第7話 無月(むげつ)
「お嬢様、お庭の剪定終わりましたよー。皆さん帰られました」
脚立を担いだ職人たちが、軽く会釈をしながら裏口から出ていくのを見送って、ミツは離れに声を掛けた。
自宅よりも庭が広い瑞嶋家は、もとはこの倍以上の敷地を持っていたらしい。
区画整理の折に、管理しやすいようにと敷地を分けて、自宅周りを除いた区画を手放して、現在の形になったらしいが、ミツが初めてこの屋敷に勤めに来た日は、庭の広さにただただ圧倒されて終わってしまった。
手入れの行き届いた日本庭園ではあるが、これだけの広さを一人で庭掃除するだけでも一日仕事である。
木斛や赤松、どっしりとした犬槇を中心に、ヒイラギモクセイやユズリハの常緑樹が植えられた庭のそこかしこに季節の花々が咲き乱れており、落ち葉の季節には紅葉の雨となるだろう美しくも厄介な強敵を睨みつけるミツに、引退する家政婦は、庭仕事は定期的に業者に頼んであるから、掃き掃除は落ち葉が酷い時くらいで良いと言われて心底ほっとした。
20年近く家政婦を務めていた先輩家政婦は、定年を機に夫と田舎に引っ越すことになり、代わりにと二代目を任されたのが、紹介所に登録して3年目のミツだった。
当時はまだ先代も瑞嶋夫人も健在で、一時のような華やかさは無かったものの、瑞嶋画廊は地元では有名で、アートギャラリーでは季節ごとに様々な芸術家の作品展が開催されていた。
件の多貴子お嬢様は、その頃から年末年始以外にもしょっちゅう一人娘を連れて実家に顔を出しており、そのたびに先代は嬉々として娘と孫娘を連れて出かけては、知人友人たちとの交流を図っていた。
そのおかげで、どうにか代替わりを終えた後の瑞嶋画廊は体面を保てていたのだ。
働き始めたばかりのミツの目から見ても、先代の愛情は一心に娘と孫娘に向けられており、お世辞にも出来がよろしくない長男への態度は冷ややかなものだった。
先輩家政婦の話によると、早くに亡くなった瑞嶋夫人が夫を支えてどうにか経営が成り立っているような状況だったそうなので、脳梗塞で妻に先立たれた矢先、後を追うように先代も亡くなった瑞嶋の苦しい心情は容易に想像できる。
多貴子の帰還は、そこにさらに追い打ちをかけたに違いない。
あの頃の屋敷の空気は、思い出すだけでも身震いする位ほど寒々しいものだった。
父親に甘やかされて贅沢の限りを尽くして生きて来た生粋のお嬢様が、夫を棄てて舞い戻り、全盛期と同じように好き勝手振舞えば、それはもう地獄絵図にしかならない。
張り詰めた空気を縫うように食事を終えて早々に部屋に戻る由宣と、所在なさげに母親の隣に張り付いて黙り込む瑠璃の姿は見ていて痛々しい程だった。
深見家の失墜を嘆いて泣きついて来た娘に、先代は個人資産の一部を手渡し自由にさせた。
萎れていた花は見る間に晴れやかに甦って今度は蝶の如く方々へ飛び回るようになり、それは先代亡き後も変わらなかった。
瑞嶋家の利用価値がなくなれば、譲り受けた遺産で別の居場所を見つけるだけだとはっきりと豪語した彼女の清々しいまでの笑顔には欠片の罪悪感も見当たらなかった。
本格的に瑞嶋家での生活を始めてからの多貴子は、由宣との折り合いこそ悪かったけれど、雇用主の家人として家政婦に接する彼女は、決して傲慢では無かった。
勿論気位は高く、細やかな注文は多かったけれど、目下の者に対する配慮は忘れない人間だったのだ。
ミツが居室を整えれば丁寧にお礼を口にして、無理を頼む時には蠱惑な瞳を揺らして謝罪もするし、心付けを忘れた事も無い。
彼女の中では自分とミツの間に明確な線引きがなされており、雇用主の家人として軽んじられるような振る舞いをすることは決してなかった。
だから、亡くなった今も、ミツは多貴子を嫌いではない。
あの性分が瑠璃にも多かれ少なかれ遺伝しているのではと思っていたが、何年経っても瑠璃は穏やかで控えめ過ぎるくらいだ。
その容姿こそ、多貴子の色を濃く受け継いでおり、癖のない黒髪と吸い込まれそうな深い瞳は見るものを惹きつけて離さないが、それ以外は驚くほど普通の年頃の女性である。
生粋のお嬢様によって育てられたお嬢様は、生活能力こそ低く、自炊能力は無に等しいがそれを除けばどこに出しても恥ずかしくない淑女だとこっそり思っている。
本来ならば、小さな町のアートギャラリーと、自宅と画廊を往復するだけの毎日で終わるような人物ではないはずなのだが、幼少期から現在に至るまでの彼女の複雑な事情が、瑠璃を内向的な性格にしてしまっていた。
瑠璃さえ良ければ未だに恋人を作る気配のない次男坊の嫁にとお願いしたいくらいだが、そんなことをしようものなら、ミツはその日のうちに仕事を失う羽目になる。
