第6話 三日月
瑞嶋画廊は、華族制度が根付いていた時代に、先々代が趣味で集めた古美術品を展示するために個人的な道楽で始めた店である。
当時の瑞嶋家は潤沢した資産と土地を保有しており、当主は長兄にこそ跡継ぎとして厳しい教育と経営学を施したが、それ以外の息子達には兄を支えること以外はほぼ何も求めなかったようだ。
海外で買い付けた美術品や絵画を好事家たちに売っては小遣い稼ぎをしていた先々代は、瑞嶋画廊の拡大や発展は何も考えていなかったらしい。
瑞嶋画廊が、アートギャラリーを開設したのは先代の頃なので、一人息子は父親とは打って変わって野心家だったのだろう。
地元の施設にいくつもの美術品を提供し、当時建設が始まったばかりだった役所の正面玄関に海外でも名前が売れ始めた若手画家の大型アートの展示を提案したのも先代だったと聞くから、かなりのやり手実業家であることに間違いない。
残念ながらその素質は、嫡男に受け継がれることは無く、野心だけは子供たちに平等に分け与えられた。
才気活発な長女の多貴子を、先代が溺愛していた話はいまだに語り継がれており、深見家との婚礼の際には町外れまで花嫁行列が続いて、豪華絢爛な打掛姿を目にした高齢の地元住民たちは、昔この辺り一帯を治めていたという城主の娘、喜代姫のようだと褒め称えた。
多貴子の弟、
結局初代同様、小さな画廊の店主に舞い戻った瑞嶋は、憑き物が落ちたように柔和になり、いまはただの気のいい中年男性である。
恐らく、これが彼本来の性格で、悉く商才に恵まれなかったことと、父親を超えようと野心を抱いたことを除けば、平凡で善良な人間なのだ。
すでに瑠璃の害悪になる要素は綺麗に取り除いてしまったので、ただの保護者代わりとして、今は一時的に側に置いている。
大正ロマンを思わせる古びた引き戸を開けて中を覗くと、油絵具と埃を吸ったキャンバスの匂いに包まれた。
西園寺が自分の立場を明確にしてこの場所を訪ねるようになってからは、この店で他の客と顔を合わせた事は殆どない。
時折、店主の囲碁仲間が暇つぶしに顔を見せる程度だ。
定休日を設定しておらず、気まぐれに店を開けているようで、西園寺自身もいまだに開店時間も閉店時間も知らない。
時々瑠璃が叔父に店番を任されることがあるのでそのタイミングで顔を見せる事のほうが最近は多かった。
瑞嶋自身もその方良いだろう。
「いらっしゃい・・・!西園寺さん」
店の奥から顔を出した瑞嶋が一気に顔色を悪くする。
思ってみれば、彼から笑顔を向けられたことは一度もなかった。
が、別に必要としていないのでどうでもよい。
「こんにちは」
「きょ、今日はどのような御用で?瑠璃でしたら、今日も離れに・・・」
「もうさっき顔見てきました」
「そ、そうですか!それは良かった・・・」
「こないだ議員さんの集まりに顔出したんですけど、
底辺が見えるところまで下降した瑞嶋家の財政を助ける代わりに、結婚までの間の瑠璃の保護を条件に出した。
どちらかというと、西園寺としては、瑠璃を一時的に預けるために、瑞嶋家の救済を買って出たのだが。
本人が自覚している以上に世間知らずな彼女が、無謀な一人暮らしを始めることを阻止する為には、どうしても瑞嶋家が必要だったのだ。
強引に西園寺に引き取ることも考えなかった訳ではないが、さらに瑠璃との関係がこじれる事を恐れて、次点にしていた策を選んだ。
表向きは、歴史あるアートギャラリーに今以上の価値を与える為の業務提携。
けれど実際の所は完全な買収である。
瑞嶋家が保有していた負債と合わせて、必要最低限のもの以外は根こそぎ西園寺が奪ってしまった。
結果、瑞嶋は唯一残った自宅と画廊の所有者兼瑠璃の保護者に収まった。
瑞嶋と瑠璃の関係が、叔父と姪のままで続いているのは、彼の裏切りを瑠璃が知らないままだからだ。
彼女が、先代が残した遺産に興味を示すとは思えないが、修復不可能なまでに亀裂が生じた姉弟関係を間近にしていた瑠璃に、さらに追い打ちをかけるような事はしたくなかった。
本当の慈愛に満ちた母親とは言い難かったかもしれないが、唯一の拠り所を失くした瑠璃が、最後に家族と呼べるのは、叔父と従兄だけなのだ。
西園寺としては、捕まえ損ねた瑠璃の受け入れ先として、瑞嶋を選ばざるを得ない状況で、ほんの一時預かりのつもりで瑠璃を託したわけだが。
結局あの夏の日から、5年が過ぎてしまった。
取引先に向けるような笑顔で息子の様子を語って聞かせた西園寺に、瑞嶋は恐縮しきって頭を下げた。
