第9話 リドルくんの秘密(下)

 

 リドルくんの話をしようと思う。

 当時はまだ男だと思っていたけど、リドルくんと僕がフレンドになったきっかけは今から一年くらい前に彼女がいきなりDMを送り付けてきたのが始まりだった。


 FF外の人から急に送られてきたDMに内心ビビったもんだけど、目を通してみれば内容も中々にぶっ飛んでた。

 なんでも月城亜利子のファン仲間を増やしたくてSNSアカウントを作ってはみたものの右も左も分からず、とりあえずパブサして出て来たファン垢の一つに物は試しで話してかけてみたらしい。

 その行動力に呆れるやら尊敬するやらで興味を惹かれた僕は、SNSの使い方をあらかた教えてあげた後、すぐさま飛んで来たリドルくんからのフレンド申請に苦笑しつつ承認していた。


 それからというもの僕の何気ない呟きにも欠かさずリアクションしてくれるリドルくんとは自然と関わることが増えて、気付けばDMでのやり取りだけじゃなくチャットアプリのIDを交換して頻繁にやり取りする仲になっていた。

 リドルくんはオタクと名乗ってるわりにアニメやゲームの知識がわりと偏っていてその分声優現場にやたらと詳しく、逆に僕は元々漫画オタ兼アニオタだったからそっちの知識はあるけど学生なのでお金や時間の問題から声優イベントの現場周りには疎い。

 そんな風に共通の趣味を持っているけどお互い得意分野が違ったのも僕らの仲を深めた一因だったと思う。


 歴代の傑作アニメや漫画について教えてあげたり、亜利子ちゃんの出演アニメを二人で一緒に実況してみたり。

 アニメイベントでありがちなコーナーの話とか変わったお客さんの話、ときには今まで聞いたこともない有名声優さんの小ネタ話を教えてもらったりだとかーー思い返しても本当に楽しい一年だった。


 リドルくんは僕のオタク友達で、弟子で、師匠で。

 彼じゃなくて彼女だったと分かった時も、僕が真っ先に心配したのはこの関係を今まで通りに続けられるかだった。

 それほどまでに新戸秋良にとってリドル・リデルという友人は日常の一部にまで溶け込んでいて、もはや無くてはならない存在だったのに。


(そのリドルくんが実は亜梨子ちゃんでしたーーだって?)


 いやいやいや、有り得ないだろ冷静に考えて。

 アニメや漫画じゃあるまいし、そんなことが現実に起こるだろうか。いや、起きない(反語)。


「おーたむーんさん? もしもーし、おーたむーんさんってば」


 きっとこれは……そう、夢だ。なんか亜梨子ちゃんに話しかけられている気もするけど幻聴だろう。


「無視しないでくださいよー。私、泣いちゃいますよ?」


 そもそもの話、冴えない陰キャオタクだったこの僕がちょっと髪を切っただけでイケメンに変身するのも無理があるんじゃないか?

 それもこれも実は長い夢の中の出来事で、じきに目が覚める。そしたらいつもの自分の部屋の天井が見えるんだ。

 そうだ、きっとそうに決まってーー


「もうっ、こうなったらーーえいっ!」


「むおっ?」


 両頬を挟み込む柔らかな感触に意識を引き戻される。

 それは誰かの手だ。力は籠められていないから別に痛くはない。ただぐいっと頭を強制的に上げさせられて、そこにはほんの数センチの距離にまで迫った亜利子ちゃんの顔があった。


「ようやく私のほう見てくれましたね。急に黙り込んじゃうから心配したじゃないですか!」


 イベントの席や握手会の時よりもさらに近くて、目と鼻の先どころか睫毛が触れあうくらい近い。

 宝石みたいに澄んだ瞳に吸い込まれそうになって思わず視線をさ迷わせた先には、品の良い発色の口紅が塗られているぷるんとした唇があって。


 この唇が握手会の時、僕の頬にーーもしも今ほんの少しだけ顔を前に出したら唇と唇が触れ合って……?