ここ数年のうちに、瑞嶋家の責任者は、忠宣から、西園寺緒巳にとって代わられていた。
「はーい!」
庭に人の出入りがある日は、縁側も締め切って外に出ない瑠璃である。
彼女が人前を嫌う理由は何となく理解しているので、ミツも無理に母屋に呼び出すようなことはしない。
まさか庭師に深見と繋がりのある人間がいるとも思わないが、車で二時間程の距離に住んでいるのだから過敏になっても仕方ない。
年頃の娘をここまで引きこもりにさせてしまった深見家と瑞嶋家の闇を思うと、ミツは時々やりきれなくなる。
「お茶、縁側がよろしいですね?」
「あ、ごめんなさい!」
古びた掃き出し窓を開けながら、申し訳なさそうに言って、瑠璃が慌てて座布団を二枚引き寄せた。
「ミツさんも!一緒にお茶しますよね?」
「そうさせて頂いてよろしいですか?旦那様も囲碁クラブですし」
西園寺の介入以降、明らかに景気の良くなった瑞嶋は、アートギャラリーの業務提携以降次々と広げていた事業から手を引いて、最終的には瑞嶋画廊だけが残った。
それさえ趣味の一環として店を開けているだけのようで、昔のように役所の人間や、地元企業の役員が尋ねて来て絵画の手配を依頼してくるようなことはない。
ミツが勤め始めてから今が一番穏やかで平和な瑞嶋家である。
毎日眉間に皺を寄せて、届けられる督促状を睨みつけていた瑞嶋を見ていたミツとしては、これで良かったのだと思っている。
アートギャラリーの業務提携の他に、具体的に西園寺がどこまで瑞嶋家に関わっているのかを知らされていない瑠璃が、家の中から消え去った不穏な気配にホッと表情を柔らかくしたことが、すべての答えだったのだ。
そしてそれは、西園寺にとっても、瑞嶋にとっても同じことだった。
「勿論です。叔父さん最近お誘い多いですよね」
「ちょうどほら、同世代の方が多く引退されて暇になってるから」
離れにはユニットバスは設置されているが、台所はない。
電気ポットは常に置いてあるが、ミツがお茶の時間に離れに顔を出す時にはいつも母屋の鉄瓶で沸かしたお湯を持ち込むようにしている。
昔から貧血気味の瑠璃の鉄分補給のためだ。
西園寺が顔を出すたびにお土産といって置いて帰るお茶菓子やティーバックは、巷で話題の新商品だったり、若い女性に人気の限定ショップのものだったりするのだが、この辺りに散りばめられたいじらしいアプローチを、当の本人がどこまでちゃんと受け止めているのかが未だに謎だった。
いち家政婦の立場であれこれ口を挟むわけにもいかないし、元から言葉数の多くない瑠璃が、そんなことを自分に打ち明けるはずもないと思っている。
が、長年側で見ていれば、彼女が胸の奥に押し込めた意識がどちらに向いているのかはちゃんと見えて来るものだ。
「由宣兄さんもお婿さんに行っちゃったし、張り合いを失くしちゃったのかしら。私が誰か美術品に詳しい人をお婿さんに貰って、お店を継ぐのも構わないって言ってみたんだけど・・・」
レモングラスのハーブティーをカップに注ぎながら、ミツは思わずポットを落としそうになった。
「そ、そんなことおっしゃったんですか!?」
「うん。だって一応私も瑞嶋だし、叔父さんが画廊を残したいならそれもありかなぁって・・・でも、真っ青になってそんなつもりはないって宣言されちゃったけど」
「当然ですよ!旦那様が今もお店を残されているのは昔馴染みが時折尋ねていらっしゃるからで、売り上げを上げるためではありませんからね」
これが万一西園寺の耳にでも入ったら大事である。
「ちなみにお嬢様。そのお話西園寺さんにされました?」
「あ、うん。だって私趣味で絵を描いても、画廊経営の知識なんて全く無いし、ほら、彼一応アートギャラリーの館長だから、相談するならあの人しかいないでしょう?」
けろりと言われてミツは綺麗な秋晴れの空を仰いだ。
「相談したんですか!?何てこと!」
「そんなに驚くことですか・・・?一番の適任者だと思ったのに・・・」
「な、なんておっしゃってました?西園寺さんは」
「私が画廊を続けたいのかって訊かれました。私がって言うより、叔父さんの気持ちを尊重したいって言ったら、ちゃんと話をしろって諭されて」
「で、旦那様から継がせるつもりは無いと言われたと」
「そうです・・・まあ、私じゃあ役には立ちませんよね」
残念ですけど、とぼやいた瑠璃の横顔を見ながら、ミツは顔面蒼白になった瑞嶋と西園寺の顔を思い浮かべて、小さく息を吐いた。
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