第8話 リドルくんの秘密(上)
本日のメインイベントを終えて、僕は現場近くの喫茶店に腰を下ろしていた。
ぐるりと店内を見渡してみると昼過ぎとはいえ休日だけあって満員とまでいかないが中々に盛況みたいだ。だからか入店したら店員さんにはカウンター席を勧められたけど、後からもう一人来ると伝えたら二人掛けの席に案内してくれた。
待ち合わせの相手というのはリドルくんだ。余韻に浸りながら会場を出て何となしにスマホを見ると行方知れずになっていた彼女からのメッセージが来ていて、突然姿を消したお詫びと一緒に打ち上げを兼ねてオフ会をしませんかーとここの地図が添えられていた。
僕も丁度誰かに話を聞いて貰いたい気分だったし、用事が済み次第合流するというリドルくんを待っているというわけだ。
それにしてもこう言うとなんだけど、同じオタクのリドルくんが待ち合わせ場所に選ぶ店なら気構えなく入れる店だろうとタカをくくっていたのに店内はクラシックな内装で客層も素人目にもブラント物と分かるお洒落な服装の若い女性客が多い。
髪を切って新・新戸秋良にアップデートしていなければ浮くどころの話じゃなかったかも。
小腹が空いたので注文したサンドイッチを啄みながら、ふと頬に手を当ててみる。
伝わってくるのは当然だけど節ばった自分の手の感触でーーつい半刻ほど前に感じた柔らかさとは似ても似つかない。
(僕……キスされたんだよな)
いわゆるマウス・トゥ・マウスではないけど、キスと呼んでも間違ってはいないはず。
あまりの衝撃に会場を出てから今までずっと実感がわかなかったけど、こうして腰を落ち着けて冷静になると徐々にあれが現実だったんだって飲み込めて来て。
あの亜梨子ちゃんが、僕にキス……を……。
「うわあああああああああああぁぁ!!!」
意識してしまうと途端にむず痒い感覚に襲われる。
感情が昂って思わず大きな声を上げて店中の視線を集めてしまい、二重の意味で恥ずかしくなった僕はぺこりと頭を下げて謝るとテーブルに突っ伏して真っ赤になった顔を隠した。……やっちゃった。
でも分かって欲しい、生まれてこのかた15年間女っ気もなくオタク街道を歩んで来た僕にはほっぺにチューをされた程度でも刺激が強すぎた。まして相手が相手だ。
脳ミソはもうショート寸前、顔から火が吹き出しそうに熱い。
それもこれも急に亜梨子ちゃんがあんなことしてくるからっ!
しかもおーたむーんさんのおかげで頑張れるとかとか言われたらチョロオタの僕じゃ思わず勘違いしてしまいそうになーー…………………って、あれ?
はたと気付く。
僕、亜梨子ちゃんに
記憶が定かじゃないけど緊張の極みにいた僕は亜梨子ちゃんにまともに名乗ってないはずだ。
もし別の誰か僕の名前を聞いたとしても顔と一致させるのは不可能に近い。なぜなら僕はSNSに自分の写真はアップしてないし、実際に顔を合わせたことのある人にしてもほんの数日前に別人と思うレベルでイメチェンした僕を以前と同一人物とは分からないはず。
今の僕を見ておーたむーんだと即答出来る知り合いはイメチェン前後の姿を知っている湊さんか、他にいるとするならーー
「ごめんなさいお待たせしました!」
考え込んでいた僕はその声で顔を上げた。
ようやく待ち人来たる。深々と被ったキャスケット帽に季節外れのトレーナーと長ズボンという出で立ちのリドルくんがそこにいた。
「ううん待ってないよ。実はお店の場所にちょっと迷っちゃってさ、結構さっきなんだよね着いたの」
待ち合わせの定番っぽい台詞を図らずも使ってしまったけど、迷ったのは本当。しかもちょっとどころではなくかなり迷った。
最終手段で勇気を出して近くのお店に入ってここの場所を聞いてみたら、道を挟んですぐの目と鼻の先だったもんだから道を訊ねたおばちゃんにはそれはもう不思議そうな顔をされて恥ずかしかった。
「そうだったんですか? 会場からは一本道だし分かりやすいかと思ったんですけど」
「ぐはっ!?」
一本道、一本道かぁ……そっかぁ……。
「おーたむーんさん!? ど、どこか具合でも」
「いや、気にしないで。ちょっと自分のダメダメさに打ちひしがれてるだけだから……」
「は、はぁ。そう言うなら。あ、すみませんご注文をーー」
向かいの席に腰を下ろしたリドルくんは手慣れた様子で店員さんを呼ぶと自分の分を注文している。
頼んでみようかと一瞬悩んだけど商品名が長すぎて断念したなんちゃらかんちゃらフラペチーノみたいな飲み物に、これまた長ーいトッピングのパンケーキ。
ぶっちゃけお洒落な店の雰囲気から彼女の格好は浮きまくっているのに、まるで動じた風でもない。
「……リドルくんってこの店常連だったりするの?」
「まあ、そうですね。月に一、二回くらいは来てるかもしれません」
「へぇ。東京住まいなんだっけ?」
「違いますよ。ただ用事でこの辺りにはよく来るので、それで」
東京の喫茶店にそこそこのペースで通うならてっきり地元かと思ったけど違うらしい。
この辺りは今日みたいによくアニメ関係のイベントも開かれているからリドルくんの用事ってそれかな。
少し気にはなるけどあまり根掘り葉掘り聞くのもデリカシーがないし想像するだけに留めておこう。
「それよりおーたむーんさんっ、イベントはどうでした? 楽しめましたか?」
「うん、最高だったよ。あんなに至近距離で亜梨子ちゃんを拝めたし言うことないよ!( ……まあ色々ありもしたけど)」
色々の密度が濃すぎて今も悶々としてはいるけど、概ね最高のイベントだったのは間違いない。
僕がそう答えると、リドルくんはキャスケット帽に隠れて鼻から下しか窺えない表情をパッと華やかせた。
「良かったぁ! そう言ってもらえるとお誘いした甲斐がありましたっ」
「ホントに助かったよ。リドルくんに声かけてもらえなきゃ全落で詰んでたし」
「ふふふ、おーたむーんさんにはボクもたくさん助けて貰ってますから。持ちつ持たれつ、ですよ」
リドルくんはそう言ってくれるけど本当にそうかなぁ?
