第38話
思っていた光景と違う。
地下の隠し通路を使って地上に出た白榔は目を見開いた。
門のすぐ近く、まだ都の塀の内側だ。
『人間によって火の海にされる』
そう酒呑童子は言っていた。
なのに。
鬼の姿はなく、あちらこちらに札が張られているだけで火の粉すら見えない。
どういうことだろうか。
この街を焼く人間がいたら、そいつらは討伐されても仕方ない。
そのくらいには考えていたのに。そう言って自分を納得させていたのに。
考え続ける頭とは裏腹に白榔は走って門を出る。
しばらく走ると、もっと信じられない光景がそこにはあった。
街に住んでいた多くの鬼たち。見慣れない男女の子ども、しかも同じ顔が大勢。
鬼たちはみんな、笑顔で談笑している。
その中心には穏やかに微笑む人間の男と、白榔とも昔馴染みの青い大鬼。
「おいちゃん!」
白榔が叫ぶとその鬼も白榔に気づいた。
「白榔?お前、なんでここに?」
彼が白榔に向かって歩きだすのを、人間の男が制止する。
「
「しかし晴明殿」
朝追はその鬼の名前、では晴明が人間の名か。
白榔の手が太刀を握る。
やめろ。
そう思っても、足が止まらない。
『安倍晴明を殺せ』
頭に流れる酒呑童子の命令。
悔しいが、ただの人間の白榔には抗えない。
「おいちゃん!どいてくれ!」
走り出した白榔を見て、子どもたちが一斉に姿を消した。
鬼たちもどよめき出す。
「どうした、白榔!止まらんかぁ!」
朝追が白榔に向かう。
「おいちゃん、くんな!斬りたくねえ!」
そう願っても、白榔は太刀を抜いた。
朝追の首を狙って。
幸い朝追が白榔の太刀筋を知っているお陰で首をはねずに済む。
どころか、その怪力で腕を捻り上げられ白榔は太刀を放した。そのまま白榔は俯せに押さえ込まれ、動きを封じられる。
それでも抵抗をやめられない白榔に晴明が近づいて来た。
そして額を覆う布を剝がされる。露わになった、小さな角。
「鬼の血、飲まされたんやな。朝追殿、仰向けにできますか」
晴明の指示通りに朝追に反転させられる白榔。
目の前に晴明がいる。殺せ殺せと、頭に痛みさえ走った。
そんな白榔の腹に晴明が手を翳す。
聞き取れないほどの小さな囁きの後に、白榔の体から黒い靄がぶわりと吹き飛んだ。
「悪いの悪いの飛んでけー、なんてな。その角もじきに取れる」
ふざけたような調子で笑う晴明だが、頭の痛みも晴明に対する殺意も消えている。
「白榔、大丈夫か」
悪い夢でも見ていたような心持ちだ。
いや、実際そうなのだろう。
最初の酒呑童子の血を飲まされてから何日経ったか。
何度も飲まされ、地上は火の海になる、人間に皆殺しにされると吹き込まれ、愚かにもそれを信じた。
朝追の顔を見て、ほかにも心配そうに白榔を覗き込む鬼たちがいるのに気がつく。
「はっちゃん、いいちゃん···とくちゃんにあおちゃんも」
よかった、無事だった。
安堵したら込み上げる涙。
抑えられるはずもなく、せめて目元を隠して声を殺して泣く。
朝追、
それは今でも変わらず、代わる代わる白榔の頭を撫で回す。
それが嬉しくて涙は止まってくれない。
「晴明殿、ありがとうございました」
しばらくして朝追の声が近くで聞こえる。
一体今、どこで何が起きているのか。先ほど見た童子たちは。それに、朝追たち以外にも鬼は相当数集まっているが、都内にはもっといたはず。
体をムクリと起こし、袖で涙を拭うと晴明という男に向かって口を開く。
「あの、聞きたいことあんだけど」
そう言ったはいいが、何から聞けば良いのか。
言葉を続けられずにいると、晴明がにこやかに答えた。
「石切村のお父上が心配して探し回ってたで。朝には送るさかい、安心するやろな」
「いや、そうだけど。そうじゃなくて」
「綱か?酒呑童子ん所や。着いたかどうかはわからへん」
「いや、それは知っている」
「え?もう着いてたか?」
「違う!そうじゃねえ。綱が酒呑童子んところに向かって行ったのは知ってるっつったんだ」
「そうかそうか。まあ、まだ倒せてはないみたいやな」
「わかるのか?」
白榔が聞き返すと、晴明の横にぽんぽんと男女の童子が一人ずつ出て来た。
「男の子が梧桐、女の子が牡丹。樹木の精霊でな、平穏を脅かす存在に敏感なんや。酒呑童子がいなくなったら、この子らが分かる」
