#1-3_otogiri_tobi/ 天地が回る(1)
飛の席は窓際の前から三番目で、右斜め前のさらに一つ前の席には紺ちあみという女子生徒が座っている。彼女は最前列だし、熱心に教師の話を聞いたり、ノートを取ったりしているようだ。
紺のことはよく知らない。ただ、わりと真面目なのだろう。ぽつんと一人でいるような印象はない。常に何人かで行動している。
背中にコウモリのような、あるいはモモンガにも似た生き物をしがみつかせたままで。
「……まあ、オレらもアレにはとうに気づいてたんだが」
机に無理やりくくりつけられているバクが言う。バックパックなりに気を遣っているのか、一応、ひそひそ声だ。
「とはいえ、お龍のチヌとはだいぶ違って、人間にひっついてるだけだ。オレらに何かしてくるってわけでもねえし。一般人には見えねえ変なのがいるってだけなんだよな……」
バクの言うとおりだ。
それにあの手の変なのは、どこにでも、いくらでもいるわけではないにせよ、稀少というほどめずらしくはない。学校に、街中に、実のところ施設にもいたりする。
おかげで、変なのがいるくらいでは驚かない。よっぽど大きいやつだったりうじゃうじゃしていたりしたら、さすがにたまげてしまうかもしれないが、さもなければ、ああいるな、と思うだけだ。
今も驚いているわけじゃない。
気になってはいる。
飛はあまり顔を動かさないようにして、斜め後ろに視線を向けた。
その男子生徒は、隣の席の男子生徒と話してはいないものの、身振り手振りで何かやりとりをしている。
たしか、
正宗は声が大きい。動作も過剰だ。よく冗談を言って人を笑わせている。いつだったか、黒板の前で誰かと漫才みたいなことをして、教室中を沸かせていた。飛でも記憶に残っているくらいだ。クラスの中でかなり目立つほうだろう。
正宗は短くした髪をきっちりセットしている。眉毛も整えているようだし、身だしなみにはうるさそうだ。
そのセットした頭の上に、小さな猿のような生き物がちょこんと座っている。
体の大きさ的にも、メガネザルという小型で夜行性の霊長類に少し似ているが、もちろん別物だ。
メガネザルは体表が毛で覆われている。でも、あれは違う。人間の皮膚のようでもない。爬虫類の鱗に近いだろうか。あるいは樹皮だ。縦に細長く割れているスギの表皮に似通っている。
猿みたいに、あれには前肢と後肢がある。前肢の両手で口をふさいでいるのは、たまたまなのか。ずっとそうしているのだろうか。とにかく、日光東照宮の三猿、「見ざる聞かざる言わざる」の「言わざる」を思わせるポーズだ。
この二年三組で変なのを連れているのは、
割合としてはこんなものだろう。今までもだいたい一クラスに一人か二人だったし、まあ平均的だ。
ただ、ここに白玉龍子が加わるとなったら、どうだろう。
さらに、外階段でさっき白玉が教えてくれたのだが、どうやらもう一人いるらしい。
飛は真ん中の列、最後尾の席に目をやった。その席には誰も座っていない。
今日だけじゃない。いつものことだ。飛はその席に誰かが座っているところを一度も見ていない。
白玉が言うには、真ん中の一番後ろは
雫谷は一年の途中から不登校になった。その後いつからか、保健室登校をしているのだとか。進級して二年生になっても、雫谷が教室に姿を見せたことはないようだ。
白玉は一年の時、雫谷と同じクラスだった。だから面識がある。
そして、白玉曰く、雫谷も変なのを連れていたらしい。
「四人か」
バクがぽつりと言った。
見ると、廊下側の前から三番目の席に座っている白玉が、飛のほうに顔を向けていた。教師が板書していて、教室の中は静かだ。白玉にもバクの声が聞こえたのだろう。
「多めっちゃあ多めだわな。ていうか、オレがいる飛を入れたら、五人ってことになるんじゃねえの。このクラス、全部で三十六人だよな。三十六人中五人。約七分の一か。うん。けっこう多いな……」
飛はバクを蹴ろうかと思った。誰にも聞こえないからといって、べらべらしゃべらないで欲しい。というか、誰にも聞こえないわけじゃない。白玉には聞こえている。そうか。
これまでも授業中にバクが話すことはあった。何を言われても、むろん飛は無視するしかない。そこも含めて、くだらないプレイの一種というか。バクにとってはたわいない悪戯で、ちょっとした暇潰しだったのだろう。
飛だけじゃない。白玉にもバクの戯れ言が聞こえていた。すべて聞かれていたのだ。
