#1-4_otogiri_tobi/ 動けなくなってしまうよ(2)

 しらたまと話すようになった。飛にとってはそれが最大の変化だ。もっとも、変わったことは他にもある。

 以前は授業中にこうして教室を見回したりしなかった。誰がどこで何をしていようと、どうでもいい。飛は自分自身とバク、そして兄の行方ゆくえにしか興味がなかった。

 ただ同じ学校に通っている。たまたま同じクラスになって、同じ教室にいる。同級生といっても、それだけの人たちだった。

 同じ中学二年生ではあるものの、住む世界が違う。飛はそんなふうに感じていた。共通点がほとんどない。ゼロではないとしても、ものすごく少ない。

 つい、白玉に目を向けてしまう。

 白玉はだ。たいてい教師や黒板を見ていたり、ノートをとるために机に目を落としていたりする。熱心に教師の話を聞いて、時々考えこむ。うなずくこともある。

 例のポシェットが白玉の机に掛かっている。あのポシェットの中で、チヌことチヌラーシャはどうしているのだろう。授業中、バクはけっこう退屈らしい。チヌはどうなのか。

 バクとはずっと一緒だ。いて当然の存在だから、バクについてあらためて思案することはほとんどない。

 でも、飛はチヌと出会ってしまった。

 チヌはバクのようにしゃべったりはしないようだ。バクとは違う。

 バクは普通の人たちにもとして見えるが、チヌはまったく見えないらしい。

 バクの声はとびにしか聞こえない。そのはずだった。例外が現れた。

 しらたまだ。

 チヌの鳴き声も、飛と白玉にだけ聞こえる。

 バクとチヌは同じではない。けれども、似ている。

 飛と白玉は似ても似つかない。目に見えてずいぶん違うのに、どこか似通っている部分があるのだろうか。二人の間に何らかの共通点があるのか。

 飛は斜め後ろを見やった。まさむねことまさしゆうじは、今日も短い髪をかっちりセットしている。その頭の上に座って「言わざる」のポーズをしている、あの生き物──樹皮めいた肌のメガネザルのようなは、いったい何ものなのだろう。

 飛と白玉にしか見えていない。おそらく、正宗自身も気づいていない。

 それとも、正宗は気づかないふりをしているのか。

 頭の上にがのっかっているのに、誰も、何も言ってこない。どうやらみんなには見えていないらしい。それで、自分も見えないことにしている。おまえには見えないかもしれないが、いるんだ、ここに、が。そんなふうに打ち明けたところで、信じてもらえるわけがない。もしそうだとしたら、正宗も飛や白玉と同じだ。

 正宗にもバクの声が聞こえている。その可能性も否定できない。たまに授業中、バクの声がしても、みんな聞こえていないようだし、正宗も聞こえないふりをしている。

 白玉だって、バクに気づいていたのにもかかわらず、最近まで知らんぷりをしていた。正宗も同類なのかもしれない。

 飛は天井を仰いだ。それから、今度は斜め前に視線を向けた。

 隣の列の二つ前の席に、こんちあみが座っている。彼女の背中にしがみついている生き物は、一見、そこらにはいないとしても、どこかにいそうな小動物だ。コウモリか、モモンガか。しかし、もちろんそのどちらでもない。

 あれもまただ。

 飛と白玉にしか見えない。

 正宗はどうなのか。

 紺ちあみ自身は?

 だんだん頭が重くなってきた。

 これまで飛は、自分だけが特殊なのだろうと考えていた。見えないものが見えて、聞こえない声が聞こえる。おとぎり飛は普通じゃない。

 白玉もずっとそう思っていたようだ。自分は他の人たちとは違っている。白玉りゆうこは普通じゃない。

 間違いだった。

 飛だけでも、白玉だけでもない。

 一人じゃなくて、二人。

 この二人だけなのか。果たして、とびしらたまだけなのだろうか。

 二人いるなら三人、四人いたとしても、不思議じゃない。

 たとえば、まさむねこんちあみは?

 保健室登校をしているというしずくだにはどうなのだろう?

 他の学年、他のクラスにも、を連れた生徒はいる。ちゃんと数えたことがないから正確な人数はわからない。でも、この中学校だけで十人以上はいるはずだ。

 を連れていても、見えない、聞こえない者と、飛や白玉のように見えて、聞こえる者とがいるのか。あるいは、実は皆、見えているし聞こえているのか。普通を装うために、見て見ぬふりをして、聞こえないことにしているだけなのか。

 飛は右手で首筋を押さえてため息をついた。こうやっていくら考えを巡らせても、はっきりとした答えは出ない。本人にくのが一番だ。

 正宗や紺に?