持ちつ、の部分は僕視点では今日みたいに当選券を貰ったりだとか普段からも色々良くしてもらってるから分かる。
ただ、持たれつの部分を僕が出来ているからはなはだ疑問だ。
普段チャットでやり取りしている時も他愛ないアニメや亜利子ちゃんについてのトークがばっかりで、何か相談されたり励ましたりした覚えもとくにないし。
「僕、リドルくんに何かしてあげたこととかあったっけ。正直甘えっぱなしな気がしてさ」
僕としてはなんの気なしに訊ねたただの疑問だったのだけど、リドルくんの反応は劇的だった。
両手を重ねて胸に置いて、ふんわりと柔らかく微笑んだ。
「してもらいましたよ。ううん、してもらっています。今もずっと」
「今も? ちなみにそれって何なの?」
ただこうして喫茶店の席に座って向かい合って話しているだけの時間が、リドルくんにはそれほど特別な事なんだろうか。
彼女は顎に指を当てて少し考え込む素振りを見せると、なにか良いことを思い付いたのかニヤっと口角を上げた。
「教えてあげてもいいですけど、その代わりおーたむーんさんのこと質問させてください。それでボクが満足したら教えてあげますよ♪」
「ええ? いいけど特に面白い事とかないよ、僕。普通の学生だし」
「いいんですっ、ボクには大事なことなので!」
フンスフンスと鼻息荒く迫るリドルくんに押し切られる形で僕は首を縦に振っていた。
とはいえ言った通りに波乱万丈な人生を送って来たわけでもないし家族構成も学校での生活も、友人関係や所属している部活、子供の頃のエピソード等々聞かれてもとくに面白味のある回答はないわけでして、これで果たして彼女は満足なのかと半ば心配していたけどリドルくんは終始楽しそうに僕の話に耳を傾けていた。
その内にリドルくんが頼んでいた注文も届いて、フォークを片手に質問は続く。
「え、おーたむーんさんメメズの冒険の二次創作小説とか書いてたんですか!?」
「う、うん。そんな大層なものじゃないけどね。全然閲覧数も増えなかったし」
「えーでも書いただけでも凄いですよ! ボクも読んでみたいなぁ」
「勘弁してよ……書いたの中学生の頃だから文章もボロボロでさ、たまに読み返すと死にたくなるんだぁ」
リドルくんが質問してそれに僕が答えるという流れだったけど、いつの間にやら普段チャットでしているような日常トークになっていた。
リドルくんはまだ敬語のままだし少しぎこちなさも残るけど、いつもの空気感が戻ってきたようで嬉しい。男女で友情は成立しないなんてよく言うけどそんなことはないはずだ。
「でも本当にメメズの冒険が好きなんですね。おーたむーんさんって」
僕が友情の素晴らしさを噛みしめていると、リドルくんがそう呟いた。
「まあねー。漫画もアニメの円盤も全部持ってるし」
「あはは、そういえば言ってましたっけ設定資料集も持ってるって」
「ああイベントの時の。聞こえてたんだ」
「すごく目立ってましたから。一番好きなキャラクターはやっぱりテンシですか?」
何気ない会話。だけどその一言が僕の耳に引っ掛かった。
「そうだけど……それ僕言ったっけ」
「言ってましたよ? 亜梨子ちゃんと握手してる時に」
たしかに、設定資料集の下りはジェスチャーゲームで話した記憶がある。けど、その時にテンシの話には触れなかったはず。
したとすれば確かに握手会くらいでだけど、それをリドルくんが知る術はないはずだ。
「でもリドルくんって、あの時は会場にいなくなかったっけ……?」
そう彼女は確か会場内にいなかったはずだ。リドルくんを探したけど見付けられなかったから僕は列の最後尾に並んでいたのだから。
「いえ、いましたよ。おーたむーんさんのすぐ近くに」
「近く?」
「ええ。
そんなはずはない。握手をした後は会場の外に誘導されていたから、最後尾の僕の番になった時には会場内に他のファンは残っていなかったはずだ。
僕の他にあの場にいたのは大橋さん含むスタッフさんと、あとはーー
(まさかっ……いやっ、そんな馬鹿なことあるわけがっ!?)
「うふふ、ようやく気付きましたか?」
考え得る可能性に行き着いた僕に、もう姿を偽るつもりもないのかリドルくんは既視感を覚える小悪魔のような笑みを浮かべた。
少年のように低くしていた声も今は別人のように高くなり、それは僕の良く知っている声に似ていた。
目深に被ったキャスケット帽を取ると、癖のない黒髪のストレートヘアがバサっと背中に広がる。
掛けている古めかしい無骨な眼鏡は変装用だろうか?
だとしたらその効果は期待出来ないかもしれない。少なくとも僕には一目で彼女が何者なのか分かった。
「さっきぶりですね、おーたむーんさん。リドル・リデル改め、月城亜梨子です♪」
ずっと男の子だと思っていたフレンドの正体は女の子だったうえに、しかも僕の推し声優でした。
これ、なんてアニメ?
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