第52話 仮縫いとモイー卿の到着の噂

 小雪に温泉の素を販売した後、渡たちは異世界に来ていた。

 バックに仮縫いの調整をしてもらう必要があったためだ。

 仕立て屋によって、仮縫いはまったく別の生地を使うことが多かったり、最初から本番用の生地を用いたりとやり方は異なる。

 多いのは、仮縫い用に柔らかい生地、あるいは紙を用いる方法だ。


 バックの場合も例に漏れず、工房に置いているであろう仮縫い用の生地を使って、渡に製作途中のスーツに袖を通すことになった。

 仮縫いと言っても、本番さながらで作らないと、試す意味がない。

 そのため現時点でもどのような形になるのかはおおよそ分かった。


 体にピタリと添う様なクラシックスーツとは違い、どちらかと言えばモードスーツに近い。

 肩回りが大きめに作られて芯が入っている。

 あとは、この世界の人は乗馬の必要があるためか、背中の真ん中の切れ目、センターベントが深めに入っていた。

 袖は急な戦闘に耐えるためか捲り上げられるようだ。

 全体的に布地をたっぷりと使って、ゆったりとしたサイズになっている。


「ふむ、腕を上げて。反対も。後ろに。そう。いいね」

「すでに結構いい感じだと思うんですけど、これって調整の必要あるんですか?」

「君はフルオーダーの経験が少なそうだな」

「俺はついこの前まで貧乏人だったんです。仕立てなんて初めてですよ」

「まあ完成を楽しみにしていなさい。人がわざわざ高い金を出して、手間暇をかけて作る理由が分かるはずだよ」


 バックの態度には余裕を感じさせて、まだまだこんな物ではないのだな、と予感させた。

 これは完成が楽しみだ。

 いったいどんな着心地になるというのだろうか。


 前回は夜になるまでかかった採寸だったが、今回はまだ日が落ちるまでに終了した。

 前回の襲撃のことがあるから、早めに帰ろうとする渡たちに、バックが言う。


「そういえば、新しい領主がこっちに来てるみたいだよ。うちの組合で話題になっていた」

「あっ、そうですか。ついに」

「これまでは代官が治めてたわけだが、どうなることやら」

「お膝元の月見ヶ丘の統治は優れたものでしたよ。ここは流通の要になるでしょうし、これから盛り上がっていくんじゃないですか?」

「へえ、よく知ってるね」

「少し縁があって。親方も忙しくなりそうですね」

「はっ、ウチはゆっくりするさ。それか弟子に全部振っちまおうか。ねえ?」


 バックは鼻で笑った。

 仕事に今でも困っていないし、高齢のバックからすれば忙しくなりすぎるのも嬉しくないのだろう。

 勘弁してくださいよ、と他の職人が不満そうに声を上げ、バックが楽しそうに笑う。

 親方と弟子の心が通い合った、良い職場そうだ。


 〇


 正体不明の襲撃者たちの気配はないのか。

 エアとクローシェはかなり警戒して周囲を見渡していたが、それらしい存在は見つからなかった。

 日が落ちる前にと、できるだけ速足に職人通りを歩く。


 すれ違うのもギリギリの細い通りで、石畳は欠けていたりと、足元は不確かだ。

 これなら古い安アパートの廊下の方がまだ歩きやすい。

 前回は真っ暗な中よく歩こうとしたものだと、改めて渡は思った。


「クローシェ、臭いは?」

「ありませんわ。お姉様こそ、物陰や透明化の気配は」

「ない。前回の遭遇はたまたまだった?」

「それかわたくしたちを油断させようとしているだけかもしれません」

「ありえる。主、次は左に曲がって」

「分かった」


 普段なら裏通りはできるだけ歩かないようにしているが、エアとクローシェが揃ってからは、たまにわざと裏通りに入る時がある。

 人通りが少ないために尾行を撒きやすいのだという。

 その分、別のならず者から襲撃される恐れもあるが、その辺りの警戒はエアたちが事前に察知しているようだった。


「ここまで来たらひとまず大丈夫か?」

「そうですね。さすがに往来で襲われることはないでしょう。エアとクローシェが警戒してくれていますし」

「いい加減、この警戒態勢で落ち着く度胸が欲しいよ」

「慣れすぎると油断に繋がる。主には万が一でも危険な目に遭ってほしくない」

「そういう時が一番危険ですわ。油断大敵ですの」


 緊張状態が続くと疲れてしまうのだが、しばらくは我慢するしかないのだろう。

 一度モイーに相談してみるのも手かもしれないな、と渡は思った。


「しかしモイー男爵……今はモイー卿か。こっちに来てるんだな。挨拶しておいた方が良いんだろうなあ」

「それはもちろんですよ。御用商人となったからには挨拶は欠かせません。それでなくても先日お世話になりましたし」

「そうだよな。万華鏡はもう買っておいたから、また別の商品を持っていくか」


 蒐集家としては破格の資産家でもあるモイーのことだ。

 気に入れば大金だったり、貴重な情報や代物と交換できる可能性があった。

 ちなみに今最優先で欲しいのは変身の装身具だ。


――――――――――――――――――――――――――――

さて、次回はモイー万華卿との久々の交渉です。

これまで多くの読者が「次はこれが?」と予想していただいていて、ネタばれになるのでお答えできなかった品が明らかに。

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