 どう尋ねればいいのか。飛は二人と話したこともない。白玉はどうか。

 白玉は礼儀正しいし、愛想もいい。なんとなくだが、同級生たちとうまくやっているような印象がある。白玉に質問してもらえばいい。二人に訊いてみてくれと、飛から白玉に頼むのか。それはそれで厄介だ。いかにも気が重い。

 疲れてきた。

 こんな時は居眠りでもするに限る。飛は机に突っ伏そうとした。その寸前だった。

 紺ちあみのがこっちを向いた。

 飛は思わず、キモッ、とつぶやいてしまいそうになった。あれはやはりコウモリでもモモンガでもない。顔が違う。同じ哺乳類でも、コウモリやモモンガよりもっと別の生き物に似ている。黒目がちでつぶらな瞳。ちょこんとした鼻。赤ちゃんだ。体はコウモリかモモンガみたいなのに、人間の赤ちゃんのような顔をしている。

「飛……」

 バクが何か言いかけた。

 後ろのほうでガタッと音がした。飛は振り向いた。誰かが立ち上がった。窓際の一番後ろの席の女子生徒だった。

「ん?」

 教師がその女子生徒に声をかけた。

「どうした、たかとも

 高友というのは女子生徒の名字だろう。高友は下を向いている。具合でも悪いのか。走ったあとのように呼吸が荒い。それだけではなく、震えている。

「高友……?」

 教師が重ねて呼びかけた。

 たかともはなんとか返事をしようとしている。でも、うまく発声できないようだ。

「高友さん」

 しらたまが席を立った。心配して、高友に近づいてゆこうとしたのだろう。

「こ──」

 高友が急に顔を上げた。ひどい顔色だった。目の下が黒ずんでいる。

「来ないで……!」

 男子生徒が小声で「……やばっ」と言った。同じようなことを何人かが口走って、教室が騒然となった。

 うるさい、やめて、と悲鳴を上げる代わりに、高友は頭を抱えた。

「おい、静かに!」

 教師が怒鳴った。でも、みんな黙らなかった。

「もう無理……!」

 高友が金切り声を発して、机や椅子を蹴倒すような勢いで駆けだした。あっという間だった。高友は乱暴に扉を引き開けて教室から出ていってしまった。教師が慌てて高友を追いかけた。数人の生徒も教室を出ようとした。すぐに教師に追い返されて、生徒たちは引き返してきた。

「マジ、何あれ? やばくね?」

「怖い怖い」

「無理とかゆってた」

「いや、むしろこっちが無理だから……」

 同級生たちがああだこうだと言い合って盛り上がっている。やばいだの、怖いだのと言いながら、なぜか笑っている者が多い。

 とびしらたまと目を見合わせた。

 白玉は眉をひそめ、唇を引き結んでいる。かなり困惑しているだろうし、高友のことが心配なのかもしれない。

 隣の席の女子生徒が白玉に話しかけた。何かしゃべっている。彼女は白玉の友だちなのだろうか。飛とは違って、白玉には親しい同級生がいる。それはそうだろう。いないほうがおかしい。飛が変なのだ。

 やがて教師が戻ってきて、高友は体調不良だとか何だとか軽く説明しただけで、授業を再開させた。二年三組の教室は落ちつかなかった。授業が終わると、みんな高友のことをうわさしはじめた。

 そのうち担任のハリーことはりもとが教室にやってきた。ハリネズミのように髪を逆立てて固めている針本は浮かない顔をしていた。問題は解決していないようだ。

 はりもとは複数の生徒に囲まれて何か話していた。その中には、しらたまこんちあみも含まれていた。

 教室をあとにする前に、針本は二年三組の生徒たちにこう言い聞かせた。

たかともはたぶん大丈夫だから。みんなはいつもどおり授業を受けて、もし何かあったら先生に教えてください」

 誰も高友が大丈夫だとは思っていないだろう。でも、白玉や紺ちあみなど一部の女子生徒を除けば、真剣に高友を気にかけてなんかいない。とびにはそう思えた。あとは男子も女子も、面白がっているか、早くも興味を失いつつあるか。そのどちらかだ。



 給食の時間になっても、高友は姿を消したままだった。

 高友の机の上にはノートや教科書が出しっぱなしになっていた。飛はそのことが気になってしょうがなかった。高友の下の名前すら知らないのに。

 今日もパン以外はほぼ瞬時に平らげた。飛はコッペパンを片手にバクを引っ担いで、さっさと教室を出た。

「あっ、おとぎりくん」

 中庭で屋上に登るルートを見定めようとしていたら、用務員のはいざきが通りかかった。

「何してるの? ていうか、まだ給食の時間だよね?」

 飛は舌打ちをした。

「また灰崎さんか……」

「そんな、またも何も。私は基本、校内をうろついてるからね。いや、うろついてるわけじゃないけどさ。やることがわりとたくさんあるから。これが私の仕事なんでね」

 灰崎は校舎の上のほうと飛を交互に見た。

「まさか、屋上に登ろうとしてた? え……? 壁とかよじ登ってたの? 今までも? それだったら、鍵が掛かってても屋上に上がれただろうけど、えぇぇ……? おとぎりくんって、フリークライミングとか得意な人だったりする? ボルダリングとか」

