敖霜枝

白玖黎


 ――やってしまった。


 荒い息を吐いた敖丙ごうへいは、胸中で渦巻く動揺を抑えこみながら、まっすぐ水晶宮すいしょうきゅうに向かう潮の流れを辿たどっていた。


 小脇に抱えた名も知らぬ少年の体が、ぬるりと不自然にすべって腕から離れそうになる。

 少年が血を流しているのだとわかったのは、いつもの濃い海水の味に金臭かなくささが混じっていたからだ。


 己とほとんど同じ大きさの少年を抱え直しながら、ただまっすぐ水晶宮を目指して突っ切る。

 宮殿に戻ったら、急いでこの人間をかくまい、治療をしなければいけない。

 冷静に考えながらも、敖丙の心の底では一抹いちまつの葛藤が絶えずくすぶっていた。


 もしも誰かに見られてしまえば。

 もしも人間に、俗世ぞくせ干渉かんしょうしようとしていることを知られてしまえば――果たして、自分はこのまま東海龍王の三太子さんたいしとしていられるのだろうか。


 そこまで考えて敖丙はかぶりを振った。

 もうさいは投げられてしまったのだ。

 この小さな生物を見捨てておけなかった時点で。


 そして、沈みゆく少年の手を取ったその瞬間から、引き返すことなどできなくなっていた。

 海水にまぎれてかすかにただよう血の臭いが、彼の決意をさらに強く固めさせる。


 もう後戻りはできない。

 そう自分に言い聞かせながら、敖丙は暗闇のなか水晶宮の珊瑚さんごが放つ光を追いかけた。



 神世しんせい末年、晩春のことであった。


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