第5話 雨月(うげつ)

父と兄がどれくらいの野心を持って深見という家を大きくしようとしていたのか、そのすべては分からない。


物心ついた頃には、10歳年上の兄は既に大人の顔をして父親の隣に立っていたし、父親はそれを誇らしげに眺めることをあれど、瑠璃に何かを期待する眼差しを向けた事は一度も無かった。


その代わりに母親からの期待と愛情は溢れんばかりに浴びせられて来たので、母親が選んだ名門女子校への中学受験が決まった時も、必要なカリキュラムのスケジュールを分刻みで設定された時も、そういうものなのだろうと思っていた。


年の離れた兄よりもずっと瑠璃に近くて、けれど同世代の子供程幼くもない。


関わったことの無い世代の男の子、それが西園寺緒巳だった。


母方の祖母がクォーターだという彼の蝋色の柔らかなくせっ髪と澄んだ青が混ざった青褐 《あおかち》色の瞳は、どこか異国の王子様のように思われて、モノクロの世界が一気に華やいで見えた。


年を重ねるごとに彼の容貌は落ち着いた深みある黒髪に変わったけれど、瞳の色だけは日差しの下で見ると青みがかって見えて、それを確かめるたびにドキドキした。


幼心に芽生えた恋は、雨のように降って募って、同世代の男の子をきれいに素通りして育って行った。


中等部から女子高に入ったせいもあって、異性との接点が極端に少なかった瑠璃の異性の基準はこの頃すでに西園寺緒巳のレベルに設定されていた。


長期休暇ごとの集中講座で出会う同世代の男の子からのアプローチを歯牙にもかけない瑠璃の一途さは友人たちの間では有名で、祖父と彼の伯祖父が交わした口約束は、瑠璃にとっては永遠の片道切符同然の価値を放っていたので、ほかの未来なんて一度も望みはしなかった。


それくらい、世界は彼で埋め尽くされていたのだ。


父親の無関心とは反比例する母親の過干渉は、実のところ愛情ではなく、自分の小さなレプリカをただ愛でているだけなのだと、心のどこかで気づいていた瑠璃の拠り所はこの時すでに一人だけになっていた。


彼は、初めて瑠璃を一人の女の子として認めてくれた人物だった。


今思えば、当時の西園寺は瑠璃を可愛がってくれてはいたけれど、そこには欠片の恋情も見当たらなかった。


当然といえば当然である。


瑠璃が一心に乙女心を震わせていた11歳の頃、彼は思春期真っただ中の17歳。


どれだけ大人ぶって見せたって特殊嗜好でも無い限り小学生に惹かれるわけがない。


いつだって当たり障り笑顔で瑠璃の機嫌を損ねないように言葉を選んでするすると逃げ

けれど、それで十分だったのだ。


西園寺のことが好きな自分と、彼に一度でも認めて貰えた自分、瑠璃の根底にはいつだってそれだけが強い光を放って、今にも落ちて来そうな重たくて窮屈な現実を支えていた。


瑠璃が西園寺の態度の変化に気づいたのは、彼女が高等部に入った頃からだった。


大学を卒業した彼は、予定通り西園寺の後継者として会社に入りそれまで以上に忙しくなった。


同じ頃、兄と父親の失策によって深見家の分家内での立場は失墜し、陰りを帯びた未来に落胆した母親は家を出て実家に戻っていた。


何の期待もかけてくれていなかった父親はともかく、瑠璃の成長を自分のことのように誇らしく見守ってくれていた母親の出奔は、思春期を迎えた瑠璃の心を深く傷つけた。


思い出したように自宅に顔を見せて、またふらりと居なくなる母親と、家に戻るたび渋面になる父親と兄の顔色を伺う生活は、瑠璃の精神を疲弊させていく一方で。


しかも、兄が志堂の不興を買った騒動の被害者が、同じ聖琳女子に通う女子高生だと知った時には、さすがにこの世を呪いたくなった。


兄は本当にどこまでも深見のことしか見えていなかったのだ。


未成年の女子高生を拐かして、怯えさせた上に、後ろ盾にとって代わろうとするなんて。


一瞬でも自分の妹のことが脳裏に過ればそんな暴挙に出られるわけがない。


瑠璃がどれくらいの期待を背負って聖琳女子に入学したのか、彼は本当にこれっぽっちも理解してくれていなかったのだ。


春の事故で両親を一度に失って、京極桜本人もひと月近く入院していたという噂は、生徒会の会議で耳にした事があった。


復学に当たって後見を引き受けた人物が、聖琳女子とも縁深い人間で、理事長を訪ねて来た際の同伴者が若い男性だったと聞いた時には、親族の若夫婦が身寄りを失くした女子高生の後見に付いたのだろうと、まるで美談ね、と他人事のように思っていたのに。


