんでさー!」


 エアが不満そうに頬を膨らませた。

 無邪気な少女のようにストレートな表現に、マリアの緊張が解れる。

 そして、マリエルが取りなすように、冷静に別の意見を口にする。


「私は慢性の方が良いと思います」

「その心は?」

「マリアさんの耳の症状は、出たのは最近のこととはいえ、実際には日々の負担の蓄積で、ずっと昔から本当に少しずつ進行していたのではないでしょうか? そう考えると、検査で異常がなかったことにも説明がつきます」

「これは説得力がありそうだな。よく考えられてる」

「アタシだってしっかり考えたもん!」

「わかったわかった。拗ねるなって。ただ、マリアさんは鼓膜は破れてないし、怪我をしてるわけでもないんだ」

「分かんないじゃん! バカでかい音聴いてたら、アタシだって耳が痛くなるもん! えんしょーとか言うのが耳の奥で起きてるかもしれないじゃん!」

「まあ、それはそうかもしれないな」

「でしょでしょ!」

「なんだか賑やかしいわね。本当に治るなら、私は二本分支払って全然構わないのよ?」

「なんかスミマセン……。じゃあ、慢性こちらから飲んでもらえますか?」

「ええ」


 賑やかなのは嫌いじゃない。

 でも、今はその楽しげな光景に対して、音がハッキリと聞こえないから、マリアには辛かった。


 これで本当に治るのか。

 こんな一本の瓶に含まれた薬で。


 これまでのポーションの購入者が抱えた疑問をマリアも抱きながら、ぐいっと飲み干した。

 時間をおかずに、マリアの両耳の周辺がぱあっと光り輝いた。


 耳周りに感じる異変に、マリアが手で押さえた。


「ああっ!? な、なんだか耳が……熱い! だ、大丈夫なのこれ!?」

「落ち着いてください。急激に体が治っていることで、違和感を感じているんです」

「ええ、ああ。……大丈夫。落ち着いてきたわ。ん? あら? …………聞こえる? 本当に!?」

「ああ、効果がありましたか。良かった」

「治った! 治ったわ! 聞こえる、聞こえるのよ!」

「マリア、落ち着いた方がいい」

「あ、そ、そうね。ごめんなさい。あまりにも嬉しくて。わたし……もう二度と聞こえないんじゃないかって、本当は不安で、怖くて……未来が真っ暗だったのよ」


 それが突然、まるで神様が気まぐれを起こしたように、スッと事態を解決してしまった。


 マリアは耳が本当に治っていることを理解した。

 いや、それどころか、前よりもハッキリと、しっかりと聞こえている気がする。

 眼の前の渡だけでなく、満やエア、クローシェのかすかな呼吸音、喫茶店の空調の音から、外を歩く人の足音までが、鮮明に聞き取れる。


 良かった。

 そう小さく呟いて、ホッとした顔で笑う渡の顔を見て、この人は本当に自分を心配してくれていたのだと理解できた。


「マリア、君も治ったみたいだね」

「ええ。それどころか、前よりも耳の調子が良いみたい」

「そうか、僕も以前よりも喉の調子が良くなったんだ」


 マリアの感覚は正しかった。

 聴覚に深く関わる有毛細胞の毛量が成長期の頃にまで戻り、耳小骨に付着する筋肉も、筋繊維の微細な損傷が完全に治癒していた。


 少女の頃でもなければ再現できない耳の機能を、このときのマリアは手にしていたのだ。

 大人になり、少しずつ組織が老化して傷ついた状態が当たり前になっていた満やマリアにとって、以前よりも良くなったと感じるのは不思議なことではなかった。


 さらにポーションの効果はマリアの喉にも起きていたのだが、この時は耳に意識が向いて、本人たちは気づかなかった。


 難聴からの完治を自覚したマリアの表情は活き活きとしだし、目には強い輝きが灯る。

 嬉しそうに笑みを浮かべると、急性治療ポーションの瓶を手に取った。


「こっちもついでだし、飲んでおくわ。同じぐらい効果があるんでしょう?」

「症状によりますが……。良いんですか?」

「自覚してないケガがあるかもしれないしね」


 グイっと飲み干す。

 大した変化は感じられない。


 だが、それでも良かった。

 これだけの効果のある薬が、その効果を及ぼさない。

 それはつまり、今すぐ治すべき場所がなかったという証拠だ。


 マリアが渡に近づくと、その頬に軽いキスの雨を降らせた。

 一瞬にして治った感動を、この深い感動を、なんとかして渡に伝えなければならない。


「ワタル、ありがとう。私のメシア。これはお礼よ」

「ちょ、ちょっとマリアさん!」

「あら、嬉しくないの?」

「……嬉しいです。ちょ、うわっ!」


 照れくさそうにしながら、本気では抵抗してこない。

 更に何度もキスを降らせて、マリアは渡から離れた。


「んふふ、サービスよ。助けてくれて、本当に感謝してるわ。あなたはね、私の音楽じんせいを救ってくれたの。いつでも連絡して。太平洋をプライベートジェットで飛びこえて、すぐに会いに来るわ」

「は、はひ……」


 マリアがバッチリと決まったウインクを飛ばしたせいで、突然のキスに赤くなっていた渡の顔が、ますます赤くなった。

 マリアは美しく、今は世界有数の実力者としてのカリスマと魅力に溢れている。

 肢体は鍛えられて、マリエルやエアたちとはまた違った色気があった。


 突如現れたライバルにマリエルたちが目くじらを立ててマリアを睨みつけたが、世紀の歌姫はどこ吹く風で、飄々と笑みを浮かべていた。


 その後、マリアは、全米の新しい記録を打ち立てるほどの大ヒットを連発した。

 その曲中に『東洋の不思議な魔法使い』が現れ、その解釈や理解に議論が勃発するのだが、その意味・・を本当に理解できたのは、世界でもほんの僅か、数人に限られたのだとか。


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耳鳴りや難聴はメニエール病など、本当に急を要する治療が必要なことがあるので、あまり様子見せずに耳鼻咽喉科に行かれることをオススメします。


昨日、2人からギフトをいただきました。

ありがとうございます。

メールを見て確認してたら次のギフトが届いてビビりました。


今月は省略しているマリエルと両親との会話について掲載予定です。

親子がどういう話をしたのか、渡についてマリエルが何を言い、両親がどう反応したのか、興味がある方はぜひサポートしてください。(PR)


次回、『錬金術・魔法使い道具屋筋』(仮)です。

お楽しみに。

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