水晶宮すいしょうきゅう――龍宮水府りゅうぐうすいふとも呼ばれるそれは深海に位置し、海神である東海龍王がむという仙境せんきょうである。


 ただでさえ日の光も届かない深い海の底は、夜になれば一寸先も見えないような暗闇に包まれる。

 すべてが寝静まった真夜中、唯一部屋に光をもたらすのは二匹の水母くらげだけ。

 それらが放つ幻想的な光は、ふわふわと不規則にあたりを照らし出している。


「……まずい」


 そんななか、何度聞いたかわからない不満げな声に敖丙ごうへいは薬草を擦りつぶしていた手を止めた。


「肉はないのか? ここに来てからずっと魚しか食べてないぞ。それも生臭いやつばかりだ」


 少年はそう言うと、魚の切り身が刺された串を乱暴に皿へ戻した。


 たまらず、敖丙は深いため息を吐く。

 すると何を思ったのか、黙ったままうつむく敖丙の顔を覗きこみながら少年はさとすように言った。


「おい、哥哥にいちゃん。神や魚がどうかは知らないが、同じものばかり食べていると人間はいつか死ぬんだぞ」

「知ってるけど! 君もずっとここにいるわけじゃないでしょ!? そんなに嫌ならご飯用意しないからね!!」


 我慢できずに、つい強い口調で言い返してしまった。

 いつもは大きな声を出さない敖丙が怒鳴ったことで、少年もいくらか面食らったらしい。

 それ以上文句を言うことはなく、寝台の隅で丸くなると黙って魚をあぶったものをもそもそと咀嚼そしゃくし始めた。


 敖丙は擦り終えた薬の素材を鍋に入れてせんじながら、そんな少年の背中を半目でにらみつける。


 あの日怪我を負って溺れていた少年を水晶宮に連れ帰ったあと、敖丙はせわしく動き回った。

 傷だらけだった彼を手当して清潔な衣服に着替えさせ、食事や水を与えた。

 自室に誰も入らぬよう命じさせ、外出時以外はつきっきりで看病した。


 その努力が功を奏してか、少年の容態はすっかり回復したのだが。


「はい、薬湯やくとう。今日の分だよ」

「うわっ、また薬かよ。苦すぎるんだよ、これ。毎日飲んでたら頭おかしくなる!」

「これ飲まないと治らないから。文句言わないで飲んでよね」


 今まで大切に育てられてきた敖丙は、周囲に感づかれずに人間の子どもを世話をすることに苦労した。


 差し出された器を見て露骨ろこつに顔をゆがめる少年の口に、無理やり押しこむようにして薬を飲ませる。

 最初の方こそ抵抗していたものの、やがて観念したのか億劫おっくうそうに少年ののどが上下した。

 しかし喉奥に流れこんできた苦味に耐えかねたらしく、彼は盛大にきこんでしまう。


 涙を浮かべて苦しむ少年に蜜を溶かした白湯さゆを手渡しながら、敖丙は少年の服をめくりあげて傷口を確認した。


「うん、だいぶ治ってきたね。そろそろ包帯外してもいいかな」


 彼の体に刻みつけられた痛々しい傷は、神の妙薬みょうやくによって今ではほとんどふさがっていた。

 まだ痛みは残っているだろうが、このまま何事もなければ数日中にはもといた場所に帰すことができるはずだ。

 この関係も、それかぎりで終わらせる。


「元気になったらちゃんと帰りなよ。もう二度とこんなところに来ちゃだめだからね、

「……」


 それだけ言うと、敖丙は古くなった包帯と布を持ってさっさと部屋から出ていった。

 突き放すような言葉に少年は何も答えなかった。

 敖丙の心のどこかにあるぬぐいきれない不安が、言動に出てしまったのかもしれない。


 あるいは、彼も本能ですでに理解しているのだろうか。

 本来なら自分がここにいてはいけない存在で、神々の領域にそぐわない異分子だということを。


 ――太古の昔から仙境は神々に、俗世は人間に与えられたものだと相場が決まっている。


 創世直後の混沌こんとんとした時代、中原ちゅうげんにはあらゆる神秘の存在が闊歩かっぽしていた。

 人ならざる彼らは好奇心に富んでいて、たわむれに地上に現れては俗世に干渉かんしょうし、退屈しのぎに人の真似事まねごとをして楽しむ。

 人間との共存を図って都に潜むこともあり、人々に吉祥きっしょう恩恵おんけいをもたらし、清廉せいれんなる神とあがめられた者もいた。


 しかし、その超越した存在と強大な力は人の常識をいとも容易たやすくつがえす。

 彼らは独自の縄張なわばりを持ち、拮抗きっこうした勢力で天地の覇権はけんを奪い合うこともしばしばあった。

 森羅万象しんらばんしょうを巻きこんだ争いの影響は天災となって人の都におよび、時に人間の存在すらも危うくした。


 そこで、時の天帝てんていがすべての神々に対して勅令ちょくれいを発したのだ。

 俗世に干渉することを禁じる、と。


 こうして万物を司る神々は神仙界に君臨し、人と関係のない無為自然むいしぜんで生きることになった――それが、この天地に伝わる神話だ。


 海の底で生まれ育ってきた敖丙はそういう話があることこそ知っているものの、真偽まではわからない。

 ただひとつわかるのは、その掟が天理として今もなお厳守されているということだ。


 神々にとって、天理とは絶対不変の天地の規則である。

 けれど少年の命を救ったあの時、敖丙は初めてその規則にたて突いてしまったのだ。


 耐えられなかった。

 怪我をした人間の子どもを見捨てておけなかった。

 あれほど血が流れていて救いを求めているのに、介入してはいけないという。


 少年を助けたことを後悔していないか、と問われれば嘘になる。

 あれ以来、長らく自分のなかで築き上げてきた何かがくずれ落ちてしまった気がしてならない。

 しかし決して、自分自身に失望したわけではない。


 果たして、間違っているのはあのとき咄嗟とっさに取った行動か、それともこれまで学んできたことだろうか。


 疑問に対する答えは出ないまま、気づけば夜が明けていた。

 万が一、天が罪に問うてきたら――そんな不安こそ残っていたものの、時間とともにふくらんだ疑問は薄れてついには腹の底で霧散してしまった。


 そして数日経ったある朝、少年はなんの前触れもなく敖丙の前から姿を消した。

 ほんの少しだけ焦ったが、宮殿内はいつもどおり静かだったためどうやら見つかったわけではないようだ。

 きっと自分のいるべき場所に帰ったのだろう。


 そのときはまだ何も疑問を持たずに、ただ不思議と晴れない己の心を奮い起こすのに必死だった。

 もう季節は夏だというのに、凍りつくように寒く暗い朝だった。


 まもなく水晶宮に激震が走る。

 仙境の異変に気づいた公卿くぎょう鰻鱺うなぎが宮殿中に驚くべき知らせをもたらしたのだ。


 ――曰く、龍珠りゅうじゅが何者かによって持ち去られていた、と。

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