その若夫婦こそが、志堂家次期当主と、恋人の女性だったと分かったのは、兄が失態を犯した後だった。


詳細な事情は不明だが、縁もゆかりもない京極桜の後見をあの志堂一鷹が引き受けたという事は、それだけ彼女に価値があるということだ。


一番手を出してはいけない相手に、迂闊にも近づいて揺さぶりをかけた。


一歩間違えれば警察沙汰の騒ぎである。


事を大きくしたくない志堂側の意向が無ければ、今頃兄は陽の下を歩いていなかった可能性だってある。


父親と兄の、志堂への謝罪はすでに終わっていたが、京極桜との対面は最後まで叶わなかった。


志堂一鷹がそう指示をしたのか、浅海が突っぱねたのかは定かではないが、彼女の気持ちを考えればそれも納得である。


深見の名前で傷つけられたのだから、報復はあって当然。


瑠璃が、同じ学校に在籍している事を志堂が把握していないわけがない。


志堂本家の曾祖母の代に、国の未来を担う良妻賢母を育成する教育機関として、地元の名士たちの寄付金を元手に設立された聖琳女子は、開校当初はその運営の殆どを志堂一族が担っていた。


聖琳女子の設立より数年早く開校した男子校の海星学院と並んで、良家の息女が通う名門校として名を馳せた学校で、その為、自然と一族の男子は海星に、女子は聖琳に通わせるのが習わしになっていたらしい。


学力は勿論のこと、家柄と寄付金がものをいう中等部は少人数のクラス編成だった為、年始の親族会でしか顔を見たことの無い遠い親戚が何人も同じ教室に在席していた。


その中でも分家間のヒエラルキーは存在していて、分家筆頭の浅海家には娘がいなかったため、瑠璃の立場は暫定的に守られて続けていた。


高等部に上がり、外部生が入って来ると校内の雰囲気は幾らか変わったが、親戚の顔をクラスで見なくなっただけで、瑠璃にとっては他は何も変わらない。


実情は違っていても、一歩外に出れば深見家の一人娘である瑠璃の価値は一気に跳ね上がる。


浅海家に娘が生まれていたら、間違いなく志堂本家との婚姻でその地位は不動のものになっただろうとまことしやかに噂されていたが、現実浅海家の子供は男子のみ。


志堂本家は歯牙にもかけていない様子だが、浅海家を除いた分家間で、次点にはいつだって瑠璃の名前が上がって来る。


そしてそれが、瑠璃の母親、多貴子の自尊心を満たしていた。


けれど、その自尊心は、京極桜の一言でいつ踏みにじられるか分からない。


被害者である京極桜がいつ自分の教室を尋ねて来るのかと怯えながら数週間を過ごして、けれどその時はいつまで経ってもやって来ず、生殺し状態に耐えかねて、瑠璃は自ら三年生の教室を尋ねた。



『すみません・・・京極桜さんは、いらっしゃいますか?』


閉鎖的な女子高、且つエスカレーター式の名門校は、上下関係がはっきりしている。


三年生の教室をリボンの色の違う一年生がうろうろしていればそれだけでもかなり目立つ。


家柄と寄付金がものをいう女子高に、中等部から籍を置く瑠璃は、高等部からの外部生の肩身の狭さも、親の会社の業績次第であっさりと入れ替わる教室のヒエラルキーも、何度もこの目で見て来た。


彼女から、瑠璃の兄から誘拐まがいの扱いを受けたと言われた時点で、今居る立場を全て失うことになる。


自分の母校でもある聖琳女子に愛娘を通わせることが夢でもあった母親は、入学当初から何度も多額の寄付を行っており、謝恩会のたびに一番派手な差し入れを手に娘の勇姿を確かめに来る。


瑠璃が中等部から守って来た深見に対するイメージが、兄の愚かな行い一つで全て台無しにされてしまうのだ。


情けなさと悔しさでぐしゃぐしゃの気持ちのまま、それでもこの場にやって来たのは、すでに接近禁止令が出た兄と父親の代わりに、京極桜へ直接謝罪するためだった。




”我が家の春を遠ざけるようなことは、どうかしないでちょうだいね”


志堂夫人が主宰するお茶会という名の分家夫人たちとの交流会以外で、彼女が個人的に深見家を訪れた事は一度もなかった。


分家間の均衡を考えて彼女がそうしているのであろうことは、瑠璃自身もよく理解していたので、あの日の突然の訪問には本当に驚いた。


そして、深見家がどこまでその権威を失墜してしまったのか、はっきりと自覚した。


志堂夫人が直々に顔を出すような事態を兄たちは引き起こしたのだ。


学校から帰宅した玄関先で、見送りに出て来た真っ青な顔色の母親と、薄藤色の流水柄の訪問着をいつも通り朗らかな笑顔で着こなした志堂夫人と鉢合わせた瞬間の惨めさといったらなかった。


突然お邪魔してごめんなさいね、と微笑んだ志堂夫人が最後に母親に向かって零した一言が、決定打となった。

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