 童貞の妄想力たるや恐るべし。

 自分と彼女のキスシーンを脳内にありありと再生してしまった僕は、興奮のあまり鼻に込み上げてくるソレに抗えなかった。


「ち、ちょっと大丈夫ですか!? すっごい血が出てますけど!?」


「へ? ……うおわっ、血ぃー!?」


つつーっと鼻から滴り落ちる鮮血。

興奮し過ぎて鼻血を垂らすとかいうギャグ漫画でお決まりの演出をまさか自分でやることになるとは。

 しかもその瞬間を推しに目撃されてしまうというおまけ付き。

 ポケットティッシュを取り出して鼻に押し当ててくれる亜梨子ちゃんにされるがまま、死んだ魚の目になって僕は一言だけ呟いた。


「死にたい……」



 ***



「本当にお騒がせしました……その、月城さんにはとんだご迷惑を……」


 たっぷりとティッシュ十枚分吸わせてようやく鼻血は止まった。

 手当てしてくれた亜梨子ちゃんにもテーブルを汚してしまったにも関わらず笑顔で対応してくれた店員さんにも申し訳なさ過ぎる。理由が理由だけに。

 ただただ平謝りする僕だったのだが、亜梨子ちゃんはそのことより別のことが気になったようだ。


「むぅ。なんで敬語なんですか。しかも名字呼びでさん付けですし」


「そんなこと言われても。だって月城さんって大学生ですよね? 僕、高1だから全然歳下ですし」


「いつもは亜梨子ちゃんって言ってくれるじゃないですかー!」


 不満気に子供っぽく足をバタ付かせる亜梨子ちゃん。

でもなぁ、気の置けないリドルくんに対してだったからタメ口使ってたけど中身が亜梨子だったと分かった今、恐れ多くてとても言えたものじゃない。

 そのことを推しとテーブル一つ挟んで対面しているこの状況に緊張しつつもどうにか伝えたのだが、彼女は納得してくれなかった。


「ふーんだそういうこと言っちゃうんですねっ。それなら私にも考えがありますよ!」


 亜梨子ちゃんはバッグからスマホを取り出すと、何やらすいすい操作して僕に向けて突き出してきた。

 それはスマホを持っていれば大抵の人がインストールしているだろう某有名チャットアプリの画面で、よく見ればリドルくんと僕のつい昨日していたやり取りが羅列されている。


「もし今まで通り『亜梨子ちゃん』って呼んでくれないなら店内でコレ朗読しちゃいます。ちなみに私のオススメはイメチェン成功したから私に一目惚れされちゃうかもっておーたむーんさんが浮かれてるあたりでーー」


「うわああぁっっ!! 呼びます、呼びますから読むの止めてくださいいいいぃ!!」


 第一ラウンドTKO。勝者、月城亜梨子。

 よくよく考えてみればリドルくんが亜梨子ちゃんということは、昨日のどころか一年分語った亜梨子ちゃんへのあれやこれが全てが本人に筒抜けだったわけで。

 R18な内容は流石に言った覚えがないけどト●ポもびっくりの頭からお尻まで黒歴史たっぷりだ。

勝ち目もなんて最初からあるはずもなく、僕は早々に白旗を振った。


「それで、その月城さーーん"んっ、亜梨子ちゃんは何でこんなことを?」


 彼女もリドルに扮してチャットしている時はタメ語だったのに今は僕に対して敬語で接して来るという部分を盾に交渉して、何とか名前呼び+敬語(タメ語を使えるよう努力はする)の条件をもぎ取った僕は、気を取り直して疑問だったことを聞いてみることにした。


「こんなことって何がです?」


「そりゃあ、なんでリドルくんとして僕に近付いたのかなって。……偶然じゃないですよね」


 リドルくんが月城亜梨子本人なら、月城亜梨子のファン仲間が欲しいなんて理由でいちファンにコンタクトを取るはずが無い。

 僕には彼女が初めから何らかの目的があって接近してきたとしか思えなかった。


 亜梨子ちゃんは飲みかけだったフラペチーノを一口飲んで、ふうっとため息を付いた。

 それは説明するのが嫌とか面倒だからというよりも、自分の中の何かに決心を付けるのに手間取っている、そんな感じがした。

 暫くの沈黙の後、彼女は僕に一つ問いかけた。


「おーたむーんさんはメメズの冒険の頃から私を知っていたなら、私が当時ネットでどんな扱いをされていたのか知ってますよね?」


 勿論知っているけど、それを本人相手に口にするのは躊躇われる。


 その頃の月城亜梨子はまだ鳴り物入りの新人だった。

 年の瀬に新人賞を取って評価された高い演技力もまだごく一部にしか知られておらず、整った容姿と現役女子高生声優という売り出し側の用意した肩書きにばかり注目が集まって、それを面白く思わないネットの悪意に曝されていた時期だ。


「……はい。知ってます」


「貴方までそんな悲しそうな顔をしないでください。昔の話ですし、今はもう乗り越えましたから。ーーでも、そういう訳で当時の私はかなり精神的に不安定になってしまったんです」


