第30話 不思議の国にご招待
ところでなのだけど、僕の暮らす海女美市は都心へのアクセスが悪くないのでベッドタウンとして有名だったりする。東京は地価も物価も高いから隣接している県に家を借りて電車通勤するというわけだ。
本町でタクシーを捕まえて揺られること10分ばかり。到着した平川町はまさにそのベッドタウンとしての需要を受けて開発が続いている地域だった。
大分前にこの辺りを通った時はなんの変哲もない町並みだったのに、今じゃマンションがぽこぽこ建ってて昔の面影はどこにも見当たらない。
「すっごぉ……超豪華」
その中でも一際目立っていた高層マンションは一歩足を踏み入れただけでお金持ち向けなのが分かる広々した作りだった。
エントランスなんてようはただの玄関のはずなのに、高そうな美術品が飾られてたりリクライニングスペースもあったりと随分充実してるな。
「秋良くんどうかしましたかー? こっちですよ、こっちー」
ひいお祖父ちゃんから受け継いだ年季の入った我が家とは大違いで思わず遠い目をしていると、向こうにあるエレベーターの前で亜梨子ちゃんが手を振っていた。
「すみません! こういう所は馴染みが無くってつい」
僕が駆け寄ると亜梨子ちゃんがボタンを押してエレベーターの扉が開く。
中に入ると防犯対策か天井に監視カメラまで付いてた。レンズ越しに誰かに見られている気がしてなんか落ち着かない。
別に悪いことをしているわけではないんだけど、状況が状況だけに『カメラ』という存在にはビクビクしちゃうっていうか。
「うふふ、分かります。私も最初はびっくりしましたから。でも中はもっと凄いんですよ、ジムとかプールとかもあったりして。秋良くんにも後で見せてあげますね♪」
そんなビビりの僕とは対照的に亜梨子ちゃんは知る限り過去イチじゃないかってくらいご機嫌だ。
でももう少し気を引き締めても良いんじゃないかなぁ。
なんせここはーー亜梨子ちゃんが住んでるマンションなんだから。
週刊紙に二人でいるところをスッパ抜かれでもしたら一貫の終わり。
実際にそういう関係じゃなくたって、記者にも記事を読む読者にも関係ない。人気声優・月城亜梨子のスキャンダルなら真偽なんて二の次なのは二月の件で嫌ほど思い知ってるし。
(だいたいなんでここにいるんだっけ。一緒に来てほしいところがあるって、そういう話じゃなかった?)
僕がここにいる理由、それを説明するには今から三十分ほど前にデパートのフードコートでどんなやり取りがあったのか振り返らないといけない。
***
「あのっ! 厚かましいお願いなのは分かってるんですけど、そのチケットって友達の分も余ってたりとかしませんか?」
テーブルの上に置かれたチケットを前にして悩みに悩んだ僕は、結局えびすさんの分のチケットもあるか聞いてみることにした。
もしも無かったならわざわざ誘ってもらったのに申し訳ないけど、チケットは断って当日はえびすさんとライビュ会場で応援しよう。先に約束してたのはえびすさんとだし。
「お友達の分、ですか?」
きょとんとした顔の亜梨子ちゃんに、僕はことの経緯を説明した。
「実は友達と一緒にライブを観ようって前々から約束してまして。もしチケット取れなくてもライビュも二人で参加する予定だったんで、僕一人だけ現地っていうのはちょっと違うかなって」
「うーん、余り自体はまだありますけど……」
「本当ですか!?」
「ええ。ただーー」
幸い余分はまだあるらしい。けど亜梨子ちゃんは眉をひそめて何か考え込んでしまった。
誰か別の人に渡す予定があったとか、それとも別のことが気がかりなのか。
先に言ってしまうとそれは後者の方だった。
「お友達って、
一応質問の体ではあるけれど、その硬質な口ぶりには確信があるような気がする。
まあ僕がライブに一緒に行こうとする友達なんて亜梨子ちゃん視点でもえびすさんくらいしかいないから当然っちゃ当然か。