「ええ、ええ。それはもう!良いご縁を頂けたと思っております。息子も美術品に向かうより今の仕事の方が性に合っているようでして」
「それは良かった」
順当に行けば、瑞嶋家を継ぐ予定だった一人息子に、入り婿先を紹介したのは他でもない西園寺だ。
一緒に出掛けた瑠璃を自宅に送り届けるたびに見過ごせない視線を向けて来る同世代の男を放置できるわけも無かった。
西園寺としては、瑠璃を瑞嶋の一人息子にやるつもりなんて毛頭なかったが、同じ敷地内に住んで毎日のように顔を合わせる従兄より近い距離にはどうしたっていけない。
絶対にあるはずがないが、万一瑠璃が、由宣に惹かれるようなことになったら目も当てられない。
常に彼女の心を手元において守れれば良いが、天地がひっくり返ってもそんなことは起こらない。
だから、早々に手を打つ事にした。
取引先企業の重鎮が、可愛がっている孫娘の結婚相手を探していると聞きつけて、彼女の父親である県議に、由宣を優秀な秘書として紹介したのだ。
瑞嶋の片腕としてアートギャラリーの運営に携わっていた由宣は、祖父の亡霊に取り憑かれたように事業の拡大を図る父親を客観視する冷静さと、落ちぶれても尚父親と家を守ろうとする責任感を兼ね備えた、ある意味好人物だった。
サポート役にこれ以上の適任はいないと胸を張った西園寺の読み通り、彼は議員秘書としての役割を全力で全うし、県議の覚えもめでたく昨年入り婿になって、瑞嶋を棄てた。
妻である秦夫人との仲も良好な様子だったので、これもある意味ハッピーエンドだろう。
一足飛びに距離を詰めた後、するりと逃げられて結局5年もの間指を咥えているしかない自分の立場を思うと、非常に恨めしくはあるが。
瑠璃は、急によそよそしくなった従兄の態度を最初のほうこそ訝しく思っていたようだが、恋人が出来たせいだとすぐに納得したようだった。
彼に向けては親愛の情以上の感情が向いていないことを慎重に確かめて、初めて西園寺は自分の選択が間違っていなかったと確信が持てた。
これが万一薄っすらとでも瑠璃が由宣に想いを寄せていたならば、この道を選んだ自分を呪い続けていたに違いない。
瑠璃の胸を傷める原因を作った自分を、許せなかったに違いない。
それくらい、西園寺は瑠璃に甘いのだ。
自分の以外の誰かに向けられる思慕なんて捨ててしまえとどれだけ言いたくとも、瑠璃が傷つく可能性を僅かにでも考えてしまうと途端動けなくなる。
あの日、数時間のずれが生じたせいで自分たちの未来が離れてしまったことを自覚しているからこそ、尚更瑠璃に関しては慎重になるし臆病にもなる。
一度手に出来た現実を瞬きの一瞬で奪われる恐ろしさ知ってしまったのだ。
「ところで、この前瑠璃が色付けした絵、まだ置いてあります?」
当然保管されているだろうな、と言外に告げれば、瑞嶋はこくこく頷いてみせた。
持ってきましょうか?という問いかけに首を振って断りを入れる。
「すぐ無くなったことに気づかれたら面倒やから。また今度で」
「承知しました」
祖父が残した離れで見つけた画材を使って、瑠璃が見よう見まねで日本画を始めたと聞いた時真っ先に彼女の絵を欲しがったのは西園寺だ。
当然瑠璃は、人にあげられるほど上手くないと断った。
が、絵を描くこと自体は性に合ったようでその後も趣味で少しずつ庭の草木のスケッチに色を付けるようになり、それとなく瑞嶋から店の片隅に展示する事を勧めて貰い、ほとぼりが冷めた頃に西園寺がこっそり譲り受けて持ち帰っているのだ。
瑠璃に尋ねられた時には、日本画が好きな知人が他の作品と一緒に持ち帰ったと伝えて貰っている。
こんな涙ぐましい努力をせずとも、西園寺は自分の隣でのんびりと絵を描いて過ごす瑠璃を手に入れているはずだったのだ。
奇跡が起こってタイムマシンが発明されたら真っ先にあの日に飛んで、絶対に瑠璃を手放すなと過去の自分をどやしつけてやるのに。
あの子の気持ちを確かめた後は、遠慮も加減も忘れて抱き潰して朝まで動けなくしてしまえと、必死になって諭すのに。
甘ったるい余韻に浸って、苦い現実と立ち向かう覚悟を持って目覚めれば、そこに待っていたのは真っ新な未来ではなく、無言の別離。
絶望は本当にあるのだと思い知ると同時に、底なし沼の恋に落ちた事も知った。
取り返しのつかない大切なものが、今まさに手元から逃げて行ったのだと。
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