 僕を優しく気遣ってくれる彼女だけど、誰かに発信しなかっただけで最初は僕も月城亜梨子に否定的な人間だった。もし少し踏み出せばアンチ、荒らしと呼ばれる人達のようにネット掲示板やSNSで彼女への罵詈雑言を書き殴っていたかも知れない。


「もちろん私を応援してくれる人もたくさんいて、そのおかげでへこたれずに頑張れたんですけど。でも人って不思議なもので、十個の良い意見があっても一個の悪い意見ばかりに目が行ってしまうんですよ。見ないフリをしようとしてもどうしても気になってまた見に行っちゃって、それでまた傷付いての繰り返し……ふふっ、馬鹿ですよね」


「そんなことはーー」


 フォローしようとした言葉は、一時でも姿の見えない加害者に加担していた自分への恥ずかしさから続いて出て来なかった。

 吐いた唾は呑みこめない、それは誰かに悪意として降りかかる。

 亜梨子ちゃんの自嘲めいた笑顔を前にして、そんな当たり前のことに今さら気付いて愕然とする。


 きっと彼女に対してネガティブなコメントを投稿した人達も、その大半は罪の意識も無くまさか当人が見る可能性があるなんて思いもしないのかも知れない。

 でもSNSに投稿するってのは鍵垢にでもしていない限り誰にでも見られる可能性があるということだ。

 それは道の真ん中でメガホン片手に大声で誰かの悪口を吹聴して回るのとやっていることは変わらないし、どころか匿名で簡単に発信出来てしまうからより悪質だ。

 そのくせ悪口を言われた側が反応すれば「SNS適正がない」「みっともない」「有名税だから我慢しろ」だなんて追い打ちするのがネット民の怖さだ。

 その身勝手な言い分に月城亜梨子は好きなように罵られ、苦しめられ続けていたのか。


「そんなことを続けていたから夜も上手く寝れなくなって、お仕事にも悪影響が出始めちゃって。マネージャーに相談したりお医者さんにも通ったんですけど根本的には解決できなくて。……そんなある日、いつものようにネットを見ていたらある人の呟きに目が留まったんです」


 長く暗い、出口も分からないトンネルの中にいるように思えた当時の彼女が置かれた状況。

 けれどそこまで語った亜梨子ちゃんの顔には自嘲ではなく、心からの笑みが溢れていた。


「毎日毎日私のことを呟いてくれているから、その人の名前は憶えていたんですけど。改めて一つ一つ投稿を遡ってみたら本当に私のことばかり呟いてて思わず笑っちゃって」


 自分に向けられた悪意で疲弊しきった亜梨子ちゃんにとって、その出会いはまさしく僥倖だったのかも知れない。


「このアニメのワンシーンでは演技が工夫されていて良かったとか、私が見て欲しい声のお仕事をちゃんと見てくれて。体調が悪かった日のラジオ収録回が放送された日は隠したつもりだったのに気付いてくれて。……だからかなぁ、悪いことがあった時は自然とその人の投稿を見に行くようになりました。不思議とその人の呟きを見た後は重い気持ちを引きずることも無くなって、以前みたいに楽しく仕事が出来るようになったんです」


「へぇー……知らずに推しの役に立てたならその人も喜んでそうですね」


「うふふ、そうですか? だといいんですけどね♪」


 素直に感心していると、亜梨子ちゃんは僕を見て意味深に笑った。

 そして、ずいっとテーブルに身を乗り出すとおもむろに僕の手をきゅっと握った。


「え、ちょ」


「その人のおかげもあって症状も大分落ち着いたんですけど、私は習慣的にその人のことを毎日追うようになっていました。この人なら私のことをちゃんと分かってくれる、そう思って」


 僕の目を覗き込んで話を続ける彼女。

 何だか風向きがおかしい。記憶の中の『その人』の話をしているはずなのに、これじゃあまるで。


「その内どうしても我慢出来なくなったんです。外から眺めているだけじゃなくて、この人と実際に話してみたいって」


 戸惑うばかりの僕は、亜梨子ちゃんの続けた次の一言に息を呑んだ。


「だから私は新しいアカウントを作って別人になりきることにしました。というハンドルネームで」


「えっ、じゃあまさか」


 もうそこまで明かされれば流石に僕でも分かった。

 彼女がリドルくんに扮していた理由も、語っていた『その人』の正体も。

 それはまさしく、


「おーたむーんさん。私ね、ずっとこうして貴方と話してみたかったんです」


 僕自身のことだったのか。

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