#1-2_otogiri_tobi/ 境界線上の幻覚(2)

 昼食の時間が終わった直後の特別教室棟はひとけがない。飛は非常用の外階段で白玉と待ち合わせることにした。

 二階と三階の中間にある踊り場で手すりに腰かけて待っていると、白玉が扉を開けて階段を上がってきた。

 飛はちょっと奇異に感じた。白玉がかばんを肩に掛けていたからだ。学校指定のスクールバッグとは違う。ポシェットというのだろうか。もっと小さい鞄だ。

「こんにちは」

 白玉は踊り場まで上がってくると、丁寧に挨拶をした。

「あぁ……」

 飛は曖昧にうなずいた。白玉はやけに礼儀正しくて、どうも面食らってしまう。

「で、何だっけ、その……動機? しらたまさんが、僕と友だちになりたい理由って」

「昔から、論より証拠と言うでしょう」

「……まあ、あるね。なんか、そういう言葉は」

「というわけで、連れてきました」

「連れて……?」

 とびは顔をしかめた。見たところ、白玉は一人だ。誰も連れていない。

 白玉はポシェットを持ち上げて開けた。

「出ておいで、チヌラーシャ」

 ひょっとして、白玉はポシェットに向かって呼びかけたのか。だとしたら、控えめに言ってもなかなかの奇行だ。変わり者だとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。飛はむしろ白玉のことが心配になってきた。色々な意味で、大丈夫なのか。

 あるいは、ポシェットの中に何か小動物的な生き物がいるのかもしれない。それはそれで非常識な問題行動だ。学校に小動物を連れてきてはいけない。飛でさえそんなことはわきまえている。でも、どうやら当たりらしい。

 ポシェットの中から何かがてきた。

「むっ……」

 バクが小さく声を漏らした。

 ほら。

 小動物だ。

 その生き物にとって、あのポシェットの中はさぞかし窮屈だっただろう。サイズ的にぎゅうぎゅう詰めになっていたに違いない。ただ、かなりもふもふしているので、一見、入れそうにないスペースにも意外と入っていられたりするのか。

 猫だろうか。ねこなのか。違うだろう。だろう、というか、違う。

 その生き物には角が生えている。あたりまえだが、猫には角なんかない。

 二本の角が生えている、小動物──

 いる?

 そんなの?

 施設にある動物図鑑には載っていなかったと思う。飛は施設の行事で市内の動物園に何回か行ったことがある。角が生えた小さな動物を見た記憶はない。もっとも、飛が知らないだけで、広い世界のどこかにああいう小動物がせいそくしているのかもしれない。もしくは、角のある生き物の子供だとか。

 生き物はポシェットから出てくるなり、白玉の体をよじ登りはじめた。すばしっこい動作ではないが、たどたどしくはない。一応、慣れてはいるようだ。生き物は白玉の右肩の上まで到達すると、飛のほうに顔を向けた。

 目は、あるのか、ないのか。見あたらない。毛に埋もれているのだろうか。

 それなのに、まなしのようなものを感じる。

「チヌ、ご挨拶して」

 しらたまが声をかけると、生き物は首をかしげた。頭を斜めに下げたのかもしれない。そして毛の合間から、ちっちゃな、とても小さい口をのぞかせた。

 ゆー。

 うゅー。

 くちぅー。

 とびにはそんなふうに聞こえた。生き物の鳴き声なのか。

「……どうも」

 飛は思わずお辞儀をしてしまった。

 白玉がチヌだかチヌラーシャだかの顎の下あたりを指先でこちょこちょっとでた。

「いい子」

「おい、飛──」

 バクがささやいてきた。

「まさかおまえ、気づいてねえのか」

「……え。何が?」

「アレは普通じゃねえぞ」

「や、それは……めずらしい生き物っぽくはあるけど。角とかあるし」

「そういうことじゃねえ」

 バクはだいぶイラついている。飛と話せることを除けば、バクは基本的に大きなバックパックでしかない。ただし、荒ぶると勝手に開くことがある。ファスナーが開くのとは違う。飛以外には見えていないらしいが、まるでファスナーの部分が口であるかのように開くのだ。

 ちょうど今みたいに。

「わからねえのかよ、飛! 鈍いヤツだな、ちくしょうめ!」

 バクは口をぱくぱくさせてしゃべっている。これはイラついているというより、動揺しているようだ。

「チヌは」

 白玉は右肩をすくめるようにしてチヌにほおずりした。

「わたしにしか見えないの」

「……けど──」

 見えている。

 飛には、はっきりと。

 チヌはずいぶんしらたまに懐いているようだ。チヌのほうからも白玉のほおに頭をすりつけて、気持ちよさそうにしている。ひゅるー、ゆぅー、うー、といった低い鳴き声を発しているというか、こらえきれずに漏れてしまっているかのようだ。チヌの角が白玉に当たっているが、痛そうではない。少なくとも、白玉は痛がっていない。あの角は突き刺さったりするほど硬くないのか。

