第34話 若井満の挫折
遠藤亮太は優れた野球選手だ。
だから、知り合いにプロの格闘家がいても、アスリート繋がりなのだろうとなんとなく納得できる。
だが、どうやって若井満と知り合ったのか、そして渡に紹介するぐらいに親しくなったのだろうか。
そんな渡の疑問は、軽く教えてもらうことができた。
「若井さんは先輩から紹介されたんだ。あの人、野球が好きらしくって、観戦だけじゃなくて草野球チームにも所属して、結構マジメに取り組んでるらしいんだ。結構野球に興味があったり、自分でもやってる人って多いんだぜ」
「そうなんですね。まあ野球って言ったら日本じゃ一番有名なスポーツの一つですもんねえ。俺もファンだから、会えるって分かってちょっとテンション上がってます」
「俺も若井さんの曲は知ってたし、一緒に食事も取ったよ。渡も会ったら分かると思うけど、声を聞いたらビックリすると思う。でもあんまり反応しないように気をつけてほしい」
「どういうことですか?」
「声を聞いたら分かるよ。あの綺麗な声がガラガラに割れて、面影もないんだ。何としても治ってほしいと思って、渡に紹介したんだ」
少し沈んだ亮太の声を聞いて、渡も事態の深刻さを理解した。
歌手は喉を痛めたり、難聴に悩まされることが少なくない。
また世界的に高名な歌手がメンタルをやられて休業したり、時には自殺を図ることもある。
華やかに見える世界の裏側は、意外と地味で大変だ。
有名なアスリートと触れ合うことで、渡もその辺りが感覚として分かるようになってきた。
「俺も渡に救われたからさ、若井さんも頼んだぜ」
「俺は医者じゃないから約束できないけど、効果が出るように精一杯頑張ります」
「おう。で、若井さんが治ったらライブに行こう。俺、あの人のライブに行きたかったのに、自分のお金で行ける時にはもう活動してなかったんだよ」
「俺も治したお礼に良いチケット貰えないかな……。治療効果が出たら、ダメもとで頼んでみよう」
「あっ、ずるいぞ。その時は紹介した俺のことも忘れないように言ってくれ」
「えー、どうしようかな」
「渡!!」
ポーションの効果がどこまで幅広いのか分からないが、渡の祖父母のように軟骨が再生するなら、喉の故障もきっと良くなるはずだ。
一刻も早く治ってほしいと、心から思った。
〇
――ゴリッと喉から嫌な音がして、その後息もできないほどの激痛が走ったんだ。
八年前の、春のことだ。
その日、満は野外ライブのデモンストレーションをしていた。
全国ツアーの中盤、北は北海道から、南は福岡まで、観客はいつも満員。
この時三十二歳の満は、疲れてはいてもやる気も十分だった。
やせ型の長身で細い体のどこにそんなパワーがあるのかと驚くほどの声量。
マイクを体から大きく離しながら、本番さながらの気合で歌い上げていく。
調子は良かった。
長く伸ばした髪を揺らし、汗を流しながらステージを走る。
パフォーマンスで組まれた足場に踏み込んだ時、ボルトの締まりが明らかに甘かったことに気付いた。
まったく反発がなく、気付いた時にはすべてが遅かった。
満の体は崩れた足場に吸い込まれて転倒する。
その上から、組み上げられた足場が崩壊して、照明や柱が次々に倒れてきた。
その内のいくつが体に降りかかったのか分からない。
満はその時に意識不明に陥るほどの重体になった。
病院で目が覚めてからが地獄だった。
ひどい痛みに悩まされていたのは、まだ仕方ないと諦めがつく。
だが、喉や上・下顎骨、蝶形骨といった発声に重要な骨が激しく傷ついていたことを、医者から知らされた。
医者のできるだけ寄り添おうとする、痛ましそうな声が忘れられない。
「おそらく、以前のように歌うことはできないでしょう」
嘘だろう、と信じられなかった。
だが現実だった。
喉の激しい痛みも、唾を飲み込むとき、食事のときに感じる違和感も本当だと言っていた。
それでも実際に声を出してみるまでは、医者の見当違いで、また元のように歌えるはずだと思っていた。
思いたかった。
安静にして、久しぶりに出した自分の声は、別人のものかと思うほどに響きが変わっていた。
どれだけコントロールしようとしても、叫ぼうとしても、以前のような澄んだ声は出なくなっていた。
割れ鐘のような耳障りの悪いガラガラ声に、もはやかつてのようには歌えないことを悟った。
嫌だ。
やめてくれ。俺から声を奪わないでくれ。
思わず人目もはばからず涙が出たが、そんな泣き声ですら自分を追い詰めた。
設営会社から多額の賠償金は支払われたが、お金の問題ではなかった。
歌うことは自分の生きがいだったからだ。
歌えなくなった歌手に何の価値が残るのか。
一縷の望みをかけて、必死にリハビリを、ボイストレーニングをした。
以前よりもよほど体の使い方、発声の仕方について経験と知識は積めたはずだ。
今の声なりの歌い方も身に付けたが、録音から流した自分の声に絶望は募るばかりだ。
それに、聴衆が求めている歌声は、変わってしまった今の声ではない。
記憶に残るかつての声だった。
必死にトレーニングして、聞いてくれと叫びあげたところで、前と比較されるばかり。
調子に乗ってたんだろうか。
子どもの頃から誰よりも歌が上手い自信があった。
神の声なんて言われて謙遜しながらも、自分の声は特別なのだと思っていた。
だからこそ、その声を奪われた自分に、価値が見出せなくなった。
生きている意味があるのか……。
自殺も考えた満だが、死ぬこともできなかった。
ただ生きているだけ。
少しずつ人々から忘れ去れて、かつてこんな凄い歌手がいたんだ、と昔の話になりかかった満のもとに、一本の電話がかかる。
「本当に、俺の声が治るのか?」
歌いたい。
もう一度、かつての声で。全力で。
全身全霊で歌うから。
治したい。
その声は震えていた。
――――――――――――――――
注:登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
どなたかを連想したとしても全くの別人です。
本編とまったく関係ない雑談で申し訳ないですけど、Steel heartの『She’s gone』って曲とクリスタルキング『大都会』っていい曲ですよね。聴いたことない人はぜひ一度聴いてほしいですね。
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