「……や、そういうのはべつに」

「壁をよじ登ってたのは否定しないんだ? てことは、本当に? 今まで壁伝いに外から屋上に進入してたの? もしかしたらそうなのかもって怪しんではいたけど、当たりだったってこと? え……? すごくない?」

「すごくはないと思うけど……」

「あのさ、謙遜してるところ悪いんだけど、私、褒めてはいないからね? 正直、感心はしてるけど、よくないことだから。危険なんだからね? 落ちたらどうするの。じゃすまないかもしれないんだよ。校舎は三階建てだし、なかなかの高さだからね」

「まあ、一回も落ちたことないんで」

「ひょっとして、おとぎりくん、そういう危ないことばっかりやってたりする? いや、私もね、子供の頃、雪国育ちだったし、屋根の上から飛び降りたりしたものだけどさ。積もった雪がクッションになってくれてね」

「なんか楽しそうっすね、それ」

「うん。そうなんだよ。楽しいんだよね。楽しかったなぁ。スリルがあって。だけど、あれも一歩間違えると大惨事だからね。今にして思えば、ぞっとするっていうか──」

 はいざきは不意に「そうだ」と指を鳴らした。

「弟切くん、一応、いとこうかな。屋上で誰か他の人と一緒になったこととかあったりしない?」

「屋上で?」

 とびは首をひねった。

「それは一回もないかな。僕は昼休みしか行かないけど」

「そっかぁ。だよねぇ。私、屋上も週一で見回りはしてるんだけど、人が入ったような形跡ってとくになかったしなぁ。弟切くんは入ってたわけだけどね……」

「妙なこと訊くもんだな」

 バクが不審げにつぶやいた。

「いや、それがね……」

 灰崎は言いかけて、「あっ──」と目を見開いた。

 飛の口からも「あ」と小さな声がもれた。

「……オレに答えなかったか、今、そいつ?」

 バクだ。

 飛じゃなくて、灰崎はバクを見ている。

 今、まずい、というふうにバクから目をらして飛に視線を向けた。

 でも、もう遅い。

「聞こえてる……よね? 灰崎さん、バクの声」

「なぁー……」

 灰崎はあらぬ方向を見やった。

「ん……? の? こと? か……なぁ? んん? 何だっけ……?」

「だから、バクの声」

「ばく? ああ、あれ? バクっていうと、あの? ええと……ほら? いるよね? バクって……動物の?」

「違う」

 飛は首を横に振ってみせた。

「それじゃない」

「へぇ、違う……?」

 はいざきは首に巻いてあったタオルでしきりと鼻の頭や額をぬぐった。

「やぁ、ちょっと、何だろう、だからね、うん、屋上のね、鍵がね? あれって、職員室の壁に掛けてあって、その気になれば誰でも持っていけちゃったりするんだけどさ」

「いきなり何の話だよ……」

「鍵だよ。鍵。屋上のね。いつの間にか、なくなってて。おっかしいよねぇ。昨日はあったはずなんだけど。どういうわけか、どっこにもなくてさ。私も、朝から生徒捜したり見つからなかったりで、あれだったんだけど。あ、そうだ。ほら。おとぎりくんのクラスのね、たかともさん。いないんだよなぁ。どこにも。学校からは出てないっぽいんだけど。ううん。何だろ。変だよねぇ……」

「今さらごまかそうったって、無駄な努力だと思うがな」

 バクが皮肉っぽく言った。とびもすでに確信していた。

 灰崎にはバクの声が聞こえている。

 しらたまだけじゃなかった。

 灰崎まで。

 これはどういうことなのか。

 飛は軽い眩暈めまいを覚えた。空を見上げる。いい天気だ。青い絵の具を薄めても、こんな色にはならないだろう。

 特別教室棟の屋上に人影のようなものがあった。飛は息をのんだ。

 、じゃない。

 あれは人影だ。

「……何だ?」

 バクがつぶやいた。

「えっ──」

 灰崎が屋上を振り仰いだ。間違いない。灰崎はバクの声に反応した。いや、それどころじゃない。

 特別教室棟の屋上に人がいる。

 あれはこの学校の生徒だ。制服を着ている。女子生徒だ。

 スカートが風ではためいている。

 彼女は屋上の縁にいる。

 屋上の縁の低い立ち上がり壁、パラペットの上に立っている。

 彼女の顔が見えた。土気色だった。彼女は飛を見た。ただここに飛がいることを確認した。それ以上の意味はない。そんな無機質なまなしだった。

 本当のところはわからない。

 一瞬だったからだ。

 彼女の体が前のめりになった。そこには何もないのに。彼女はパラペットの上に立っていた。前方に倒れこんだりしたら、大変なことになる。何も彼女を受け止めてくれない。落ちてしまう。

 とびはただ見ていた。見ていることしかできなかった。どうにかしないと。そんなふうに思ったかどうかも定かじゃない。

 彼女は落下してゆく。

「ちゃっ──」

 はいざきが奇妙な声を発した。

 飛は無言だった。バクが身震いした。

 彼女は落ちていった。間もなく頭が下になった。

 その体勢で、彼女は中庭に激突した。

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