「同類だ!」

 バクが吐き捨てるように言った。ずいぶん不本意そうだ。それか、バクも受け止めきれていないのか。

「オレの声はとび、おまえにしか聞こえなかった。そして、チヌラーシャだかの姿は、白玉りゆうこにしか見えなかったんだよ。まったく同じとは言えねえが、似てるだろ!」

「……で──白玉さんにはバクの声が聞こえて、僕にはチヌが見える」

「そういうこった」

「ん?」

 飛は眉をひそめた。額を拳でたたく。

「……だから、これって──どういうこと? は……? 何が、どうなって……」

「実は、わたしにもさっぱり」

 白玉は事もなげに言った。

おとぎりくんがバクちゃんと話していることには、前から気づいていました。わたしにはバクちゃんの声が聞こえたので。どうやら、わたしだけみたいだった。バクちゃんの声は、弟切くんとわたしにしか聞こえない。これは特別なことに違いないと思ったの」

「……特別──」

 飛は力なく頭を振った。

「ていうか、異常なだけかも……」

「わたしと弟切くんだけが、異常なんですか?」

「まあ……僕と白玉さんだけがまともだって考えるよりは、ありえそうだし……」

「ていうかおい、白玉龍子!」

 バクが、今度はちゃんと不本意そうに口を挟んできた。

「このオレをちゃん付けで呼ぶのはよせ!」

 白玉はきょとんとしている。

「バクちゃん?」

「それだ、それ! むずがゆいっていうかな。しっくりこねえ。キモいんだよ!」

「ごめんなさい」

 白玉が申し訳なさそうに眉を八の字にして頭を下げると、チヌも同じポーズをした。

 かわいいな。

 ──と、一瞬、思ってしまった自分に、とびはぎょっとした。

 ちなみに、かわいい、と感じたのは、あくまでチヌに対してだ。正確には、しらたまとチヌが同時に同じことをした、その現象に対して、だろうか。

「それでは、バクさん?」

 白玉がくと、バクは「えぇん!」とせきばらいをした。

「さん付けもいまいちよろしくねえ。何なら、バクって呼ばせてやってもいいんだぜ?」

「なんで偉そうなんだよ……」

 飛はバクを投げ捨てたくなった。バクは即座に反論してきた。

「どこが偉そうなんだよ。オレは呼び捨てオッケーって言ってんだぞ。むしろ、謙虚じゃねえか。なあ、白玉りゆうこ?」

 白玉はうなずいた。ついでに、チヌも。

「バクと呼ばせてもらうことにします」

「おう。いいぜ。オレは堅苦しいのが苦手だしな」

「バクもわたしのことを龍子と呼んでくれてかまいません」

「当然、そうなるわな。おりゆうとかでもいいかもしれねえぞ。うん。悪くねえ。どうよ?」

「べつにいやではないので、そこはバクのお好みで」

「だったら、お龍で決まりだな。お龍」

「はい」

「……どんどん仲よくなってる」

 飛はバクを投げ捨てるより白玉に押しつけるべきなのかもしれない。

「おぉ? 何だァ? 嫉妬してんのか、飛ィ?」

 バクが、ケケケッ、と笑う。

「心配するなよ。お龍が現れたからって、オレとおまえの関係が変わるわけじゃねえ」

「僕とバクの……腐れ縁?」

「だから、腐らすな!」

「じゃ、どういう関係なんだよ……」

「言葉にするのはってもんだがな。あえて言うなら、相棒ってとこか?」

「わたしとチヌラーシャも相棒みたいなもの」

 白玉は笑みを浮かべて、「ね」とチヌと顔を見あわせた。

「バクのように話すことはできないけれど、わたしのそばにいてくれる。わたしとチヌはずっと一緒だったの」

「……疑問なんだけどさ。もし僕にチヌが見えなかったら、白玉さん、いったいどうするつもりだったの?」

「その時は、きっと──」

 しらたまは唇をすぼめたり曲げたり、ほおを少し膨らませたりした。

「微妙としか言いようがない状況になっていたと思います。目には見えない小さな生き物を、さもそこにいるかのように振る舞っている、哀れな女子中学生……」

「よかったね、僕にチヌが見えて……」

「正直なところ、賭けでした。でも、おとぎりくんには見えるんじゃないかと」

「結果オーライってやつだろ?」

 バクは気楽にそう言うが、とびが白玉の立場だったら、そんな賭けには出ないだろう。

 自分はどこかおかしいんじゃないか。

 飛は何度となくそう疑った。バックパックと話ができるなんて、どう考えても普通じゃない。

 人には聞こえない音が聞こえる。

 見えないはずのものが見える。

 これは妄想なのか。脳に異常があるとか。何か精神的な病気だとか。一度、医者に診てもらったほうがいいのかもしれない。そこまで思い詰めたことさえある。

 飛は脱力していた。手すりから落ちてしまいそうだ。なぜこんなにぐったりしているのか。思いあたる節はあった。

 自分だけじゃない。飛はあんしているのだ。妄想なんかじゃなかった。

 バクはいる。

 飛がつくりだした幻のようなものではなかった。

 ちゃんと存在している。

「……僕に聞こえるバクの声が、白玉さんにも聞こえる。白玉さんには見えるチヌが、僕にも見える。他の人には見えてないっぽいものが──」

 だとしたら、あれもなのか。

 飛は思いきって白玉に尋ねてみた。

「てことは……白玉さんにも見えるの? たまに人が連れてる、なんかこう、変な……」

 白玉は視線をしっかりと結び合わせるように飛と目を合わせた。

 それから、ゆっくりとうなずいた。

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