欺瞞

 海外ではピットブルという、なかなかに躾が難しい犬種が良く飼われていて、飼い犬に手を噛まれるより恐ろしいニュースが時折、耳に入ってくることがある。自分の制御下にあると思われた存在からの謀反は、ひとえに驚くばかりだろう。


「ドッペルゲンガーの仕業か」


「はい?」


「もしドッペルゲンガーが存在したとしたら、今居る人類のうち、どれくらい消えずに残っているのか不思議に思ったんだ」


 私の脈略のない疑問に、彼は心底嫌な顔をした。学生の身分ながら、私が絶大な信頼を寄せる相棒であり、向こう水な蛮勇に一目惚れしたのだ。


「また随分、阿呆な想像をしますね」


「馬鹿げているか?」


「……急に何なんですか」


 彼の困惑を引き出したのは紛れもなく私だが、この荒唐無稽な話の出自は、彼が首に巻くマフラーから来ている。


「君が巻いているそのマフラー。まるで狐の尻尾のようだね」


「どういう……」


 混迷を極める彼に、私は件の話をつらつらと語った。


「ある人物の取り巻く環境が、コインが裏返るかのような激しい変化を遂げた。例えばそれが敵意ならば、好意に変わる。その人物は、他人から虐げられるような立場にあり、上記の変化は誰が見たって不自然な光景になる」


 私の話を興味深そうに傾聴する彼は、一語一句を聞き逃すまいと、腕組みに肩を吊り上げる並々ならぬ好奇心を湛えるものだから、舌は益々熱を帯びた。


「中身が丸々、すり替わってしまったかのような薄気味悪さに、私は祓い屋として呼ばれた。ただね、これがまた厄介で、原因となり得る代物は見つけたが、未だに浄化出来ずにいるんだ。今、君が悪戯に首に巻いてる、それなんだけど」


 怪談じみた締め括りに、彼は首に巻いた狐の尻尾をすかさず外し、あろうことか来客を迎える椅子に投げ捨てる。


「おいおい、乱暴だなぁ」


「そんか大事なことを勿体ぶる貴方が悪い!」


 彼の言い分は最もだ。私だって驚かせるつもりで話し始めた訳ではない。曰く付きの代物の啓蒙に口を動かしていた私も、つい魔が差して、結論を少々、先延ばしにしたきらいがあった。


「でも、浄化出来ないって、そんなこと……。トミノさん、まさか貴方」


 懐疑的な眼差しに晒されて、私は彼の思考を先回りした。


「いやぁ、それがなかなかどうして。私は私だと証明出来るものがない」


 面倒な事になったと、彼は深い溜息を両手の皿に落とす。このうだつが上がらない感覚は、相棒を持ったからこそ生まれる新しくも、苦々しい経験である。


「まさか、あんなものが人から生えていたなんて、世の中やはり奇妙だ」


 あまりの不甲斐なさから、どうにか失態を和らげようとしたものの、不肖なる座持ちに言葉は空々しい。


「とりあえず、燃やしましょう。置いておくのはマズイですよ」


 彼の行動力を買ったのは紛れもなく私だ。しかし、慎重になるべき場面を見誤り、危険を犯すのは、私の監督責任にも繋がる。そう易々と彼の意見を飲めるはずがない。


「君の言う通りだ。でも、思い出してごらん。葛城君が燃やした三咲ちゃんの手紙を」


「……」


「情念に貴賎はないが、これほど現実に影響を及ぼす代物を燃やすとなれば、反発は想像し難い」


 彼の顔や腕に残った火傷の跡は、生涯付き合っていくものであり、私が招いた悔恨の痕跡だ。そして今回、火傷では済まない予感に手触りすら感じている。


「トミノさん、撤回させてもらいます。ついさっき、阿呆だと罵りましたが、仮にこの尻尾が世界をひっくり返すかもしれない、未曾有な原因となるならば、俺たちは決死の思いで阻止すべきです」


 彼が何かを選択する時、牢とした胸に秘めたる楔らしきものが伺える。彼を相棒にする際も、なかなかに骨が折れたし、頑然な身持ちを絆すには「三咲ちゃん」の名前を出すのが効果的だった。しかし今回、狐の尻尾を浄化するかどうかの話し合いに於いて、彼の提案に楯突く方法が見つからなかった。私は、貯蔵していたタールの壺を棚から取り出す。


「俺に燃料を燃やし尽くされたと悪態をつきましたけど、ライターの燃料に不足は?」


「これまで数え切れないほど、仕事をこなしてきたからな。溜まりに溜まったさ」


 人の数だけ情念はあって、燃料の枯渇は太陽が燃え尽きる未来を考えるような途方もないことだ。よしんば私が生きている間に暇が訪れたとしたら、それは人類の消失を意味する。

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