参
視界の端では青々とした葉をつけ、地面に長く
書物で読んだことがある――たしか、
ごろりと
窓の外から目を
四方を
あたりに
知らない匂いに満ちた、見覚えのない場所。
霧がかかったように
——どうして、こんなところにいるのだろう。
大きな目をぱちぱちと
何気なく身を起こした敖丙は、
「……っ」
思わず漏れそうになった声を噛み殺したとき、包帯を巻かれた腕が視界に飛びこんできた。
さらに視線を下げると、全身にも肌の表面を
そんな体のようすを見て、ぼんやりとしていた頭がようやく少し動き始める。
しかし、必死に状況を理解しようとしていた敖丙は一瞬にして思考を別の方向へ持っていかれてしまった。
誰もいないはずの部屋の奥から、
「……」
部屋のすみに置かれた
その前で長い足を組むのは、人間の若い男だった。
机の上に
ぺらりと古書の頁をめくった男は、敖丙の視線に気づいたのかふいに顔を上げた。
そのまま視線をそらすこともできず、目が合ってしまう。
「——ああ、起きたのか」
男は書物を閉じて立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
驚いて寝台に座ったまま身を引くと、
その瞬間、ひどい
ずきずきとした
「大丈夫か?」
穏やかで落ち着いている声は、聞き取りやすくて心地良い。
おそるおそる目を開けると、そこには案じるようにこちらを
「ちょっと待ってろ、
「哪吒……?」
聞き慣れない名前に首を傾げると、「ああ」と男が笑みを浮かべる。
「君を助けてくれた人だ」
そう言ってそそくさと部屋から出ていく彼の背中を見つめたまま、敖丙はしばらくのあいだ呆然としていた。
――事の
最初は敖丙も耳を疑った。
龍珠はいつも
そして、部屋の監視を任されているのはみな
水中に
だがもし犯人が東海に属さない、仙境とも本来なら関わるはずのない俗世の者ならば――。
敖丙にはいくらか心当たりがあり、すでに犯人の目星もついていた。
当時は気にも留めていなかったが、東海に属さない者が仙境を自由に出入りできるはずがない。
しかし龍珠の力を使って抜け出したのなら納得がいく。
これでも敖丙は東海龍王の
自分のしたことにはきちんと責任を持つ。
自分が人間に
しかし、そう思って考えなしに飛び出したのが悪かった。
なくなった
だが地上を
妖魔とは陽に属する神仙とは対になる、陰の気をまとった不浄の存在だ。
天理に
彼らは人里離れたところに独自の縄張りを持つが、ときに都に現れて人を
反撃しようとしたが龍珠を持たない敖丙には手も足も出ず、ついには妖魔の術式らしきもので気を失ってしまった。
記憶はそこで途切れたままだ。
死んだと思ったが、不思議なことに生きている。
しかし、一体どうやってここへやってきたというのだろうか。
なんとか思い出そうとしていたそのとき、再び部屋の扉が開いた。
続いて部屋に入ってきた人影を見て、敖丙は思わず息を飲んだ。
「ああっ!! 君は、あのときの――」
つり上がった目尻が特徴の顔には人好きのする笑みが浮かんでいる。
「よう、また会ったな。元気にしてたか、
目の前に現れたのは、ついこのあいだ助けたばかりの人間の少年だった。
「ど、どうして……」
驚きのあまりうまく言葉が出てこない。
「どうしても何も、命の恩人が血まみれで倒れてたらそりゃ誰でも助けるだろうよ」
「そう、じゃなくて」
どうして君がここに、とかすれた声で問い直す。
そんな敖丙を前にして、少年は「んー」と
「ここは俺のうちだしなあ……どっちかというと、お前が今ここにいるほうが不自然だぜ」
「え? ああ、そう……?」
「
それ、と彼が指差したのは敖丙のすぐ真上だ。
反射的に両手を頭の上に持っていくと、そこには本来あるはずのない硬い感触がある。
近くにあった
それだけではない。
肌にはうっすらと鱗の模様が浮かび上がり、髪の色はその鱗と同じ薄水色をしている。
おまけに
「で、わざわざ人里にまで下りてきた理由をお聞かせ願おうか、龍神サマ?」
その言葉で我に返り、敖丙は仙境を出た目的を思い出した。
「――龍珠」
「ん?」
「龍珠、返してよ」
ぽかんとした表情を浮かべる彼に向かって、今度ははっきりと告げる。
「君が持ってるんでしょ? 暗いところできれいに光る、このくらいの玉なんだけど……」
「ああ――もしかして、これのことか」
少年は
彼の手のなかに収まったそれは紛れもなく敖丙が探し求めていたものだ。
「ほら、これでいいだろ?」
かと思えば、ぽい、と
敖丙は目を
特に目立った傷や汚れがないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
――よかった。ちゃんと取り戻すことができた。
久しく感じていなかった強い霊力が手のひらを通して龍珠から伝わってくる。
たちまち身体中の痛みが引き、姿も人間の子どもとそっくりなものへと変化した。
「すげえ!! それどうやったんだ? 俺が触ったときはなんにも反応しなかったのに!」
敖丙の変化を目の当たりにした少年が興奮気味に身を乗り出してくる。
海の底に位置する
龍神の力は
それにしても、まさかそんな人間に助けられることになるなんて。
しかもそれがよりによってあの少年とは――世のなか不思議な
人間なんかと一緒にいるところを見られたら父上に怒られるだろうなと思いつつも、彼の笑顔を見ると不思議と口角が
「おお、笑ってる!」というからかい混じりの
「ねえ、人間」
「哪吒」
少年は小さな声で自分の名前を口にしながら苦笑した。
「俺の名前だ。人間って呼ばれるの、あんまり慣れてないからな」
どこかで聞いたことがある名前だなと思っていたら、それは先ほど部屋にいた男が言っていたものだった。
「哪吒」
「そうだ。俺、もっとお前と話したい」
また会えるかな、と無意識のうちに投げかけられた言葉にきっと深意はないのだろう。
できることなら敖丙ももっと彼のことを、人間のことを知りたい。
けれども実際に敖丙が東海龍王の三太子である限り、それは許されない話だった。
だめだと理性ではわかっているはずなのに、心の底では真逆の感情に押されつつある。
そっと手のひらのなかの龍珠を握りしめる。
しばし考えこみ、敖丙は気づけば首を縦に振っていた。
「ちょっとだけなら……大丈夫、かも?」
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