よくよく見てみると、周囲には乱雑にばら蒔かれた木の枝。晴明が言い終えると、木の枝一つ一つから次々に梧桐、牡丹の姿が現れた。
一人一個もしくは二個の瓢箪を提げている。
「でな、異論はあるかもしれへんけど、人食い鬼はこの瓢箪の中に入ってもろた」
さっき白榔が近づいた時は揃って脅えた顔だったが、いまは微かな笑顔。なんとも不思議な話だ。
「···人食い鬼かどうかも、その精霊が分かるのか」
「そういうこっちゃ」
「その瓢箪、最後にはどうすんだ」
入ってもらったと言っているが、術の類で封じているのだろう。そのまま放置するとは思えないので訊いてみる。
「人食い鬼は冥界にお帰りいただく。死後の裁判で地獄行きになった人間を喰っていたらええ」
お帰りいただくと簡単に言っているが、いったいどういうことなのか。
気にはなったが、考えるのも聞くのももうやめた。
ただ、
「なあ、おいちゃん。おいちゃんたちって人食い鬼じゃなかったっけ」
そんな風に聞いた記憶があった。白榔の前で食うことはなかったが。
朝追は笑って答える。
「お前が生まれた時からもう、人なんか喰ってねえよ」
「······」
そうだったのか。
つくづく、自分は幸運だと思った。
良い鬼、良い人間をたくさん知っている。
自分もそうであろうと思える。
人間と鬼が仲良く暮らせたらもっといいのに。
そう願うのは欲張りだろうか。
できると思うのは白榔だけだろうか。
そんな白榔の思いを見透かしたように、晴明が口を開く。
「あの鬼の都な、朝追殿に管理頼もうと思てん。人間も受け入れられるように、白榔も手伝ったってや」
「······」
驚いた。
「なんや、それやと不満?」
「いや···そりゃ、おいちゃんの助けなら」
喜んでやるに決まっている。だが、まさか鬼の都がそんな風に変わってくれるのはまだ想像ができなかった。
振り向くが、夜のため都の姿は見えない。
次足を踏み入れる時は、目に写る物が違って見えそうだ。
白榔の横に並んで、朝追が白榔の肩を叩く。
「お前には見えてねえんだよな?あんの煌々と燃える都」
「···燃える?見えねえ」
「綺麗だぞ」
「本当かよ」
「偽物って知っていればな」
偽物の炎。
それを産み出したのは晴明という陰陽師だろう。どんな修行をしたらこんな芸当ができるのか。
それとも、実は人外か。
白榔はまた晴明を見た。
人外でもいい。
そんな結論に至った白榔に、何故だか突然晴明が礼を言った。
「ありがとうな、ほんまに焼かんでよかったわ」
「はい?」
どういう意味か。
晴明がすぐに説明をする。
「最初の策ではな、ほんまに火ぃつけよって話やってん。その方が準備も楽やったしな」
白榔が綱と会った頃か、その前か。白榔は当時綱と何を話したか。
綱を必死で止めようとしたことを白榔は思い出す。
「けどな、綱がどうかやめてくれって頭下げて来てん。まぁ、手ぇ痛めて札と瓢箪の準備した甲斐あったな」
「札···街中の」
白榔が目にしたのはほんの一部だろう。何十何百といった枚数を一人で用意したというのなら確かに大変だったはず。
綱は聞いてくれていたのだ。
その綱の言葉を、晴明も聞いてくれた。
「白榔のお陰や。ありがとう」
「···いや、俺はなんも」
「白榔が綱に、都を攻めんでくれって言うたやん」
そうであるが、そうだとするなら、
「礼を言うのは、俺の方だ」
晴明にもだが、何より綱に。
「綱は大丈夫なのか?」
無事を祈らずにはいられない。
「大丈夫や······」
自分に言い聞かせるようにも聞こえる晴明の短い一言。
酒呑童子の強さ、恐ろしさ、野望を白榔は知っている。
だからこそ、白榔には大丈夫という言葉が信じられず、ついつい感情的になってしまった。
「もし負けたら、酒呑は人間の都まで攻めいるつもりだぞ!」
「大丈夫やって。綱も主の頼光も、修羅場くぐって来とる。信じてやったって」
目を細める晴明。都を見つめる眼差しは真摯。
「俺が守る都に、手出しなんかさせへん」
その言葉に白榔は何も言えなくなったのだった。
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