第26話 マリア・グラーシェの来日 前
――神の声を持つ者。
若井満について、そんな評価をする人がいる。
芯があるのにとてつもなく繊細で、限界を感じさせない大胆なハイトーンボイスは、聴いていてとても心地良い。
おそらく喉を壊すことがなければ、日本と海外の敷居が今よりももっともっと大きかった当時でも、若井の声は世界に届いていたのではないだろうか。
渡がそんなことを考えたのは、若井満から、ぜひとも会って欲しい人がいる、と電話で相談を受けたからだ。
「無理を言って悪いね」
「いえ、若井さんには紹介していただいた恩もありますからね、秘密を守れる相手なら、全然構いませんよ」
「そう言ってくれると助かるよ。彼女はこんなところで立ち止まって良い人じゃないんだ」
「若井さんがそこまで言うって、相当な人ですね。誰なんです? 俺でも知ってるんでしょうか」
「多分、いや、間違いなく名前は知ってると思うよ」
にやっと笑みが思い浮かぶような声で、若井が名を告げた。
その相手の経歴があまりにも凄く、思わず耳を疑ってしまう。
マリア・グラーシェ。
現在三十歳を超えたばかりだが、三大歌姫の一人に挙げられる人物だ。
美しい外見に7オクターブとも言われる恐ろしく広い声の音域。
音楽センスも抜群で、ロックやポップスから、R&BやHIPHOPとジャンルを問わない表現力を持ち、アメリカのチャートでヒットを連発。
売上だけでなく数々の音楽賞を受賞する、今後間違いなく歴史に名を残す大歌手だった。
「若井さんどういう人脈を持ってるんですか!」
「普通に歌手繋がりだよ。音楽は国境を越えるんだ、知らなかったかい?」
「聞いたことはありますが、これほど実感したのは初めてです……。あ、でも法律の理解とか、言葉の壁とかどうするんですか? 間に通訳者でも挟むんです? 俺は英語なんて流暢に話せませんよ……?」
「いや、今回は僕が責任を持って、間に立つよ」
「それなら構いませんが。あと、マリアさんは日本に来るんです?」
「うん。流石にこのために君を海外に連れ回すわけにも行かないしね」
音楽家は耳が良いから、外国語学習に向いていると聞いたことがあった。
若井も自分から通訳を申し出るぐらいだから、相当英語には堪能なのだろう。
言葉の壁が問題なくなるなら、渡としても特に不満はない。
何よりも若井がわざわざ頼み込んでくるのだ。
非常に大きな問題が発生しているのだと思えば、断るという選択肢はなかった。
「そういえば、綾乃さんとの熱愛報道見ましたよ。おめでとうございます」
「いや……お恥ずかしい」
本当に気恥ずかしそうに言うものだから、渡は思わず笑ってしまった。
かつては諦めた恋が実る。
素敵なことだと思った。
◯
マリア・グラーシェは、お忍びで日本に来た。
帽子を被り、サングラスをして、人目を避けている。
それでも女性にしては高い身長は目を引いた。
マリアの来日が事前に分かっていれば、空港に出待ちする大勢のファンが待ち受けていただろう。
どうやら騒がれず、無事に移動できそうだ。
特にコンサートなども開催されていないため、メディアに騒がれることもなく、来日することができた。
親日派を自認しているマリアにとって、日本はとても親しみを覚える国だった。
普段であれば、マリアもそういった異国のファンの歓迎は嬉しい。
だが、今ばかりはひっそりと来れたことが良かった。
ホッと息を吐く。
ステージで長時間ライブ・パフォーマンスを維持するために鍛えられた見事な肢体も、今ばかりは苦悩で縮こまっていた。
「まったく大変な時に何が何でも来なさいだなんて。ミツルったら、これで肩透かしだったら文句を言っちゃうんだから」
不意にマリアは端正な顔を苦痛に歪めた。
右耳のあたりに鈍い痛みとも違和感ともつかない、不快な感覚が襲いかかっている。
寝ても覚めても一日中、この不快感に悩まされている。
数ヶ月前から徐々に聴力が失われ、この二月ほどは、右耳からまったく音が聞こえなくなっていた。
モワモワとしたその違和感は、少しずつ左耳にも現れだしていた。
すぐさまアメリカでも有数の専門家に診てもらったが、異常な所見はなし。
少なくとも器質的な問題は見つからなかった。
負担のかけすぎによる、突発性難聴ではないか、あるいはストレスではないかとのことで、安静を勧められた。
セカンド・オピニオンにも相談したが、具体的な改善方法は見つからなかった。
大音量を長時間、そして長期間聴く歌手は、難聴に悩まされることが少なくない。
そしてそのまま長期間活動できなくなるケースが、よく見られた。
マリアはアメリカのニューヨーク州で生まれた。
今の華やかな生活からは想像もつかないほど、幼い頃の生活は荒んだものだった。
移民の血を引くマリアは、その外見から幼少期に差別を受けたり、家族には暴力を振るわれていた。
そのマリアを精神的にも、実績的にも助けたのが音楽だった。
その
幼い頃から音楽が好きで、その才能を発揮し歌一つで成功してきたマリアにとって、音が失われる恐怖は、何よりも大きいものだった。
歌えない自分にどんな価値があるだろう。
どれほど顔の整った男に甘い声をかけられても、歌こそが自分の一番大切なもの。
それにこの耳では、その声すらやがて聞こえなくなってしまう。
すでにその資産は数十億とも数百億とも言われているマリアだったが、大金ではけっして満たされない心の隙間ができつつあった。
そんな時、ものすごく強引に来日を勧めたのが若井だった。
きっと良くなる方法がある。
若井の復活はマリアも知っていた。
悩んだ末に、ダメで元々。
治らなくても、日本に旅行に来たと思えば、少しは気分も晴れるかもしれない。
そんな自棄とも言える感情で、マリアは日本に来た。
そして今、マリアはタクシーに乗り、関西空港から天王寺へと向かう。
そこに、自分の人生を激変させる出来事が待ち受けているとも知らず、不安そうに窓の外を見つめていた。
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*この作品は実在の人物、企業、団体とは関係ありません。(毎度おなじみの警告文)
今回は少し難産でした。
いくつかのストーリーがすでに頭にあって、どれを選ぶかで悩みました。
渡もついに世界的な存在を前に販売を始めることに。
ただし、今回は厄介な難聴です。
はたしてポーションに効果はあるのか。
次回!『マリア・グラーシェの来日 後』お楽しみに。
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