第35話 若井満の復活

 喉を潰してから、八年もの歳月が過ぎた。

 かつて三十代だった満も、今年で四十の大台に乗ってしまった。

 才能ある新しい若手が次々にヒットしていき、満のような活動できていない音楽家は忘れられていく。

 曲の流行も変わり、自身の感性も古びていく。


 それでも最前線で戦っていれば、応援し続けてくれるファンたちが残ってくれる。

 もはや満にはその固定ファンすら残っていなかった。


 それでも、喉さえ治れば、もう一度復帰できるはずだ。

 再始動してもう一度ライブを、沢山の聴衆と一緒に、素晴らしい時間を。

 その思いだけに突き動かされて、満は大阪へとやってきた。


「ごごが……」


 待ち合わせ場所として呼ばれたのは、まさかのカラオケボックスだった。

 ポーションを飲んだ直後に、自分の喉の状態を確かめたいだろう、という渡の配慮だった。

 個室で他者から何をしているか分かりづらいというのも考えられていた。


 予約されていた部屋に入ると、パーティー用の大きな一室だった。

 若い男が一人、女が三人いて、満の到着を待っている。

 スピーカーからは曲の入っていないために『UTAチャンネルへようこそ!』と呼びかける声が流れていたが、吸音材に吸われてどことなく寒々しい。


「若井さん、はじめまして。堺です。今日はよろしくお願いします」

「ばじめまじで。若井でず」


 こうして初対面の人と挨拶を交わすのが、一番緊張する。

 普通では聞かないような声に驚き、一瞬動きが強張るのが分かるのだ。

 だが、渡は事前に聞かされていたからだろう。

 まったく反応を見せず、にこやかに笑顔を浮かべていた。


「今日はお会いできて、また若井さんの復活に立ち合えて光栄です」

「医者にも治らないど見放ざれだ僕が、もう一度歌えるようになる日が来るどば思っでもいまぜんでじだ」

「症状の程度によっては、一本で治りきるかどうか分かりませんが、これまでは総ての方が一本で改善を見せています。こちらです」

「ごれが……?」

「ええ。うちが提供する飲み物・・・です」


 医師法や薬機法に触れるため、薬ではない。

 そういう前置きをした上で、ごくごく内密に販売されていると聞いて、最初は疑わしい気持ちもあった。

 そんなに凄い薬なら大々的に売り出せばいいはずじゃないか。

 どうしてこんなにコソコソと売っているのか。


 そんな気持ちと、でも秘薬というのはそういうものなのかもしれない。

 一部の上流階級だけが知っている、特殊な治療法が存在するのかもしれない、という期待もある。


 そして、何としても治したい満としては、期待が上回った。

 すでに標準治療では匙を投げられた身だ。

 治る方法があるのならば藁でも掴みたい。


 それに紹介してくれた遠藤亮太からは、過去にも多くの人が治っていると推薦の声を貰っている。

 そう考えると、そんな優れた治療を提供する渡は相当のやりてなのだと思えた。

 こちらを見ている姿にも自信が満ちて見える。


「振り込みが確認でき次第、すぐに飲んでいただいて結構です」

「わがりまじだ」

「確認できました。購入ありがとうございます」


 事前に送られていた口座に振り込む。

 貯蓄はあるとはいえ、これで治らなければ稼ぐ当てもない。

 高級な機材や車でもなければ使わない金額に、一瞬手が震えた。


 満がポーションの蓋を慎重に引き抜く。

 琥珀色に輝く液体はわずかに粘性があって、チャプチャプと音を立てる。


「飲まれないんですか?」

「ううん。飲むよ。ただ、怖いんだ」


 本当に治るのか。

 いや、治ってほしい。治ってくれ。


 瓶に口をつけた満は、目を閉じた。

 口の中をポーションが満たしていき、飲み込んだ。

 喉へと流れていく。


 ぽうっ、と満の体が、喉が光った。

 骨折後完全には戻らなかった軟骨が、これまでの過酷な環境で傷ついた声帯が回復していく。