まるで、そういうことです、とでもいうように、白玉が小さく手を振ってみせた。
飛はうっかり手を振り返しそうになった。危なかった。すんでのところで、なんとか思いとどまることができた。
飛は前に向き直って頬杖をついた。手を振る、とか。恥ずかしい。もう少しで振ってしまうところだった。振らなくて、本当によかった。
帰りのホームルームが終わると、飛はバクを引っ担いで素早く椅子と机を下げてしまう。いつものようにいち早く教室を出ようとしたら、白玉に呼び止められた。
「あっ、弟切くん」
「……何?」
「わたし、まだまだ積もる話がありまして。このあと何か予定は?」
「ない……けど。とくには……」
「それでは、申し訳ないのですが、どこかで少し待っていてくれませんか。わたしは掃除当番なので」
「……じゃあ、玄関で」
「わかりました。できるだけ早くすませます」
同級生たちが何やら妙な視線を投げてよこしている。その中には例の紺ちあみや正木宗二もいた。
白玉と飛は普通に話しているだけだ。そんなに奇妙だろうか。
奇妙だろう。
飛自身、奇妙というか、どうもしっくりこない。どうも、どころか、かなりむずむずする。たいそう気まずい。とてもじゃないが、居たたまれない。
「……あとで」
飛は短く言い捨てて、逃げるように教室をあとにした。
限界いっぱいの歩幅で早歩きして廊下を突っ切り、すごい勢いで階段を下りて、靴箱で手早く靴を履き替える。玄関から外に出ると、用務員の灰崎が緑色のじょうろを持って前庭の花壇に水やりをしていた。
「やあ、弟切くん。いつも早いね。さようなら……?」
「まだ帰らないしっ」
思わず強めの口調で言い返してしまった。
灰崎は呆気にとられている。
「え? そうなの?」
「……か、関係ないだろ」
「ああ、うん。詮索するつもりはないんだ。ごめんね」
「謝ることないじゃないか。あんたは──」
飛は舌打ちをして拳で額をこつんと叩いた。いくらなんでも、あんた、という言い方はよろしくない。
「……灰崎さんは、何か悪いことしたわけじゃないし」
「ごめん」
灰崎は、しまった、といったように顔を歪めた。
「またやっちゃった。私、前にも先輩に注意されたことがあって。何でもすぐ謝るのはやめなさいって。癖なんだろうね。いやぁ、まいったな。でも、懐かしいや。厳しい先輩でね。ずいぶん叱られたなぁ。怖くてね。いい人だったんだけど」
「……おしゃべりな野郎だぜ」
バクがぼそっと言った。飛もまったく同感だ。しかも、押しつけがましく感じないやわらかな声音で、立て板に水のごとく話すから、つい聞いてしまう。知らないし。灰崎の先輩とか。灰崎は用務員だ。その先輩だから、前任の用務員ということなのか。かなりどうでもいい。
「おっ──」
灰崎が慌ててじょうろを持ち上げた。夢中で語っているうちに、花壇ではない場所に水を撒いていたのだ。
「何やってんすか……」
「ごめんごめん。わっ。また謝っちゃったよ。今のは、だけど、謝ってもいいところかな。いや、謝るほどでもないか。アスファルトが少し濡れただけだし。すぐ乾いちゃうしね。あれ、弟切くん、帰らないの? ああ、言ってたね。まだ帰らないって。なんで? あ、立ち入ったことかもしれないし、答えなくていいから。流れでつい訊いちゃっただけなんで。ごめんね。ああっ。また謝っちゃった。こんなざまじゃ、先輩、呆れてるだろうな。全然成長できてないんだから……」
「漫談かよ」
バクが、ケッ、と嘲笑した。飛も我知らず冷たい目で見ていたようだ。灰崎は恥じ入ったように首の側面をさすった。
「口数が多すぎるのも、昔からの欠点でさ。いや、直らないもんだねえ。気をつけようとしてるつもりなんだけど。気をつけることを忘れちゃうんだよね」
「単純に頭が悪いんだけなんじゃねえの?」
どうせ聞こえないと思って、バクは気兼ねなく毒舌をふるう。
「はは……ねえ」
灰崎はきょろきょろした。首にタオルを巻いている。灰崎はそれで顔を拭いた。ごまかそうとしているかのような仕種だった。
何か変だ。飛はそう感じたが、何が変なのかはわからなかった。いずれにしても、灰崎は勤務時間中のはずだ。
「……僕のことはいいんで、仕事したら?」
「ごもっとも!」
灰崎は力強くうなずいて水やりを再開した。
「秋といえば菊だけど、コスモスもいいね。秋に咲くバラもあったりするし。あと、やっぱり返り咲きのダリアがきれいだよね。ダリア。ダリアかぁ。ああそうだ、弟切くんはどんな花が好き?」