「……はい。そうです」
亜梨子ちゃんにとって湊えびすという名前がどういう意味を持つのか、それに気付いたうえで僕は素直に頷いた。
もしかしたら別の人、例えば羽入くんあたりの名前を挙げたらすんなりチケットを譲って貰える世界線もあるかも知れないけど、ここで誤魔化したら亜梨子ちゃんに不誠実過ぎるし。
ただなけなしの真摯な想いが伝わったかは怪しい。
亜梨子ちゃんはまるで浮気者でも見るみたいな目で僕を見て来たから。
「ふうん。……デートですか?」
「いやいやいやっ、違いますよ!? ただ一緒にライブ観るだけですって!」
「どうだか。前も私を放置して二人で遊んでましたしー」
「それはっ……その通りなんですけど、止むにやまれぬ事情がーーっていうかこの間説明しましたよね!?」
あの土曜日の夜。
冷え冷えとした声で淡々と詰問してくる亜梨子ちゃんに何もかも洗いざらい白状させられて、僕とえびすさんとの何とも言えない絶妙な間柄についても彼女は知っているはずなのに。
いや、むしろ知っているから勘繰ってるのか。
自分が告白した男のそばに、友情以上の感情を持った異性の友達がいたら気が気じゃないのは当然だよねーーって他人事みたいに言ってるけどその男は僕自身なわけで。
羽入くんあたりに相談したら「爆発しやがれ」って言われそうだけど、二人に板挟みにされてる状況めっちゃ胃に来るんだよね。
「……というわけで、生の日向さんをえびすさんに見せてあげたいんです。あくまでも友達してですよ?」
えびすさんの分のチケットも勝ち取るためいかにえびすさんが日向さんを愛しているかのエピソードを交えつつ説明する僕。
亜梨子ちゃんは腕を組んで頬を少し膨らませていたけど、それでも最後まで黙って聞いてからゆっくりと口を開いた。
「話は分かりました。ハレちゃんもそこまで熱心に応援してくれる女の子のファンが観に来てくれたら喜ぶでしょうし……湊さんの分のチケットも、考えてあげなくはありません」
「いいんですか!?」
日向さんの名前を出したのが功を奏したのか、渋々といった様子ではあったけど亜梨子ちゃんはお願いを聞いてくれた。
ただし見返りなしでというわけではなかったけれど。
「ただし一つだけ条件があります。それを聞いてくれたらチケットを二人分差し上げますけど、秋良くんはどうしますか?」
「何でもいいですよ! 僕に出来ることなら!」
後先考えなしに即答しまったのは、えびすさんとこれで一緒に現地に行けると思って浮かれてたからだ。あとは亜梨子ちゃんのことだから何だかんだと僕には甘いとタカをくくっていたのもある。
「そうですか。それは良かったです♡」
返事を聞いた亜梨子ちゃんはにこぉっと満面の笑顔を浮かべた。
(っう? ……なんだろ、今なんか寒気が)
その笑顔を見ていたら僕は背筋がぞわっとした。いつぞや綾瀬さん達がお昼に誘ってきた時みたいに身体中を舐め回されているような感覚っていうか。
いやでも亜梨子ちゃんにそんな痴女みたいなこと考えてるわけないよ。
僕の気のせいに決まってる、うん。きっとそうだ。
「そ、それでその条件っていうのは?」
「難しいことじゃないですよ? ちょっと付いてきて欲しいところがありまして。ここからそんなに離れてませんし、良かったらこの後このままどうですか?」
……後で思い返してみれば、ここを過ぎたらもう引き返せないポイント・オブ・ノーリターンはどう考えてもこの時点だった。
でも未来のことなんて分かるわけもない僕は呑気に了承して亜梨子ちゃんに促されるままタクシーに乗り込んで。
その日の夜少しだけ大人な体験をすることになるのを、数十分前の僕も今エレベーターに乗っている僕も、まだ知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます