#1-4_otogiri_tobi/ 動けなくなってしまうよ(1)

 久しぶりだ。

 兄が夢に出てきた。

 そこは知らない場所だった。

 知らない、と思う。

 壁も天井も真っ白で、いやに明るい。でも、窓はない。部屋なのか。それとも、廊下だろうか。

 飛は走っていた。

 転んでも、すぐに起き上がる。また走りだす。

 走らないと。逃げなきゃいけない。何かが追いかけてくる。何か。何が。何だ?

 振り向くなんて、できない。そんな暇はない。逃げないと。とにかく一生懸命、逃げないといけない。

 そうしないと、つかまってしまう。

「つかまえた!」

 突然、かっさらうように何かが飛を抱え上げた。

 何か。

 何が。

 何だ?

 とびは逃げようとする。必死で兄を振りほどこうとしているのに、全然だめだ。

「つかまえた」

「つかまえたよ」

「飛」

「つかまえた!」

 飛をつかまえたのは兄だ。兄が笑いながら飛を抱きすくめている。兄は飛よりずっと大きい。飛が小さすぎる。飛はまだ子供だ。全力で暴れても、飛の上半身をがっちりと締めつけている兄の両腕はびくともしない。それでも、逃げないと。飛はどうにかして逃げないといけない。それだけはわかっている。腕は封じられているから、飛は激しく身をよじる。両脚をばたばたさせる。兄の顎に頭突きする。

「いてっ。痛いって。いたたっ」

 兄は、痛い、痛いって、とさかんに言いながらも、やっぱり笑っている。

 なんて力だ。こんなに力が強いなんて。

 それとも、飛が弱いのだろうか。非力すぎるのか。

 兄は白い服を着ている。

「放して」

 純白の服が赤く汚れてゆく。

「だめ」

 血だ。

「放してよ」

 誰の血だろう。

「だーめ」

 飛の血なのか。

「放して、お願い」

 兄の血か。

「つかまえちゃったからね」

 兄は笑っている。

「だめだよ、飛。放さない」

 いつしか飛は泣いている。逃げなきゃいけないのに、どうして兄は止めるのだろう。なぜわかってくれないのか。変だ。おかしい。お兄ちゃん?

 なんで?

「しーっ」

 どうして僕をつかまえて放さないの?

 苦しいよ。

「静かに」

 放して。

 ねえ、お兄ちゃん。

「おとなしくするんだ」

 こんなの、お兄ちゃんじゃない。

「静かに」

 お兄ちゃんはこんなことしないよ。

「大丈夫」

 そうでしょ?

「大丈夫だから──」

 たくさん泣いた。

「大丈夫だよ」

 泣いて、ずいぶん暴れて、もう疲れてしまった。

「大丈夫」

 兄は何度も何度もささやいた。

「大丈夫だから」

 決してとびを放さずに囁きつづけた。

 兄が背中をでている。

「大丈夫……」

 飛は暴れるのをやめた。

 兄が繰り返す。

 大丈夫だよ。

 大丈夫。

 大丈夫だからと、何回も、何回も。

 兄の夢を見た。

 知らない場所に、もしかしたら覚えていないだけで、知っているのかもしれない場所に、飛がいて、兄もいた。

 目が覚めると、施設のベッドの上だった。

 カーテンの隙間からのぞく空はまだ薄暗い。額に痛みを感じた。

 兄に頭突きしたからだ。

「違う──」

 あれは夢だ。

 とびは右手で額をさわってみた。痛くなんか、ない。

「……お兄ちゃん」

 飛は父も母も知らない。生まれたからには両親がいるはずだ。でも、記憶にない。飛は兄しか知らない。

 あの日、飛を置いて消えた兄しか。

 いや。

 そうじゃない。

 二人は逃げていた。誰かに、何かに追われていた。兄は撃たれた。をしていた。飛はまだ幼かった。もう走れなかった。だから、しょうがなかった。兄も断腸の思いだったに違いない。飛を隠れさせて、兄は、おとりに──そうだ、隠れた飛が見つかってしまわないように、銃をぶっ放すような恐ろしい追っ手をおびせようとして、兄は一人で行った。飛のために。飛を思ってのことだ。

『ここに隠れてろ』

 兄は飛にそう言い聞かせた。

『いいって言うまで、じっとしてるんだ。わかったね、飛? 約束して。絶対に、声も出しちゃだめだ』

 飛は兄と約束した。それなのに、守らなかった。兄が戻ってくる前にあの場所から出てしまった。待っていなければいけなかったのに、飛は約束を破った。

 兄を裏切ってしまった。



 靴箱で靴を履き替えて、教室に向かおうと階段を上がっていたら、背中をつつかれた。

「うっ──」

 驚いて振り返ると、しらたまがいた。白玉は例のチヌラーシャを潜ませたポシェットを肩に掛けている。笑顔だった。

「おはようございます、おとぎりくん」

「……おはよう。え? 何……?」

「何、とは?」

「つつかなかった? 今──」

「つんつん?」

 白玉は右手の人差し指で空中をつついてみせた。

「はい。しました。あっ。つんつんは禁止でした?」

「……や、禁止ってことはないけど」

「不快だった?」

「べつに、不快とかじゃ……」

「もう二度としないほうがいい?」

 また突然つんつんされて、びっくりしたくはない。かといって、二度とするな、と言い渡すのもなんだか気が引けた。

「まあ……急だと、ちょっとあれかな。場所が階段とかだと、とくに。微妙に危なかったりするかもだし……」

おとぎりくんなら、大丈夫」

 しらたまはどういうわけか自信たっぷりに言いきった。

「……え? なんで?」

「鉄棒、すごかったもの。運動神経が抜群。多少のことでは階段を踏み外したりしないはず。昨日、き忘れたけれど、何かスポーツでもやっているんですか?」

「スポーツ……は、やってないけど」

「何も?」

「体育の授業以外では、ないかな」

「ただの一回も?」

「……ないってば」

「わたし、小学生の頃、陸上部に入りたかったんです。あと、ダンスも習いたくて。でも、運動神経があまり──」

 朝っぱらから階段の途中で、何の話を聞かされているのだろう。

 白玉と口をききたくない。そんなふうには思っていないが、正直、人目が気になる。あいつら何、階段で話してるの、みたいな目で見られているので、居心地が悪い。

 ここでなければいい。他の人がいない場所で、とびと白玉だけなら問題ない。二人きりがいいということではなくて、もちろんバクと、それからチヌラーシャはいてくれていい。

 ふと思った。

 だけど、兄を捜さなくていいのか。

 途端に飛の胸がうずいて、いやな汗が出てきた。捜していないわけじゃない。ずっと折にふれて捜してきた。見つからないだけだ。手がかりもろくにない。それに、ここは学校だ。兄を捜そうにも捜せない。

「──弟切くん?」

 白玉が首をかしげた。上目遣いで飛の顔をのぞきこんでくる。

「どうかしたんですか?」

 飛は頭を振った。

「べつに」

「そう?」

「……どうもしないよ」

 とびは階段を上がりはじめた。

 体が、というよりも心が、しびれるように震えている。この感覚は久々だ。ここ何年か味わっていない。その前はよくあった。

 兄を捜さないと。そう思うだけなら、こんなふうにはならない。

 不安に駆られた時、ひどくなる。

 兄は大丈夫だろうか。無事なのか。

 ひょっとしたら、捜しても意味がないのかもしれない。

 兄はもういない。

 地上のどこにもいない。

 どれだけ捜しても無駄だ。

 きっと、飛が約束を守らなかったからだ。

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