もしかして、さっさと立ち去らない飛がいけないのか。灰崎は度を越した話し好きのようだ。そばに誰かいると、話しかけずにはいられないのだろう。
「……興味ないかな。よく知らないし」
「そっか。そうだよね。私も若い頃はさっぱりだったな。転職するまでは、かな。花なんて、咲いてるな、くらいしか思わなかったよ。でも、自分で植えたり世話したりするようになったら、俄然ね。桜なんかも、あと何回見られるんだろう、とか思ったりして」
「灰崎さんって、まだそんな年じゃなくない……?」
「きみたちと比べたら、ずいぶんおじさんですよ。自分がまさか、草花を愛でるようなおじさんになっちゃうなんてね。だけど、そう考えると、年を取るのもあながち悪くないのかな。風流を解するようになってきたわけだから。シンプルに、まだ年を取れてるってことでもあるしね」
下校する生徒が通りすぎるたびに、灰崎は「さようなら」と笑顔で声をかけた。それだけじゃない。いちいち、
「……草花とか、風流とか。何言ってるのか、よくわからないんだけど」
「私も実際、ちっともわかってなかったりします。そんなものだよね。意外とね。あっ。いつの間にかじょうろが空っぽになってる。まだ水を撒いてるつもりで、何もしてなかったってこと?」
灰崎は「あちゃー」と天を仰いでから、片手を軽く上げてみせた。
「かっこ悪い。締まらないな。私、水を補給してくるので。他にも仕事が色々残ってるし。またね、弟切くん。さようなら。いや、まだ帰らないんだったっけ。ごめんね。うわ。謝っちゃった……」
灰崎をよく叱ったという先輩とやらの気持ちが少しわかるような気がした。
飛は校舎のほうへ向かう灰崎の後ろ姿を見送りながら、ため息をついた。
「……何なの、あの人」
「けったいな野郎だな。けど、めずらしいんじゃねえか。飛があんなに人と口きくのは。いや? お龍とはくっちゃべってるか。最近、オレ以外ともずいぶんしゃべってるってことだよな。あの飛がなァ」
飛はストラップを肩から外してバクをぶん回した。
「おぉーいこらッ! よよよ、よせッ! 目が回る! やめろって、馬鹿……!」
目を回すバックパックがどこにあるだろう。だいたいバクに目があるのか。どうも物を見ているようだ。ということは、ないわけじゃないのか。
「一番けったいなのはバクだし……」
飛は小声で呟いてバクを背負い直した。
「こんなとこで、人目もはばからずにバックパックをぐるぐるぶん回すおまえにはかなわねえよ」
「もっと回そうか?」
「マジでやめろ」
「それ、フリってやつ?」
「だから、違うっつうの! 回すな。回すなよ。絶対、回すな。回したら承知しねえぞ。回すの絶対禁止な!」
しばらくすると、校舎の玄関から白玉が出てきた。すぐに飛を見つけて、小走りに近づいてくる。白玉はスクールバッグとは別に、チヌラーシャを潜ませている例のポシェットを肩に掛けていた。
「お待たせしました」
「……まあ、わりと早かったんじゃない」
「掃除、全力でがんばったので。少し汗かいちゃった」
白玉はもともとかなり色が白い。そういえば、頬がいくらか上気している。額はわずかに汗ばんでいるようだ。
見てはいけないものを見てしまったように思えて、飛は横を向いた。
「……あの、行かない? どこ行くのかって話だけど……」
「目的地があったほうがいいでしょうか」
「ないよりはね」
「ううん……」
「行きたいとことか、もしあれば」
「弟切くんは?」
「僕は、べつに……」
「つまんねえヤツだな」
バクが、ケケッ、と笑う。飛はバクに肘鉄を一発お見舞いしようとしたが、やめておいた。周りに下校中の生徒たちがたくさんいる。飛は一瞬、そのことを失念していた。どうかしている。
「そうだ」
白玉がはっとしたように目を瞠った。
「あります、わたし。行きたいところ」
本当にどうかしている。
飛は白玉の顔をまっすぐ見ることができない。ただ正面から見るだけだ。不可能ではないはずなのに、なぜか顔を傾けて斜めに視線を注ぐ恰好になってしまう。こんな見方をしたら、感じが悪くないだろうか。でも、白玉は気にしていない様子だ。
「コンビニエンスストアに行きたいです。いいですか?」
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