 なんとなく体に温もりが生まれた気がした。


 光が収まったのを確認した渡が、声をかけた。


「喉の調子はどうですか?」

「―――――」

「どうしました? 声が出ませんか?」


 渡に聞かれた満は、しかし顔を横に振った。

 すぐに返答することができなかった。


 ……怖い。

 一度は医者に宣告されて、治らないものだと諦めていた。

 なのに、なまじ期待を抱いただけに、これで良くならなければ、もはや一生治ることはないと、再び絶望を突きつけられてしまう。


 そう思うと、喉が詰まったようになって、声が出なかった。

 渡の表情が緊張していくのを見て、ますます怖くなった。


 そんな満を見ていたエアが、ぽつりと声を出した。


「ダメならダメで、さっきの声で歌えばいいじゃん」

「こら、エア! 失礼だろう」

「だって、あんな声きっと世界で一人だけだよ。アタシは嫌いじゃなかった。それはそれで、曲によったら魅力だと思う。それを売りにすれば良いんだから、心配せずに声を出して」

「ふふ、そうだね。…………声がっ」

「戻ってますね!」

「なーんだ。良かったですね」


 渡が嬉しそうに笑った。

 満は思わず喉を手で押さえた。

 戻っている。治っている!!


 満は再び声を出す。

 調子を確かめるように、ゆっくりと、慎重に。


 割れ鐘の声ではなく、甘く伸びやかなハイトーン、低音が包み込むように太く、高音がキンキンと響かない。

 伴奏もなしに、うっとりとするような声と歌唱力だった。


「あー! あ_あ― ̄➖! 出る! 戻ってる!! Lalalalalaー」


 様々な音域を、細く、あるいは太く、エッジを効かせて。

 色々な歌い方で、声を試していく。


 つうっと、満の目尻から涙が流れた。

 もう一度、歌える。

 再起のチャンスを得られた。

 思ったように出る自分の声に、気づけば感動していた。


「ありがとう……。君は恩人だ」

「俺はたまたま役に立てる商品を持ってただけですよ。若井さんの復活に立ち会えて嬉しいです」


 感謝から、満は深く深く頭を下げた。

 いくら下げても足りないと思えた。


 声の調子を確かめて、全盛期を取り戻したのが分かった。

 いや、前以上に楽に出るようになっている。

 普通は年齢とともに高音は苦しくなるはずだが、かつての最高音hihiAを出しても、まだ余裕があった。


「前よりも楽に高音が出るようになってる。これはどういうことだろう?」

「たぶん、それは若井さんがボイトレとかを一生懸命にされていたからじゃないですか。喉がつぶれて苦しかったかもしれませんが、その時に苦労したことが、今に繋がってるんだと思います」

「そうか……。無駄じゃなかったか」

「しなくていい苦労だったかもしれません。でも、まったくの無駄じゃなかった」

「……ありがとう」


 時には自殺すら考えた苦しみも、繋がって今がある。

 涙を流し、鼻声になってしまったが、満は礼を言った。


「良かったら今すぐ歌ってみませんか? 俺、若井さんのファンなんですよ。聴かせて下さい」

「ああ。復活最初の聴衆は、君たちだけだ」


 どこにでもあるカラオケボックスで、誰もが聞けない生歌を聞いた渡たちは、後日亮太から激しく詰られることになるが、とても有意義な時間を過ごすことになった。


 後日、若井満のカムバックステージが開催され、非常に大きな話題となる。

 かつての名曲の数々に加えて、『奇跡』『あの時をもう一度』といった新曲も披露され、オリコンチャート一位や紅白歌合戦など、その歌声の魅力を充分に発揮した。

 その最前列には以前から親交のあった野球選手に加え、渡とマリエルたちの姿も見られたとか。


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遅くなりました。

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