第36話 レモンと言うには甘すぎて


 自分より頭ひとつ以上小さな女の子から壁ドン

 そんな思いがけないシチュエーションに呆気に取られちゃったけど、ヤバいどころじゃないぞこれは!


「ちょ離れてくださいっ、監視カメラがっ!」


 ここには僕達以外に人目はない。ないけど、エレベーターの天井から無機質なレンズがこちらをじーっと見つめている。

 こんな場面を見られたら一貫の終わりーーそのはずなのに亜梨子ちゃんは動揺した様子もなかった。


「大丈夫ですよ、はたから見たら恋人同士がイチャついているようにしか見えないでしょうから。それに監視カメラの映像が外に漏れる心配もありません。そういう契約も含まれているので」


 なるほど住人のプライバシーにも配慮してくれるのか。流石は高級マンション。

 それなら安心してイチャイチャ出来るぜやったね! ……とはならんわけで。

 さっきはともかく今なら亜梨子ちゃんをどうにかするのなんて簡単だ。

 口で言って駄目なら力づくで引き剥がそうと肩にかけた手は、しかし逆に亜梨子ちゃんの一言で止められた。


「言っておきますけど抵抗するなら大声を上げますよ? そうしたらすぐに管理人さんが駆け付けるでしょうね、秋良くんを捕まえるために」


 んなっ!?

 でもさっき大丈夫って、


「さっきの話は私が嫌がっていなければの話ですから。これでも演技には少し自信がありますけど、どうしますか?」


「うっ」


 分が悪い、なんてもんじゃない。

 なにせ彼女は声優としてはアワードで主演女優賞を受賞してるし、たしかなにかのインタビューで子供の時から劇団に所属してたと語っていたはず。

 演技のプロの彼女と素人の僕、しかも男と女じゃ人に与える言葉の印象がまるで違う。

 一体誰が「彼女に襲われました」と言ったところで信じてくれるだろうか。試すまでもなく僕に勝ち目なんかない。


「……わかりました。抵抗しませんから人呼ぶのだけは止めてください」


「よろしい。ふふっ、安心してください。そう身構えなくてもこんなムードも何もない場所でハジメテを失うのは嫌ですし、さっきみたいなことはしませんよ」


 僕が大人しく両手を挙げて降参のポーズを取ると、亜梨子ちゃんは満足気に頷いた。


 にしてもカメラは何とかなるとしても、エレベーターに乗り込んで来る人まではどうにも出来ないはずだ。人の口には戸が立てられないって言うし、こんなところを見られたらおしまいなのは変わらない。

 亜梨子ちゃんだってそれは分かってるだろうに一体なにがしたいんだ?


 その疑問の答えはすぐに解った。


「だから今はこれだけで我慢してあげます♪」


「え? うわっ、」


 急に襟首を引っ張られてがくんっと頭が下向く。

 すると丁度僕の胸元あたりにある亜梨子ちゃんの顔と目が合った。

 今日は近くで彼女のお顔を拝んでばっかりだけど、やっぱり何回見ても可愛いよなぁ。

 美人声優という肩書きから『声優』という括りを取っても十分以上に通用するルックス。贔屓目抜きにそこらの女優やモデル、アイドルだって勝負になっちゃいない。


 全体的にすっきりと顔のパーツが整ってて、目は大きくてぱっちり二重。鼻も高すぎず低すぎず、お化粧のことはよく分からないけど薄く見えるのに肌は健康的に白い。

 その中でもルージュの口紅が引かれた唇が一際目を惹いた。

 ぷるんっと瑞々しくて、それでいてねっとりと吸い付きも良さそうで品の良い色気がある。


 その唇が、亜梨子ちゃんが背伸びをするのと一緒に近づいて来る。

 鼻先に触れるくらいになっても留まる気配はなくて、3cm、2cm、1cmとどんどん距離は縮んで行きーーってぼんやり眺めてたけどこのままじゃ、


「んっ……」


「っっっ!!」


 ちゅっと音を立てて唇に柔い感触が伝わった瞬間、雷に打たれたみたいな衝撃が全身に走った。

 なんだ、これは。

 ふんわりしてもちもちしてて温かくて、何かに例えようとしても言葉が浮かんでこない。


 それは紛れもなく月城亜梨子の唇の感触だ。


(これってもしかしなくてもキスされてるっ!!?)


 こんな密室のエレベータの中で監視カメラに覗かれながらファーストキスを失うことになるなんて流石に予想外だった。

 意外なのはもう一つあって、推しからキスをされているってのにことのほか冷静な自分がいたこと。きっと予期せぬ事態過ぎて感情がまだ追いついていないからだ。


「ンッ、ンッ、ンッ……」


 あとキスをされる度にふわふわした気分になって、脳味噌が溶けちゃったみたいに上手く頭が働かないからかも知れない。

 ファーストキスはレモンの味なんて聞いたことあるけど、酸っぱいどころか蜂蜜で漬けたみたいにとろけるくらい甘かった。

 そりゃあ亜梨子ちゃんだって夢中になって何度も何度も啄むみたいに唇を押し付けて来るわけだ。


 いつまでもこの甘い唇の感触を味わっていたいーーそう思わなかったかと言われれば嘘になるけど。


(でもこれ待っ、息……続かなっ!?)


 だから僕が我に返ったのは自制心が働いたからとかじゃなくて、先に息を止めているのにが限界を迎えたからだった。


「あひふひゃん(亜梨子ちゃん)、ほふいひが(僕息がっ)、ふぁなへてっ(離れてっ)」


「んちゅっ、んふぅっ、むっ、ちゅつ」


 そして僕にとっては残念なお知らせだけど亜梨子ちゃんは肺活量に自信アリみたいだ。もがいて訴えてもぴったり合わさった唇が離れることはなかった。

 声優だし歌手業でも活躍してる彼女なら納得ではあるけど…………でも、僕の方は……もう無理………か………も………………


「秋良くんどうしたんですかっ!? ど、どうしましょうっ……とりあえず救急車を呼んだほうが? えっとえっと、緊急ボタンがエレベーターのどこかにーー」


 酸欠で意識が薄れていく中、僕が最後に覚えているのは慌てふためく亜梨子ちゃんの姿だった。


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